所有の軽やかな解体のために

小川直人・せんだいメディアテーク

私たちは何ものも永遠に所有することはできない。それにも関わらず、何かを大事に腕の中に抱えておきたくなる。 たとえば、一枚の絵画を買うという誤解。ライブラリー・プロジェクトは、所有という、 人々の欲望による幻想を軽やかに解体しようとする試みであるように思われる。
その試みは、コンセプトにも書かれている通り、日常生活から離れがちなアートを、 日常の最中(図書館は公共施設のなかで最も利用者数が多い場所である)に移動することで、 美術館の権威から作品と見る人を自由にしようとする試みとして現れた。 しかし一方で、アートは美術館から解放されるのではなく、その庇護から放たれるともいえる。 膨大な図書のなかに作品が埋まるとき、それらがアートであり続けられるのか、 それは作家にあらためて問われるものになるだろう。
その試みの影で、プロジェクト自身が意識していなかったかもしれないもうひとつの試みが行われている。 それは、図書館という、日常性に隠された権威を持つもうひとつの場を楽しげに浸食していることである。 春にせんだいメディアテークでこのプロジェクトが試みられようとしたとき、何事においてもそうであるように、 一時的にせよ行政のシステムに手を加えることは困難であった。しかしそれは、図書館の旧弊と非難されるべきものではない。 彼らはすでに持っている日常の質を維持するためにこの申し出を断っているにすぎない。 ただ、それは新しいことへの振動を見えないことにしてしまうときがある。 満足した現在にあらためて不確かな未来の可能性を与えようとするのは難しい。 しかしそこで、アートという、ときに曖昧で不確かなものがその価値を新たにするのである。 世界に紛れ込んだ見えない可能性を振動させることは、アートが持ちうるひとつの性質である。 ライブラリープロジェクトは、作品の集合であると同時にひとつの社会システムであるために、 私たちの手に作品を運ぶだけでなく、所有できないものを共有するプロセスのなかにまきこみ、ある種の期待を与えてくれるのだ。 これから、この期待は多くの人のもとに訪れることになるだろう。 そのときまた、所有の欲望とひそやかに戦いながら、私は作品の入った箱を返しに行こうと思う。