せんだい電子文庫 〜 メディアテーク・フォーラム ワークショップ04

1999年9月22日 水曜日 午後6時30分〜午後9時30分 仙台市役所錦町庁舎1階メディアテーク準備室にて

富田 倫生 氏

本日は、足下の悪い中、お運びいただきまして、ありがとうございます。
工作員としてご協力して頂いている方は、いらっしゃいますか? いらっしゃいませんね。それでは、お話をしていきたいと思います。
最初に、司会の方に案内をして頂いた通り、今日の催しのねらいは、ゆくゆくは「せんだい電子文庫」というような動きを作っていきたいということです。「せんだい電子文庫」とは何かというと、仙台に縁の有る作家の作品を電子化して、それを自由にインターネット上から引き落とせる(ダウンロードできる)、そういう構造を作りたいというものです。ついては、それに似通った活動をやっている奴がいると、それで私が呼ばれたような格好です。
私は、「青空文庫」と呼んでいる活動をやっているのですが、それを一つのモデルにして、「せんだい電子文庫」という動き、「青空文庫の仙台版」のようなものができていけばいいだろうな、それに道をつけていくような話をして欲しいというのが、主催者側のねらいです。ですから、「青空文庫」というのは、どんな経緯で進んできたのか。そういったことを聞いておけば、「せんだい電子文庫」の担い手として期待されている皆さんが、そういうことを進める気持ちになった時の、何かの指針なり手がかりになるのではないか、それが主催者側の意図です。その前段に青空文庫のお話をします。
それから、テキストを読みやすい形で提供するような活動をやっているのですが、私たちが提供しているファイルの形式が、どんな形でできてくるのかを、実際に少しお見せして、まぁまぁ読めるぐらいのものは、簡単に作れるということを説明したいと思います。
そこで伝たいのは、こんなに難しいということではありません。それでうまくいくといいんですが。 それではですね、「せんだい電子文庫」の雛形として想定して頂いた、「青空文庫」をインターネットの上で開いてみます。ご覧頂いたことのある方、いらっしゃいますか? それじゃちょっとやってみますね。 インターネットというのを、最近色んな人がたくさん使うようになってきました。これは、インターネットを見るためのソフトウェアで(ブラウザー)、青空文庫という場所(URL)を開いた時、最初にこういう絵がでてきます。実際に本を開くところまでやってみましょう。
「作家別本のリスト」というのがあります。試しに「あ」を押してみましょう。
著者名が並んでいますが、芥川龍之介はたくさん入っているものですから、あかさたな、はまやらわ、と、分かれています。それから、有島武郎、石川啄木、……といった風に、並んでいます。
芥川の「あ」のコーナーを開いてみましょうか。
そうすると、「秋」、「歌集」、「アグニの神」、「浅草公園」、「あの頃の自分の事」、……こうずーっと作品名が並んでいます。例えば、秋を選ぶとですね、図書カードが開かれます。
これは、図書館のシステムなどを想定して作っています。著者名、書籍名、それから、底本(意味は後で説明)、入力者、校正者と表示してあります。
その本の形と呼べばよいでしょうか、数種類のファイルを用意しています。そのうちの、「エキスパンドブック」というものをクリックしてみます。この読むための道具が起動されて、こうした文章を、ページをめくるような構造で読んでいくことができます。これが、インターネットの上で、本が読めるというおおざっぱなイメージです。
本を開いた段階でインターネットの接続は切ってしまってかまいませんから、接続時間はそれほど要しません。ここに本を開きましたが、これは「青空文庫」にあった本を複製して、ご使用のコンピュータの上にコピーを一部作ったということです。ですから、これはあなたのコンピュータの上に残っています。それと、この本は返却の必要はありません。
ですから、これを自由に読んでいけばいいし、いつでもページを閉じて、今日はここまで読んだ、続きは明日読もう、ということもできます。例えば書庫のようなものを、自分のコンピュータの上に作って、夏目漱石のファイルを全部集めておく、そんなことも可能です。
例えば、他の条件が同じで、紙の本とこのオンスクリーン(画面で見る)の本の両方があれば、私は間違いなく紙の方を選びます。要するに、いつでもどこでも、読みたいと思ったときにその本を入手できて、返却の必要もない、そういう条件がもし紙でかなうのなら、私は間違いなく紙の本を選びます。現状の技術ではまだまだ、紙の方が読みやすいと思います。けれども、どちらをとるかといわれれば、自由にアクセスできて、読もうと思ば無料で本を入手できて、返却の必要もなくてということは、かなり大きなメリットのように感じます。
こうしたものが、いますぐ紙の本を全部駆逐してしまうとか、そうしたことは、念頭にはありません。けれど、コンピュータとインターネットの力を借りて、こうしたものが用意できるというのは、面白いことではないだろうか、そう思って「青空文庫」の活動を始めました。
それで、最終的に「せんだい電子文庫」の話に戻っていきますが、仙台の地にあって、例えば、仙台の縁の作家を集めたり、仙台で埋もれている作家の作品を掘り起こすというのは、資料収集の面や、いろんな面で地元にいらっしゃる方々が担うに適当な仕事かもしれない。そうした動きが仙台で広がっていけば素晴らしい、それが、せんだいメディアテークの「せんだい電子文庫」という命名につながっているんだろうと思います。
今日、私は、皆さんの前に座って、電子図書館の仕組みがどうなっているとか、こういうことができるというお話をしていますけれども、電子図書館にはまともな専門家というものは一人もいないと思います。概念的に、こういうことをやれば電子図書館というのができるだろう、というような理屈を立てた研究者というか専門家はいます。しかし、例えば私たちの試みもその一つですけれども、実際に運用の形を、切り開いていくというのは、今まさに、この我々の世代なり時代が負っている役割だと思います。
私自身も、これを始める二年前、こういう事ができるかな、という話を始めたのが二年半前なのですが、それまでは、電子図書館の組織化だとか管理だとかいったことに関わるなんてことは、全く思ってもいませんでした。高校、中学生の頃に、原稿を書く仕事がしたいと、本を書く人になりたいと思い、その後の人生をそういう方向で組み立てていきました。ですから、ライターというような肩書きでずっと暮らしてきました。
それが、「青空文庫」に関わるようになったのには、いくつかの経緯がありました。
まず、コンピュータで読む電子の本というものを発見して、それが自分にとって非常に面白いものになり得るのではないかということを見つけました。さらに、その電子の本が、インターネット、ネットワークに結びつくと、とても面白いことが起こるのではないか、そういう二段階くらいの発見の経緯です。それについてまず触れて、そこから、もう一度「青空文庫」に戻ります。
そもそも自分が本を書く人になりたいと思ったとき、僕の頭にあった本というのは一体なんなんだろう? 本というものに、私は本質的には何を期待していたのだろうか。
その当時は電子の本なんてものは存在しませんでした。だから、私の本に対する本質的な期待は、紙の本によって実現するしかなかった。
けれども、いま私たちは別の選択肢を与られています。紙の本でやってもいいのだけれど、電子の本というもう一つの選択肢も与られている。こういう二つの選択肢を与られたときに、我々が問われているのは、きっと、このようなことではないでしょうか。
本というのは、紙の構造体のこういう冊子構造のもので、ただ一つのものだと思い込んできました。本というものの存在、機能に関しては疑いもしなかったわけです。本というのはこれ以外では有り得なかったけれども、違う選択肢が与られたときにやるべきこと、やれるかもしれないことは何なのか。本の本質的機能は何なのか。私たちは本質的には本に何を期待するのか。その期待をよく見極めて、本質に近い構造体のものを選んでいく。
そこから派生して、時代の制約、技術の制約でやむを得ず引き受けていたものは、できれば取り除いたほうがいいのではないかということ。
そうした形で、本というものの本質を見極め、再構成するチャンスを与られているように思います。そういう話に最後に結び付けて、終われば一席が完結するわけですが、さて、うまくいきますでしょうか。
わたしは、高校一年生のときに、倫理社会という科目がありました。もう今は呼び名が違っているのでしょう。ずいぶん古い話ですが、その倫理社会で、将来何になりたいかということで、ルポライターになりたいと書いたのですね。それは1960年代の半ばからちょっと過ぎたあたりの頃で、竹中労という人がいました。その人が、ルポルタージュの作品をフリーで書いて発表し、社会を動かしていくというような、テレビ番組のシリーズもあったような気がします。そういうものを見て、ルポライターになりたいと書いた記憶があります。
そんな想いが継続して、色んな道をうようよしましたけれども、結局、原稿を書くような仕事を始めました。最初は、週刊誌や月刊誌の記者のようなことですとか、それから、ライターや、ルポルタージュ作家なんて呼ばれている立場の人の、手伝いのような仕事をやっていました。その中から、自分が書きたいと思うテーマが見つかってきて、だんだん絞られていくわけですが、そのテーマの一つがパソコンでした。
僕は大学をでたのは1975年です。出版社に入りたかったのですが、どこも入れてもらなくて、結局、編集プロダクションなんていう下請けのところに入りました。そこで自分が、社会人としてのキャリアを作っていった1975年、76年、という時期は、ちょうどパーソナルコンピューターというものが、この世に誕生する時期と重なり合っていました。
75年の頃に存在したものは、むき出しの回路基板のようなものでした。今日皆さんが、パソコンといわれて思い浮かべるような、TVがついていて、箱に収まっていていて、キーボードまでついている、そんな立派なものではありません。僕が一番初めに触った頃は、電卓の「0」から「9」のテンキーが繋がっていて、表示として電卓と同じで、数字だけがでる、LEDの表示が繋がったものでした。それも、ずいぶん進化した後の話で、その前は、上下するスイッチと、点滅するランプだけが並んでいるようなものが最初のパソコンでした。
77年くらいでしたか、僕はすぐコンピューターに興味を持つようになって、趣味で色々いじるようになりました。そのうちに、パソコンの歴史学というか社会学というかそうした物に興味を持つようになりました。何故、私たちの時代に、個人がコンピューターを持つ動きが出てきて、それに反応して、個人のコンピューターが面白いと思う人が登場して、パソコンだパソコンだといって、わいのわいの囃し立てて、パソコンの流れを押し上げるようなことを始めたのだろう、と。
だから、パソコンについての原稿を書くことを仕事として始めていったわけです。
これは、私が初めて書いた、「パソコン創世紀」という文庫本の表紙を画像化したものです。画像にして持ってきたのは理由があります。それは、私がこの本を持っていないからです。見て頂ければわかるのですが、これは旺文社という会社のマークです。旺文社というのは学習参考書の「赤尾の豆単」で、一世を風靡した会社ですが、学習参考書だけではなくて、普通の一般書に出ていって、まともな出版社になりたいという動機を、旺文社は何度か持ちました。その過程で「旺文社文庫」というものを創刊した時期があります。内田百間のものなど並んでいて、結構面白い文庫だったと思います。私が最初に本を書くことになったときには、この旺文社に親しい編集者がいて、機会を与てくれたので、書き下ろしでこれを出したのです。
出したのは1985年で、発売になってまもなく、この本が書店から消てなくなってしまいました。私も見て、わざわざ目に付くようなところに移したりしましたから、本当に本屋に並んだということは確認しているのですが。
売れてなくなったのだったら非常によかったのですが、そうではなくて、「旺文社文庫」の廃刊が決まった為だったのでした。私が原稿を書いている最中には、もう廃刊の意思決定は決まっていたのでしょう。しかし、最後のスケジュールということで私の本は出たのです。が、出た途端に「旺文社文庫」の廃刊がアナウンスされて、書店の棚から一斉になくなりました。
私はそれを知らなかったものですから、その事実を知って、残りの部数を自分で買い取るということを申し入れようと思って連絡を取ったのですが、その時点では、もう断裁処分にかかっていました。売れなくなった本は、紙くずとして切り刻む処理をするわけです。本当いうと数冊、二冊くらい、残っていましたけれども、それから15年経つ間に一冊もなくなりました。こういう経験を私は初めての本で体験しました。
「パソコン創世紀」というのは二つの動機から出ていたと思います。
物書きになりたいという気持ち、それから自分の同世代の体験として、パソコンはすごく面白いと、このことの歴史を書き記しておきたいと思った私の気持ちが、一方にあります。
もう一方は出版社の商売の理屈です。これは悪く言っているのではありません。とても大切なことです。我々の社会を構成する企業というのは、非常に重要なセクタです。ですから、そこの人達が、資本家を裏切らないように、商売を成り立たせ、一冊一冊の本の採算が合うように設計する。さらに、設計したけれど駄目な場合は、ある種、文庫の廃刊を決定したりすると。これは企業としてはやむを得ざる選択で、こういうことをさぼると、企業が極端に傾いて、従業員及び資本家に迷惑をかけ、倒産というようなことになるでしょう。だから、出版社が厳しい経営上の煮詰めをやることは当然のことです。
そういうこと、私の書きたいという気持ちが合体してできたものが、この本だと思います。
何故、合体しなければならないのか。それは、紙の本の特質に関わっていると思います。
紙の本は、印刷関係の方がいらっしゃればよくご存知だと思いますが、昔は活字を一本一本拾っていました。ついこの間までは写真植字といって、文字盤から一字一字写真を撮っていく。今だと、かなり省力化されましたね。コンピュータのファイルで、ちょちょちょっ、と処理していけば、紙面に当たるものができるようになりましたが。
それにしても、その紙面に当たるところができてからも、実際に、物理的な紙というお金のかかるものを調達して、そこに印刷して、冊子構造に纏めるわけです。さらに、これを商品とするのであれば、ある掛け率でもって卸に渡して、そこから全国の書店に物理的に配布して、そこで、初めて書店の棚に並びます。
ですから、ものすごい資源を投入して、ものすごい人の手間、ものすごい経費をかけないと人の手に渡らない、そういうような仕組みで、紙の本というのは成り立っています。
だからこそ、最初の作る工程にものすごく手間がかかるということもあるので、あるまとまった部数が設定できて、例えば、最低限五千部だとか、今だとそんな贅沢も言っていられないかもしれないですね、一年くらいの時間をかければ、最低限四千部とか、そのくらい売れるという見込みがなければ、本にできないのです。ですから例えば、私がポンと、出版社に原稿を持っていって、これを本にしてください、と言ったって、なかなかしてくれません。
そういう宿命というか、構造的な枠組みの中に紙の本というものは存在します。ですから、私も、本というものはそういう形としてしか存在しなかったから、高校生の私は、当然プロの物書きになろうと思いました。新聞社とか、出版社に勤めることを踏み台にして、プロの作家となって、商業的な出版社から本を出すのだと。だから、そこで売れる作家になって、自分の表現を社会に対して押し出していくのだと。その想定しかできませんでした。
そうして、その想定を選んで、最初に本を書きました。その本が、出てすぐに断裁され、消ていくという運命を味わいましたが、そのことも不運ではあるでしょうけれど、それを特別な不幸であるとか、特別にひどい目に遭ったとか嘆くべきではないと、私はその当時思いました。
最初にも言ったように、私の書きたいという気持ちを納める器は、人にたくさん読んでもらおうと思えば、そこにしかなかったのです。あとは、ガリ版などで、ごく少数作るか、そうではなくて、本当に社会に広く声を届けるチャンスを掴もうとするのなら、プロの物書きになって、商品としての本を出す以外の選択肢はありませんでした。だから、私は疑いもなくその道を選んだ。そして、最初の出発点で断裁という目に遭ったけれど、それは、少しは、腹の中ではクソッタレだとか、バッカヤロだとか思ったのですが、思ったとしても、他に逃げ道はなかったわけです。相変わらず、たくさんの人に自分の書き言葉による表現を伝ようとすれば、プロとして紙の本を作っていく以外に方法がなかった。
だから、こういう目に遭ったけれど、あとは、二度とそういう目に遭わないように、プロの作家としてある意味で成り上がって、最低限の部数は売れるような作家になり、二度と断裁の憂き目を見ないようにしよう、だからあとは粛々と、プロの書き手としてキャリアを積んでいこうと思いました。それが、1985年に起こったことです。
それ以降私は、パソコンの雑誌ですとか、科学誌ですとか、それからもう一つ、月間の一般誌などに、原稿を書くことを続けていきました。それが、四、五年続きます。それで、次の事件が起こりました。
私は今日ここに、こうやってニコニコして、前でお話しているのですけれども、結構病人でして、9年くらい前に自分がかなり重い病気であることを知りました。そこから3年間……くらいは入退院を繰り返して、一年半くらいの間を置いては、入院し、退院し、入院し、退院し、というような生活を続けました。その当時は、自分の時間に先があるかどうかは、非常に不安な状態で、もちろん、プロのライターとしての仕事は、ほとんどすべて失いました。
それは当然ですね。月刊誌とか週刊誌というのは時間が決まっていて、そこに向けて締め切りがあって、それを守れないライターというのは、当然使えないわけです。それに、いつ入院するかわからない。入院すると半年くらい出てきませんから、とても使ってはいられないということです。
私は、最初に本を切り刻まれたときに、プロの作家として、のし上がって、そんなにいいとこまでいこうなんていう期待はありませんでしたけれども、最低限書いたものが本にしてもらる状態を長く維持したい、そのくらいの作家やライターになりたいと思いました。
そういうことを考えて、本も何冊か出してもらって、すぐには絶版にならないからいいかなーと思っていた時期に、そういうことを体験しました。それで、1987、8年くらいにだんだん悪くなって、そこから、3年間くらいそういう状況が続いて、先があるのかどうかわからないという経験をしました。
それで、1990年、91年辺りに話は移ってきます。入退院を繰り返して、ひどい副作用の出る薬を使っていたものですから、体力との追いかけっこになってきました。最終的には薬を使うこともあきらめてしまったのですが、その時期に、あるパソコン雑誌の編集者でしたけれども、「こんなものができたんだよ。ちょっと書評……書評というか、技術評みたいなものをやってくれないか」という依頼がありました。それは、コンピューターで読む本ができたというのです。その本を、眺めてみて、なにか思うところがあったら書いてくれという依頼でした。
その時に私が見たのは、この本です。著者は、ダグラス・アダムスという、ハチャメチャSF、おふざけSFの作家で、イギリスやアメリカや、特にオーストラリアなどで、とても人気があります。それでその本は「The Hitchhiker's Guide to the Galaxy」というのですが、銀河ヒッチハイカーズ・ガイド、銀河の旅行ガイド、旅行ガイドというのはこれ(画面に写った表紙を指して)です。今の、ザウルスだとか、パームパイロットだとか、ワークパッドだとか、あんなものがネタ元になっていていて、それが「地球の歩き方」みたいな「銀河の歩き方」、それを駆使しながら、ハチャメチャSFが展開するという話ですが。こちらはアラン・ケイという人が書いていますが、これは知る人は知っている、結構有名な人のようですが。これが、紙面のようになっていて、出ている文字自体はなんの変哲もないんだけれど、こうやってページをめくりながら読んでいけるわけです。これを見てですね、それが現在の青空文庫に至る話の流れの原点になったのです。
これは、少しコンピュータを好きな人が見れば、たいしたことはやっていないのが、見え見えなものでした。関係ない人は理解できなくて当然ですが、技術的なことを言いますと、ハイパーカードの上にテキストを流し込んで、流し込む際にハイパーカードにシーケンスというか、順番をつける、それだけのことです。これまでにすでに存在している技術があって、それを「本だよ」って言ってみただけのことなのです。これを見て私は、「あ、全然何にもやっていないや、それだけのことだ」と思ったのですが、同時にものすごく驚いて、ものすごく大きな可能性があるのではないかと思いました。何に驚いたかというと、「これは本だよって言ってみた」、というところです。
ハイパーカード、要するに、一枚のカードを何枚も束ねて、それをペラペラめくっていくと、確かにまるで本みたいではないか。それに、これはさっきも言ったように、すでに存在していて、すでに私たちが使っている技術をそのまま使っているだけだ、と。私は、コンピューターのことは、前からやっている割に全然詳しくないのですが、このくらいの手順は、簡単に自分でも書けるぞ、と。あとは、テキストなんて呼びますが、コンピューターで使うような形にした文書のことです。それを流し込んでしまば、ここまでは一瞬で到達できるではないか。
これまでの自分にとって、本というものは、紙の本の構造体の制約がありました。
印刷にかかるまでにとても大きなお金をかけて、それ故にまとまった部数作らなくてはいけなくて、それ故に、商売の均衡点を厳しく吟味しなくていけなくて、それ故に出版社というプロの存在、全国の流通網という存在、それをすべて、前提にして考なくてはいけなかった。けれども、これだったら、作るまでのところは、それこそ一瞬でできるのではないかと思いました。
そんなことを思ったのは他にも何人かいて、例えば、自分の自宅を建築事務所と称してやっている、木津田さんという大阪の人ですが、ほぼ同時に、彼は大阪でそのことを思っていて、こういう物を見たわけです。電子本の形がエキスパンドブックという、これは、そういう名前の電子本でした。だから彼は「エキスパンドブックで作る本」と、私が「コンピューターで作る本」と言っているのと同じ意味で使っています。彼は、その電子本で自分達に何ができるだろう、というような本を、自分で原稿を書いて、作ってみたのです。
病気で先があるのかわからない時期でしたから、これから自分に新しい仕事ができるかどうかはわからない、けれども、一番初めに書いた本というのは、ある意味で、自分が書きたいと思うことに忠実に添って書いたような気がしていました。その本が、断裁されて自分の手元にもほとんど残らない、そういう状態を味わっていましたから、その「パソコン創世紀」の原稿を、こういう構造体のものに流し込んで蘇らせておけば、自分が物書きを志して、少なくともスタートについた証のようなものを、この世に残しておくようなことはできるのではないかと思いました。今、少し身体が動くものですから、こういうことを言いますと、オーバーに聞こえますけれども、その当時は結構悲惨だったもので、本当にそんなことを思っていたのです。
実際にそれを始めてみると、なにしろ1985年に初めて書いた本ですから、ちょっと話題が古くなっていまして。PC98が出てくるさらに前のむき出しの回路基板のようなものに、何故、日本電気の技術者が注目したかということを中心に書いたものですから、PC98のことを、せめて後書きで書き足そうと思いました。
生きがい療法みたいなものだったのですかね、身体が少し持ち直す時期と重なりあっていたのかもしれませんが、そこでもう一遍、取材で歩き回るような気持ちになりました。
それで、書き足しの部分が大きくなって、「パソコン創世紀」というのは結局、ものすごく長い作品になってしまったのですが、それのきっかけを与てくれたのが、この電子本でした。
売れる出版社の場合は結構売れても、絶版になってしまいます。新潮とか文春だと、年間、千部でも絶版にするのではないでしょうかね。年間千部というと、結構立派に売れていると思うのだけど、そんなもんでも絶版になってしまいます。だから、書籍流通の大きな流れで、確実にどんどん廻って、出版社にも書店にも利益を落としていってくれるものでないと、書店のスペースは限られているわけだから、どんなに古典的な名著であっても、生きている商品としての本としては生かし続けることはできない。それが、出版社や書籍流通に携わる人の罪だとは思いません。それは、構造が決めるものだと、私は思います。
ただ、だから、紙の書籍ではある分量流れないものは消えていかざるを得ない。例えば、私の妻が私のことを一所懸命書いてくれたら、私にとってはものすごく貴重な一冊になると思う。けれども、そんなものは決して紙の本にはなれない。これが、百人の為に書かれたものでも、千人でもやはり難しいだろう。そういう、最初にある部数を想定できないものも、紙の本として生きることができない。そうした、紙の本としては生きていくことのできないものを、こういう電子本が登場したことによって、救えるのではないかと思いました。そんなことを思っていたのが、1990年代の最初です。
紙の本は相変わらず有効なツールで、読みやすいし、そこで例えば、新しい才能がでてきたときに、物が売れて生活が豊かになったり、ちやほやされたりして、やる気が増殖し、次のいい作品を書いていく。これも悪い廻りではないだろう。いいことだろう。ここも、新しい文書による表現を生み出していく母体として、相変わらず期待ができる。
けれども、他に電子本という選択肢を与られたのなら、小部数かもしれないが、本当に残したいという意志を誰かが持てば、電子本として形にはしておける。
それで、例えば、私のものを読みたいという人が連絡を取ってくれれば、フロッピーにコピーすることは、これはほとんどただ同然ですね。そこで、消費する電気やハードディスクの減価償却費に相当するものは、限りなくゼロに近いでしょう。ですから、あとはフロッピーディスクの30円くらいですかね。もっと安いのかな? それと、送付する郵送費くらいで配れるから、そういう形で、紙の本が生かせないものの補いがつけられると私は思いました。
それを1990年代の前半は、ほとんどそんな気持ちでいました。その頃でも、電子本というのは素晴らしいと。少なくとも、紙の本としては生きていくことができなかった「パソコン創世紀」を、これで作り直すことができたと。これは、素晴らしいことだなーと思っていたのです。ところが、ここに出てきたのが、インターネットというやつです。
インターネットというのは、まー、ざっくりといば、どういうことになるでしょうね。ネットワークというのは、例えばですね、僕はあるマンションに住んでいます。そこで、マンションていうのは、自分達が自治として、マンションを維持していく為に、管理組合なんて作るわけですね。その管理組合を一緒にやった人が、個人のプログラマーをやっていたのですが、彼の部屋と私の部屋はですね、もちろん違う世帯ですから、別個の部屋に住んでいるのですが、ケーブルが引っ張ってあってネットワークが作ってあります。
ですから、彼の部屋と僕の部屋はネットワークになっているわけです。その当時、90年くらいから登場していますが、例えばパソコン通信のネットワークてのがありました。電話線を使って、ニフティサーブだとか、PC VANだとか、色々、今もあるのですが。それから、さらに学校の中でネットワークができていたりする。個別のネットワークは色んな形で育っていたのですが、そのネットワークとネットワークをみんな結んでしまおうという規格のようなものが、皆の合意の下に成立してきたというような話、インターネットというのはざっくり言うとそういう話です。
ですから、色んな所に生まれているネットワークを、結ぶ仕掛けができたものですから、形としては、ほとんど世界中のコンピューターが、ネットワークとして繋がるような可能性が出てきて、現実に皆がそれに乗り始めたものだから、世界中のコンピューターを繋ぐなんていう言葉が、嘘ではなくなってきた。そういうことが、93年、4年、5年と急激に起こっていきました。
これまでも、少量の補いをつけるために、自分の電子本を作っていました。けれども、色んな人に配ったり、売ったりする方法が見つかりませんでした。フロッピーにコピーして郵送するとか、人に手渡すとか、どこかのイベント会場に行って配る、というようなことはやりました。けれども、たくさんの人に向けて配るような枠組み、例えば書店が全国にあって、一つの取り次ぎ書店に流せば、その本が全部に流れていくようなことは、到底考られませんでした。インターネットというものが出てくると、自分の念頭になかった電子本の可能性の、流通、配布の部分に関しても、決定的な、強力な道具ができてくるのではないか、というふうに思い直しました。それが、95年から96年でした。
ですから、簡単に作れて、複製も極めて容易だ、ここまではわかっていた。そこに、インターネットがでてきたものだから、配布に関しても、実に強力な手段が確立された。そうすると、電子本の可能性というのは、紙の本の補いをつけるだけではなく、そこで極めて安いコストで作ったものは、極めて安いコストで、日本中、少しオーバーに言えば、世界中にばらまくことが何の困難もない、そういうことに、気づきはじめるのが、95、6年です。
その当時の私はライターで、世の中がこんなふうになっているなーと、原稿に書くのが仕事だったわけですね。ですから、そんな事を書いていたわけです。けれども、ことは、自分が一番初めに人生をどういうふうに使いたいか考えた時に志した、本に関わる、大きな枠組みの変化の可能性が、自分の前に提出されているわけです。そういった事が起こった時に、その可能性を、言葉として書くだけではちょっと、ガッツがないというか、つまらないのではないかと思いました。では、何か実際に、電子本とインターネットを結び付けて動く、モデルのようなものを作れないかと思いました。
そこで、二つのチャンスが想定できたと思います。一つは、電子書店を作るということです。出版社を作ろうすると、個人が始めるにはかなり大きな投資が必要だけれども、電子本に関してはそこの費用を、極めて安く押さられる。それから、インターネットの上では、さっき、青空文庫というのはインターネットで見に行くとこういうもんですよーということを、お見せしました。そこに、課金。お金を取るという枠組みを組み込めば、電子書店になります。それは、ソフトウェアというか、約束事に基づいて、ここに青空文庫と書いとくよとか、ここにこういう絵を入れるよとか、こういうことを指示してけば、これ自体は簡単にできますから、これは、誰にでも、少し経験を積めば、というか、始めればすぐに書けるものです。それから、プロバイダーというか、こういうものを置かせてくれる接続業者と契約すれば、そんなに高いものではない。月に数千円とか、そんなものでできるのではないでしょうか。そこで、こういったものを置いて、本を作って置いて、そこに課金のシステムを加れば、それでもう、電子書店ができる。
もう一つは、公共図書館のモデルです。課金のシステムを外す選択です。今、青空文庫がやっているように、入っていって本を選んだら、お金は一銭も要りません。誰でも、どうぞ、持っていってください。それから、この本は、返却の必要がありません。そういう枠組みが、二つ、選べると思いました。それで、私は、非常に、元々大金持ちの家に生まれて、性格が高貴で、博愛精神に満ちているから、公共図書館のモデルを選んだ、そういうことではもちろんまったくないわけです。インターネットという枠組みでは、こちらのほうが、より力強い前進ができると思ったからです。
これは、何故かと言うと、コンピューターとインターネットが結びついた時の大きな強みを二つに絞っていうなら、複製のコストがほとんどかからない、移動のコストがかからない、これに尽きると思います。
ですから、どこかに電子本を置いておけば、例えば、アフリカからアクセスしたとしても、ほとんど経費を要せずに、コピーを一瞬に作れます。これが、インターネットの強みです。ただし、そこで、商品をそのなかで運ぶ枠組みにすれば、複製がほとんどただで行われるということが、自分にとって脅威になります。自分の商品が、まったくコストを要さずに無制限にコピーされてしまったら、いかに人品骨柄の高い善良な私でも、心配になるわけですね(笑)。そういうストレスがかかるのが嫌だから、私は公共図書館型のモデルが、寝覚めもいいだろうと思って、そちらを選んだわけです。けれども、これは少し冗談めかしましたが、インターネットの上で新しく起こっていることの、本質に関わってくることだと思います。これは、最後のほうで言います。
もし皆さんが、もっともインターネットの力を引き出すやり方、だから、複製されることを心配に思わない、複製されることはむしろ喜びだと、複製してどんどん撒いて欲しいと、そういう枠組みで物事を始められれば、きっと、皆さんの試みは大成功すると思います。それを、少し気取った言葉で言えば、ある種、知的成果物なり、なにかの成果物を、公共、共有の資産として扱えるような枠組みで使った時に、インターネットという仕組みは、最も強力に機能するのです。私はそう思ったからこそ、こういう道を選びました。
ちょっと夢物語のように聞こますが、そうしたことが、これまでに起こっていないかというと、そんなことはないのです。私たちは今、何の迷いもなく公共図書館というものの利便を享受しているけれども、これを作った先人達は、出版の理屈とは違ったところに、強力な理屈を立てて、出版の理屈と対抗しながら、道を開いてくれたわけです。だからこそ私たちは、税金という薄い負担で、費用をかけずに、本を借りてきて読むことができるわけです。知的な好奇心さあれば、学ぶ機会は社会が保証しようことを、先人は、大きな労力をかけてやってくれているのです。そうしたことは、いくらでも起こっています。商売の理屈だけで人間の社会が構成されているわけでは、まったくないのです。
それで、知識が人間を自由にする、知識は公共の財として扱ったほうがいいんだと、インターネットの上で、もう一遍そういう思想を展開してみるチャンスを与られているのです。そうして使った時に最もインターネットの強みが引き出せると思います。それで、青空文庫というものを始めました。ちょっと理屈っぽいのですね、本当は。
そういうことを、内心では思っていたのですが、別に嘘を言うのではないですけれども、皆さんに訴かける時は、青空の本なんていう呼び方で呼びかけていました。
「青空文庫」というのはそもそも、私は横浜に住んでいるのですが、病気ばかりして起きられなかった頃、退院して、次の入院までの最大の喜びは、根岸公園に行く事でした。
日本で最初の競馬場ですが、これがもう使われていなくて公園になっているのです。何にもない公園なのですが、そこへ行って、だだっ広いところで、ぼやっと空を見ているのが、非常に心の救いだったのです。
そんなときにふと、空を見上げた時にそこに本が開かれ、そして、すぐに読みはじめられる。だから、何か学びたいと思った時に、学びたい情報がすぐに、青空の本として開かれて、それを学んでいけると。そういうような構造がなんとか作れないかと思いました。これが、「青空文庫」という名前に繋がっていくのですが、青空の本という言葉に託して、こういうページを作って、青空の本を皆で耕していこうと、呼びかけました。
それでですね、技術的な枠組みに関しては、コンピューターで読む電子本ということ、それから、インターネットというものが出てきて、そういった物を使えば、本を共有の財産として使うことが可能ではないか、というようなことを考えたと申し上げました。
そうは言っても、社会は色々な約束事、法律や決まりや、それから、だいたいこんなもんでやっていこうよ、という人間の合意によって形成されています。そういった合意が、本を公共財として扱うようなことを許すのか否か。それは、一部の本に関しては許されています。そうした精神は先ほどの、公共図書館の試みの中にあります。本が一冊買い上げられ、それで、複数の人に配布されるわけですから、出版資本にとっては非常に、脅威で腹立たしいことです。今はもう、図書館法だとか、著作権法にそういうことを許すという規定があるから、出版社が黙っていますけれども、公共図書館の形成期にあたっては、苦労があったようです。(テープA面終了・一部欠落)
先ほど、知識を公共の資産にできるということを申し上げましたけれども、そういった精神は、著作権法の中にも明確に息づいています。ですから、私たちの、生きている社会はそんなには、悪くないのです。先人達は、そんなにさぼっていたわけではないのです。
著作権法というと、インターネットは著作権の危機で、著作権侵害がたくさん起こっているから、守らにゃならぬ、というようなことばかりで、著作権法は取り上げられることが多いですね。日本の著作権法の目的は、確かに保護もあります。……この法律は、著作物ならびに、実演、レコード、放送及び有線放送に関し、著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め……。これは、作った人の権利を守るぞ、って言っているわけです。これは、著作権法の大きな柱です。ただし、もう一方で、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、という規定があります。だから、権利を守りながらもう一方、公正に幅広く利用されるってことを促進するためにこそ著作権法は存在する、ということを、目的を示した第一条で謳っています。その、精神は著作権の規定に明確に生きています。
それは、こういうところです。例えば、あなたが持っている不動産が、あなたの死後五十年経ったら、あなたの子や孫の遺産を引き継いだものではなくなります、と言われたら、どうですかね。あなたは今、一所懸命働いて、家を買った、土地を買ったと。あなたの死後五十年の間は、子供のものにしておいてあげますよと。けど、五十年経ったら、それはあなたの物ではなく、その子供の物でもなく、これは社会の物にしますよ、と。もしそう言われたら、そんなのあり?という話になりますね。そういう規定を、著作権法は盛り込んでいます。著作者の死後五十年を経た物に関しては、その著作物で儲ける権利は、もう消滅するといっています。誰でもが、複製を作ったり、再配布したりできるようになるのです。
例えばですね、ついこないだまでは、太宰治の作品に関しては、太宰治の長女の方ですが、その方が権利を持っていました。、ですから今年の一月一日、去年の十二月三十一日までは、津島園子さんにお金を払わなければ、太宰治の本を作ることはできませんでした。それが、今年の一月一日から、お金を支払わなくても、太宰治のものを、例えば本にしたり、複製の電子ファイルにして、配ることができるようになりました。それはまさに、津島園子さんにとっては、これまで持っていたお金もうけの手段、金づるを奪われたということです。そういう規定が、著作権法に盛り込んであります。
著作者の死後五十年を経た段階で、著作物で儲ける権利は消滅する。それは、何故そうするかというと、それは、知的な表現という物が、まったく独立に、その人の頭の中で、太宰治なら太宰治というものが、全く社会とは切り離された存在として、ぽっと現れて、彼の頭で独創的に、生まれるような物では全くありないからです。私たちは、この社会に生まれて、自由に使うことを許された言語を用いて、自分の考を組み立てることを許される。その時に、日本語の著作権使用料を取られるとか、英語でしゃべるときにはマイクロソフトに金を払わなければいけないとか、日本語の時はジャスト・システムに金を払わなければいけないとか、そういったことはありません。言語を用いて、それから科学的な真理を基に自分の考えを組み立てることも、自由です。それを学ぶためにその本を買わなくちゃいけない、そういう場合は、お金は発生してしまいますが、例えば、地球は自転しているということをですね、自分の考えの枠組みに組み込むときに、お金は取られません。
私たちは、言語というツールも、それから、社会的、科学的な真理、社会的な合意として、積み重ねてきた、色々な物事に関しても、著作権使用料を取られたりということはありません。社会の中で知識という物は、ほとんどを共有物としていて、それを自由に分かち合う枠組みがあって、初めて人間は進歩していけるのです。そうしたものから切り離された存在の、ヒトとしての、カタカナのヒトとしての動物、動物としての人間というものが、どれほどの存在で在り得るか。
だから、大事なことは、そういう知的な資源によって構成された社会が、基本的に知識に自由にアクセスできて、そこで、考えを組み立てたりする可能性がある、と。そういう枠組みの中で生きてこそが、人らしい生き方を支える最低保証であるという合意があるのです。だからこそ、太宰治も、日本語を使用できて、それまでの文学環境ってものがあって、そこで学んだりすることができるからこそ、太宰足り得ているのです。
そういう合意の基に、著作権法にはそういう規定が盛り込まれています。ですから、ある資産を、年限を限ったところで権利が消滅して、そのあとは自由に配布できるのだということは、著作権法の中にも明確に生きているのです。だから、公共図書館を支えていると同じような考え方は著作権法の中にもある。ただ、その五十年というのはあんまり長くないか、という人達は当然いるとは思いますが、それでも、そこまでの合意はできています。
インターネットと結びついたコンピューターという機構は、そういった土台が用意されています。知識を公共財として扱おうとして、我々の先人達もずいぶんそうやって努力してきたのです。今、知的所有権保護だ、守れ守れ、それで、儲けろ儲けろ、ガードだガードだといっている人達が、人類史の基調を作ってきたのかと。そうではないだろうと。ならば、そういうインターネットというのを、インターネットの株が上がって儲かるとかいうようなことに使う人がいても悪くないけれど、人類の基調に沿ったところで、もう少し使う可能性はあるのではないかと思い、それを、実際のモデルとして、作ってみたのが「青空文庫」です。
それで、実際に、どういうふうにやっていったかというと、私たちは最初四人くらいの、仲間が集まって始めました。こんな大袈裟な話になると思っていなかったので、その頃、具体的な目標値などはほとんど設定していなかったのですが。まぁ、四人集まりましたから、五年とか十年やってけば百作品や二百作品は、電子化できるのではないかなと思っていました。それで、そうしたものを見ればですね、例えば公共図書館をやってらっしゃる方とか、それから、国のベースで電子図書館でやっている人が、ああいうやり方でいいではないかと、それで、引き継いでいって、私たちは消えていけば、それで充分ではないかというつもりで、始めたことなのです。
けれども、始めた時に、そんなしみったれた事を言っておくのもなんだから、手伝ってくれる人は是非手伝ってください、とか書いておいたのですね。書いておいたら、世の中には偉い人がいるもんで、本当に手伝ってくれる人が次々に現れました。最初は、全く自分達だけでやるつもりでしたから、なんにも、文書化した約束だとか、マニュアルのようなものはナシで始めたのです。その集まった四人ていうのは、経験が似ているので、パソコンはどのくらい使えるとか、電子本に仕立てる力量だとかは、だいたい同じくらいできるだろうということでした。
自分で手伝ってくれと書いておいたのですが、そうしてマニュアルを用意しないで始めたので、いざ手伝うって言われたときに、最初は聞かれるたびに、いちいち説明していました。だけど、とても、それでは身が持たないのと、問われてみると、自分達の頭の中でも整理してなかった部分が、聞かれてわかるということがたくさんありましたので、どういうふうに、作業をしていくのかというマニュアルを、自分達も、もう一遍考え直して作りました。
今日、皆さんにお渡ししたファイルの中にも、入っています。ただしこれは、参考にして頂くのは、もうすごくありがたいことですけれども、私たちが考えたマニュアルですから、約束事の作り方はいくらでもあると思います。ですから、金科玉条のごとく、これは定まったルールだと思って頂く必要はまるでなくて、ただ、ほんの二年ちょっと前、始めてみたらそんなことで大騒ぎになった人間が、どうしようと思って、頭ひねって作ったマニュアルの一例がここにあるということです。
それで、工作員という名前を不用意につけたら、これがまた、北朝鮮工作員が活躍するものだから、最近評判が悪くて困っているのですけど。「青空文庫工作員マニュアル」という、工作員ていうのは、きっと、谷川雁などの、「工作者宣言」などが頭にあって、ついつけてしまったのだろうな、と思うのですが。「青空文庫」に協力してくれる人の事を、なんとなく工作員と呼んでいます。ちょっと評判が悪そうなときは、協力者とか呼び変たりして、やっているのですが。
ここの部分は、すべて、この冊子にありますので、これ自体をなぞっても、ちょっと、つまらないので、今日の題である「本という財産とどう向き合うか」というところでは、主に著作権の話をしています。
特に幅広い人と、運動として何かを進めていく時には、法律を冒さないってことは、運動を伸ばしていくためにも、非常に重要な事だと思います。例えば私が個人として、著作権法の五十年という期限が長すぎるという考えを強く持って、例えば、ま、誰でしょうね、村上春樹の本を電子化してですね、アップして訴られて、裁判して、村上春樹に向かってですね、「おまはそもそも、なんで原稿を書くのか」とそういう議論をふっかけるというのは面白いテーマかもしれません。けれども、運動としてやっていく時には、著作権法という枠組みの中でやっていくのが、すごく重要だと思います。
著作権法も捨てたもんではないと、表現という物が公共物としての側面を持っているということを認識して、それを組み込んで作ってあると。そういうことを踏まえた上で、著作権法は何を許さないかということを、細かく検討して、これは駄目だよとか、ここは気を付けたほうがいいってことをいうような解説をしています。あとで、もし興味があれば、まぁ、メディアテークの仕掛けとしては、是非興味を持ってくれということでしょうが、これを読んで頂ければ、著作権に関する、私たちがここ数年で考えてきた事が、まとめてあります。
それから、実際にファイルをどうやって入力して、実際に、こうキーボードを叩いて入力するときのための、作業マニュアルがあります。例えば、紙の本などを見るとルビとか振ってありますよね。私はもう、こうコンピューターでやるもんだから、全然漢字が書けないのですが、「あつれき」という言葉を思い浮かべようと思っても、軋轢が浮んでこないのです(笑)。まー、その軋轢というのはルビが振ってあったりします。それを電子ファイルにするときは、軋轢という字があって、それをどうルビとして表すのかというようなことを約束決めておかないと、同じようなルールでできてこないので、そういう際はどうするのだとか。
それから、現在、コンピューターの使う時の制限の一つとして、出てこない文字というのがあります。よく、森鴎外の「おう」の、つくりが区ではなくて、品という字ですね、これが出てこないのではないかということを言われたりします。それに関しては話を始めると少し長いですが、そういう形で、出てこないとされている文字がいくつかあって、そうした物にぶち当たったときに、一体どうすればいいのかということも、約束事として、決めておかないと、始められない。それを、「青空文庫工作員マニュアル」という形で、まとめています。問い合わせがあった時は、これをまず読んでくださいということにしたので、ずいぶん、それに答える作業量は減りました。ですから、後からもし、こういう活動をされる方は、先ほども申し上げたように、これをなぞって頂く必要はないけれども、参考にして頂ければいいかと思います。
それから、著作権が切れていると入力できますよ、というようなことを言っていたのですが、著作権が切れている作家というのは誰なのか、という事を、繰り返し問われるわけですね。それで、私たち自身も、その都度図書館で調べに行ったりしていたのですが、こんなことをやっていたのでは、身が持たないので、リストを作りました。それは、著作権台帳とか、そういった複数の資料をもとにして作りました。
ここに載っているものは、もう著作権が切れた人です。生没年を埋めていって、……押川春浪なんて、仙台に縁の人ですね……、菊池寛だとか、陸羯南だとか、こうして見ていると、道は長いなぁとか、先は遠いなぁとか思ったりするのですが……。添田唖蝉坊なんてのも切れていんですね。あ、寺田寅彦は、今、仙台のある会社にたいへんお世話になっている……。こうした形で作っておけば、著作権の切れた作家を確認できて、そう迷わずに、誰のものはやれるということが確認できます。さらに、複数の人が、同じ作品を入力し始めてしまうと困るので、入力を始める時は、誰が何を始めましたよ、ということを宣言してもらい、こういう作品に関して、こういう状態にあるという作業進行表のようなものを作りました。これで、なるべく作業の重複を、防ぎたいと思って、こうしたものを作っているわけです。 今日ここに来て、メディアテークというところで、与えてもらったチャンスでお話しする事になるまで、あまり仙台の事を知らなかったのですが。そのメディアテークの話を聞いてですね、私は大変驚いて、ものすごく羨ましく思うわけです。というのは、ここに来るとですね、メディアテークの準備室があって、そこにはちゃんと机があって、人員が配置されていて、熱意に燃えた人がいます。きっと給料を貰っているのだと思います、あの人達は。そうした形で準備をすすめることができて、税金という形で預かった予算の中から、お金を割り振って、メディアテークという建物も、すごく斬新なイメージでできるようですが、そうしたものが設定できて、そこで、実際にこう、動く人達を、是非育みたいということで、こういう活動、今日のようなワークショップのようなものも準備されていると。
ですから、それに対して私たちは、最初は個人のホームページを作るのと同じ気持ちで始めました。個人のホームページでよくありますよね、悪い意味で言っているのではないけれど、うちの犬はこういう子ですとか、それから、自分の子供はアトピーを抱ていて、というページだとか、そういうものと全く同一のものとして始めました。だから、全くお金の事は念頭になくて、例えば、フロッピーディスクが何枚か必要だとか、今度はハードディスクを買替えないといけないとか、入力する際に、元になる本が要るとか、そうしたときは、その作業をやりたいと思う者が、お金を当然自分で払うということになっています。当然その作業に関しては、誰がお金を払ってくれるわけでもないけれども、そんなことは当たり前だという枠組みで始めました。
それで、その想定が、自分達四人でやれる範囲に留まっていれば、それで継続できたと思います。ただし、その作業のスピード自体は、とてもゆっくりしたもので、しかし、身の丈からあまりはみ出ないで、進められたと思います。
けれども、呼びかけてみた。呼びかけて協力してくれる人が現れた。協力してくれる人には、協力してもらって作業を進めることが、前向きなのではないかと思ってしまった。そして、基本的な作業マニュアルだとか、著作権の切れた作家のリストだとか、そういう色々な文章を溜めていくと、次から次へと、協力しようと言ってくださる人が現れた。
そこで起こった事ですが……。協力しようと言ってくださる方は、「青空文庫」というものが、ちゃんとなにか存在していて、そこに協力を申し入れるという意識で、申し入れられるのだと思います。ところが、舞台裏の「青空文庫」というのは、何かというと、私と何人かの仲間が、大騒動で、あたふたやっているだけの組織で、財政的な基盤も何もないとのです。そんな所から始めてしまったものですから、活動自体は、すごくいい線を突いたのではないかと思いますが、それが活発に展開すればするほど、苦しい状況になっています。
色々な作業協力の申し出があった時に、どう仕事を配分するのか、仕上がってきたファイルを、ちょっと工夫して読みやすい形にする作業というようなことは、自分達がやっているわけです。それから、作業を始めるという宣言があった時に、このリストを書き換たり。それからですね、ここへ活動報告欄があります。八月三十一日、梶井基次郎、太宰治。三十日、太宰治。二十九日、岡本綺堂。二十八日、岡本綺堂。二十七日、芥川竜之介。二十三日芥川竜之介。二十二日、夏目漱石。二十一日、渡辺温。二十日、太宰治。……こういうふうに、もし、毎日本を出している出版社があったら、その舞台裏はどんなことになっているでしょうね。巨大出版社だったらいいですよ。あまりにたくさんの人が、協力を申し出てくだすって、私たち自身が、面白い事だ、素晴らしい事だと思うからこそ、それに類似するような行為をやっているのですが。
こういう形で、例えば芥川の作品に関しては、もう、ほとんど漏れがないのだと思います。夏目に関しても今、中心になってやってくだすっている方がいるので、もう、ほとんど揃っています。それから、岡本綺堂のものは、これは本当に、一読者として江戸情緒などを感じて面白いなぁと思うのですが、それが、がんがん入ってくるわけです。
それから、今、水面下で大きな作業を投入して、三遊亭圓朝の電子化をやっています。圓朝の電子化は、これは素晴らしいものです。圓朝というのは、ちょうど百年前、明治三十三年に死んだ落語家です。これは、日本の物語の、形成にものすごい大きな影響を与えた人です。録音のなかった時代の圓朝の作品が何故、今日書き言葉に、定着されているかというと、それは、速記の技術が確立されたからです。そこで、圓朝の話、講談、そういったものが速記として書き起こされて、本として配布されたのです。だから、それを受けて、「大菩薩峠」なんてのは今から読み返してみれば、講談速記本にそっくりですよ。ということは、日本の物語の大きな一系譜になった流れ、時代小説、剣豪小説、忍者、忍法物なんていう系譜の流れは、講談、落語の速記本から起こされたのです。それで、そこも、大きな可能性を持っていたということを、この三遊亭圓朝の電子化プロジクトなどは明らかに示してくれると思います。
それから、もう一つ非常に大きいのは、言文一致体の成立です。これは、二葉亭四迷が、「余が言文一致の由來」の中にも書いています。坪内逍遥先生のところにいったら、圓朝の速記本が流行っていると。あれ、書き言葉をそのまま起こしたみたいで、文語体になっていない。けど、あれは、すごく面白いんではないかと。
坪内逍遥全集をそこからひっくり返してみると、坪内逍遥は、シェークスピアをたくさん日本に紹介していますが、要するに、明治期に新しい思想を西洋から取り入れたときに、それを表現する言葉を、日本人は持たない、という意識を強く持った人だということを知りました。私は全く、文学史などに、触れる機会がなかったので、三遊亭圓朝を電子化しようという話から転んで、そういうことを調べていったわけです。そうすると、今、私達が知っているような、話言葉に近い形で物語を綴るという形式の成立に、三遊亭圓朝の速記本はものすごく大きな役割を果たしたのを知りました。何故かといば、三遊亭圓朝という人が、強力なストーリーの構成者だったからです。
きっと、これから数年をかけて「青空文庫」にアップされ……、「青空文庫」が持てばですが、アップされていくと思いますが、それを、読みやすい形で提供するつもりです。それを読めば、稀代の物語作家が、落語家としてその当時登場したのだとわかると思います。だからこそ、近代落語というものの隆盛もみたし、言文一致なんていう文学の畑の、表現形態の一大変革を引き起こす起爆力にもなれたということが、よくわかります。圓朝ってのは、それほどの面白味を持った作家です。
そうした、たくさんの大きな仕事が、我々の前に降ってきていて、我々は、全く組織の体をなしていないものだから、どう対処していいかわからないのです。そんなときに、仙台で、先見性を持って、メディアの可能性を探っていこう、それを、行政としても取り組もうという動きを知ったわけです。それは、行政としての立場というとまず、箱を作るというのも必要な要素として組み込むかもしれません。ただし、ここの方達は、その中に、どういった動きを取り込んでいくかという事をすごく留意されているように思いましたので……。だから、ほんというとですね、ここのメディアテークの色々な書類を見ながら来たものですから、「青空文庫」を、仙台に皆で引っ越してくれば、ここの、利便が享受できるわけですから、、もう、皆で引っ越してこようかと思いました。それは駄目だと言われたので、あきらめましたが(笑)。
ですから、私たちのような草の根で始めたものは、理念追求で突っ走って、制度的な枠組みができてないので、ものすごく苦しんでいます。実際に、これではお金の入ってきようがないわけですから、自分の生活はどうするのだということを抱えながら、やってかざるをえないわけです。ある意味注目を浴びて成功すればするほど、自分達は苦しくなるということです。だから、1成功すれば、仕事が2に増える。2成功すれば、4に増え、4になったときは8になり、16になり、まさにそれを二年間経験してきたわけです。
それを、どう継続して、維持していったらいいのか、正直わからなくなっています。作業を同じような方式でやったり、作業の重複を防ぐという意味では、「青空文庫」自体が成長するという事も、欠かせないような気もします。というのは、夜空文庫があって、青空文庫があって、秋空文庫、春空文庫、夏空文庫、とふうに、それぞれが違う方針で始めるとですよ? 例えば、夏目漱石の「吾輩は猫である」なんていうのは、ポピュラーなものは、それぞれが一当たりやらないとしょうがなくなるでしょう。そういった作業の重複性と、作られたファイルの細部の表現が違ってくるだろうということ、そういうことを避けようと思えば、ある程度、「青空文庫」のような一つのものが大きくなるってことにも、意味があるだろうと思います。しかし、世話役をやっている人間の能力には、限りがあるのだから、あるグループが必要以上に大きくなろうとする事は無理ではないかという気持ちがもう一方にあります。それに、引き裂かれながらやっています。
だから、「せんだい電子文庫」のようなものが産声をあげて、例えば「青空文庫」と協力して、作業重複を防ぎながら、おのおのが独自性を発揮して、連携が取れていくような。そうしたことがいいのか。それは、大きな可能性の一つだと思います。私がもとから仙台にいたら、メディアテークの与えてくれる機会を全部使ってやろう、チャンスは利用してやろうと思いますから、今よりはずいぶん楽になったと思うのですが。そうした可能性も与られているので、もし皆さんが興味を持てば、電子テキストの配布だけに限ることはないと思います。私が申し上げたいのは、知的な財産だとか、知的資源というものを、公共財的に扱うという事は、色々起こり得るから、別にそれは電子テキストの作品の中だけでやることはないということです。
だからもし、このなかにコンピューターが好きな方がいらっしゃれば、Linuxの成功というのは、ソフトウェアの財を世界ベースで公共したら、どんなが起こるか、というモデルケースだと思います。この成功は、単にマイクロソフトのOSを脅かすようなものがUNIXベースでできたということではなくて、インターネット社会が、何をなし得るかの一つの成果の先行例として、Linuxの成功は見てったほうがいいんではないかと思うのです。ですから、私はLinux関係の文献を読む時、「青空文庫」の運営に適応できるノウハウはないかと、そればかり思って、Linux関係のことは学んでいたりします。変な学び方ですけれど。
そうした形で、ソフトウェアでやってもいいだろうし、まだまだ知らないこと、例えば音楽でやってもいいでしょう。もちろん、儲ける事をやられる事も、面白い可能性の一つではあり、それをやるななんて言う権利は、私には毛頭ありませんが。知るという事で人間を幸福にするとは断言できないけど、それにしても人間というのは、知るという事を方向づけられた、そういう動機を強く根っこに植られたからこそ、ここまできたような気がしています。幸か不幸かわからないけれども、人間にとって、とても人間らしい行為なのだろうと。
それを促進するための機構や、制度や枠組みを、過去、先人達は何度も作ろうとしてきました。大学というような制度もそうでしょうね。知識の専門の探求者を、制度として抱える、仕組みとして社会がバックアップするなんていう事は、ルネッサンスを経験して初めて成り立った事です。それから、印刷術、私が最初に、ある意味で限界を指摘した紙の本なんていう物も、知識を広範に分かち合うための強力なツールになるということで、それを宗教改革の時に武器にしていった人達がたくさんいたわけです。ルネッサンスの精神を仕組みとして支えたのが印刷制度で、そこから生まれてきたのが近代のヨーロッパです。それを皆頂いて、なんか文化っぽいことを今やっている、というようなことなので、私達の歴史の中には、今私が言っている、夢物語のような、青空の本の共有だとか、そんなことを別の言葉で語ってきた人はいくらでもいるだろうと思います。
そうした人達の精神を汲む試みが、インターネットの時代においても、あっていいだろうと思います。それから、インターネットという枠組みは、なんか儲かるとか、先進だとか、技術だとか、ハイテックだとか、マルチメディアだとか、そういう虚飾やレッテルを剥いでしまば、大切なものを分かち合う時に、一番効く仕組みです。そう捕らえた時に、ほんとに強力に機能するということを、体験していると思うので、そうした試みの為に、是非インターネットを使うということをやって頂ければ、面白いのではないかと思います。そうすると、仙台市のメディアテークも、大きな成果を残していくのではないかと思います。
それから、もし、電子文庫という枠組みで始められる方がいれば、できることは、やるつもりです。正直にいってですね、やらなくてはならないことがものすごく溜まっていて、不義理というか、作業協力頂いている方にご迷惑の掛け通しなのですが。最近はもう、表立った所で発言したり、顔を出したりするのが、私はもう、辛くてしょうがないようなところもあるのです。そういった、仕事に押しつぶされそうになっているところはありますが、その範囲でやれるご協力はしていくと思うので、電子文庫としての取り組みをされるのならば、ご協力します。
それから、その協力の一環として、「青空文庫」にファイルをアップするとか、「青空文庫」のやり方でやってみるということであれば、もちろん、大歓迎です。対応は遅いのですけど、なんとか、声に応えていくように試みたいと思いますので、もし、御興味があれば、是非、手を携えてやっていければと思います。
まとまらない話になりましたが、「青空文庫」の動機、それを超えて、インターネットというのは、かなり面白い、世界史の一フェーズを作る、仕掛けになってくのではないかということでした。ただし、そこで生まれてくるものは、全く新しい精神というよりも、人を、ここまで人として育ててきた、そういった精神的なバックボーンが、大きくもう一遍花開くチャンスを与られているような気が、私はします。残りの人生を、その一翼を担うような真似事でもできれば、以って瞑すべしではないかと思って活動している次第です。
では、後で実技に移っていきます。それから、実技といってもですね、正直にいってここで短時間に、技術の体系をお渡しするとか、そういうことは無理だと思いますので……。例えば、さっきお見せしたファイルのようなものが、案外簡単にできること、それで皆さんを勇気づけられればいいと思うので、時間としてみれば、三十分かける事もできるし、一時間かける事も、逆に十五分で終わってしまう事もできます。実際にこう顔を合わせて、お話する機会はなかなか取れないので、質問があれば、是非質問を頂いて、そこで、案配しながら残された時間を使っていくようにしたいと思います。