これまでの公共施設というのは、行政がこの部屋の機能はかくかく、あの部屋の機能はしかじかと決めたものを、設計者はそのとおり作らされ、利用者もそのとおり使うように強いられてきたと思います。 私は、まず何よりもそのことが嫌でした。そうした与えられた枠組みの中に閉じこもっていては、何一つ新しいことは生まれないと思ったからです。
メディアテークは、大きな一つの空間のなかで、ぶらぶらしている人や、寝ている人がいるし、子どもが走っていたり、ビジネスマンが新聞を見ていたり、まるで公園のように使われています。そうした光景を物理的に可能に、違和感のないものにしているのがチューブの存在で、運営側のなるべく規制をかけたくないという意志もそれを支えていると思います。
しかし、そこで見落としてほしくないのは、そうした自由は、ただ単に食べたり寝たり、きままなことをするためにあるのではなくて、考えたり、発見したり、作ったり、発信したりしていくための可能性の苗床でもあるのだということです。つまり、メディアテークでは、利用者も与えられることを受身で待っているだけではなくて、ある種成熟した、自らの判断でこの場と関わっていくという意志を持った人たちであることが求められているのです。
以前、カナダのトロントで、公共施設の一角で市民が意見を述べ合い、それを放送しているという光景を見ました。メディアテークでも、そういうことが起こればいいと思うし、文化を消費するだけではない、 ビジネスに直結するようなものがあってもいいと思います。自分たちはsmtをこう使いたいという提案が、もっとどんどん出てきて、それらが実現されていくことが、長い目で見れば仙台らしさを生み出すことにつながると思い、実は、非常に期待をしています。