報告 2016年08月14日更新

仙台前衛藝術の足跡を辿る:ファースト・コンタクト


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 文通約一年、鈍行列車に揺られ、仙台方面へと向かう。

1960年のある日 私の頭をヨギツた思い・・・・・必ずやダダはまた復活するであろう・・・・

 糸井貫二(ダダカン)さんから受け取った手紙のことばを反芻していた私、そして同行者の中西氏は駅のホームに降り立った。改札のほうへと近づいたところで、ハッとした。改札の向こうにスーツを着て私たちのほうを直視する人がいる。改札を通過するとその人は私たちのところへ距離を縮め、「あなたが細谷さんですか!」と中西氏に声を掛けた。グッと緊張で身体が強張った。ダダカンである。中西氏がいつものようにおっとり「いや、こっちが細谷さんですね」と返答。お互いに笑ったかなにかして、そのままご自宅へと案内して頂く。

 ご自宅の様々なオブジェ、メールを通した人びととの交流、そして反戦への確固たる思い、そうしたことをうかがいながら、ビデオカメラを回し続けた。
 それまでに刊行された糸井さんに関する書籍や資料を頭に叩き込んできたつもりであったが、そんなものあっという間にどこかへ飛んでいき、かつてのいくつかの出来事、糸井さんの日々の生活の話に集中する。無糖紅茶にプリン、練乳たっぷりのコーヒーと、贅沢に過ぎる(!)おもてなしを受け、あっという間に日は暮れた。

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 「さ、こちらへ」と言ったか言わぬか、部屋を移動。手洗いから出てきた糸井さんはおもむろに、そしてタッと、私たちの前で逆立った。体操と炭鉱労働で鍛錬された肉体は見事に三点倒立し、足先までうつくしくのびている。私は、自分が文献資料や写真・映像記録ばかりを頼りに1960年代へと向かっていたことに、この日の全ての時間を通して恥じた。過去の事象に対して現在という地点からいかに実直に向き合い、打ち返していくことができるか、そして新たな段階へと向かうことができるか。資料に向き合うにしろ、生の人物に話を聞くにしろ、こうした作業はある緊張感を伴いながら進めなければならないだろう。

「また、会いましょう」
 糸井さんの手は確かに暖かく、力強かった。
 ぐっと握り返して、再会を誓う。

 これが私たちのファースト・コンタクトであり、おそらく、全てのはじまりであった。
 (文・細谷)


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