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せんだいメディアテークのアーカイブは、メディアテークを媒介とした市民のみなさまの参加・協働による地域文化の創造・発信の記録と成果を紹介するものです。

 

レポート

鷲田清一館長・随行録 – 2013年8月21日

仙台市宮城野区の被災地を巡る

レポート:佐藤 泰

1吉田さんのお宅

前日の雨がうそのように、さわやかに晴れ上がった8月21日の午後、鷲田館長は、みやぎ連携復興センターの吉田祐也さん、音楽の力による復興センター東北の伊藤み弥さん、宮城野区役所の天野美紀さん、奈良法志人さんらの案内で、宮城野区の被災地に向けて出発した。

はじめの訪問場所は、今回の案内人であり、宮城野区岡田地区在住でもある吉田さんのお宅。岡田地区の沿岸部に位置する南蒲生は海沿いにある下水処理場の陰となって波が遮られたこともあり、津波の被害は新浜など隣接地区に比べてやや小さく、流されずに残った家屋は少なくない。とはいえ、吉田さんのお宅でも床上2mまで浸水し、家の中は激しく破損した。住むことが禁じられた災害危険区域からはずれたため、修繕による現地再建をするにも公的支援がほとんどなく自己負担が大きい。そのため、吉田さんは支援団体やボランティアの力を借りながら仮住まいできる場所をなんとか確保してきたが、ようやく今秋になって、本格修繕に移ることができるそうだ。

避難所や仮設住宅で好きな庭仕事もできずに体調を崩したお祖母さまのこともあって早期の自宅復帰を決断したのは、震災後まだ半年も経たない8月だった。「ここに戻てきたばかりの時は、 周りに誰もいないし、電気もなくて真っ暗だし、遮るものがなくなって波の音がすぐ近に聞こえるし、夜は本当に怖かったんです」と語る吉田さんは、家族とともに、被害の少なかった敷地内の旧宅で生活している。主の戻った家前には、交通安全の旗が目印として立てられいるが、周辺をさっと見回しても旗が立っているのは飛び飛びだ。それでも南蒲生で復帰した住民の割合は5割と高く、現地再建する若い世代が多い。

館長随行録3

仙台平野の集落の多くは「いぐね」と呼ばれる屋敷林に囲まれてきた。南蒲生でも屋敷林の面影は随所に見ることができたという。吉田さん(写真中央)のお祖母さまが、庭仕事の手を休め、畑や大小の木々に囲まれていたかつての姿を説明してくださる。

館長随行録3(2)

ぼろぼろになった交通安全の旗が、その家に主が戻っている目印。旗がくくりつけられた彫刻は、ボランティアで大量の流木処理にあたった、チェーンソー・アーティストたちの作品だ。津波被災地あたりでは、あちこちで目にすることができる。

2南蒲生をめぐる

吉田さんのお宅を出て、車で南蒲生周辺の状況を見て回る。立ち並ぶ家を通り抜けて、突然視界が開けるとき「このあたりもびっしり家が建っていたんです」との説明。はじめて訪れる者にとっては、言われなけばわからないこと。さほど離れていない場所でも、被害の状況はまったく異なるのだ。それでも、道沿いに残る家並みや停めてある車を見ながら、鷲田館長はこの地域の暮らしぶりの豊かさを口にした。大きなバスを自家用にしている名物のお宅、サーファーたちが集まるお店の賑わい、道すがら目に飛び込んでくるこの町のありようからは、被災の深刻さとはまた別に、どこかこの地域のふところの深さのようなものが見えてくる気がする。

館長随行録3(3)

住民のかたが震災前に撮影していた写真と見比べなら車を走らせる。宮城野区は全国的な地元学の先駆けともなった土地だが、そんな伝統が、もはや見ることのできなくなった古い街並みの写真を残してくれているのかもしれない。

吉田さんは震災後、避難所・仮設住宅などの生活再建支援や、地域への復興まちづくり支援の仕事のかたわら、南蒲生で復興まちづくり組織を立ち上げた。将来を見据えた若者を中心とした住民主体による地域の緑化に向けた清掃や植樹活動をはじめ、塩害が懸念される南蒲生に、新しい農業施設である大型養液栽培ハウスを事業化することにも力を入れた。アポなしでハウスの見学に訪れた私たちに、若いスタッフが説明をしてくれた。4ヘクタールを超える広大な土地に生まれたばかりの野菜工場では、地元の人々が働き手となり、トマト、いちごのほかさまざまな葉物野菜が育てられ、出荷を待っていた。

館長随行録3(4)

ハウスの前で、吉田さんが期せずして学校の先輩と再会。「お久しぶりです!」「以前から活躍は聞いてたよ」 先輩は震災後、勤めていた会社を辞め、今はこのハウスの仕事をしているそうだ。若い力が復興を支える確かな原動力となっている。

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途中で立ち寄った南蒲生の神明社。海岸から近く、津波で周辺の木立ごとすべて流された。今ある社殿は、その後再建されたもの。このあたりでは神社の御輿、お寺の盆踊りなど、地域のお祭りが子供たちの楽しみでもあり、神社や御輿の再興にも、そんな子供時代を送った若者たちの力が強力なバネとなった。世代を超えたコミュニティの継承には、そんな積み上げがなにより力になることの証しだろう。演出家として、震災後のアートや芸能のさまざまな取り組みを見続けてきた伊藤み弥さん(写真左)が、それが果たした役割の大きさとともに活動の難しさを語る。伊藤さんはいま仮設住宅の人々に音楽を届け、ともに歌う活動に取り組んでいる。

 3蒲生から「みんなの家」まで

仙台湾に流れこむ七北田川河口を北側に渡ると蒲生地区。南蒲生に比べると津波の被害が格段に大きい。海に向かって徐々に被害が大きくなっていくかつての街並みを通り過ぎると、その先端に、国の海浜鳥獣保護区の特別保護地区に指定された蒲生干潟がある。貴重な野鳥や、様々な植物群落を観察できるとともに、多くの市民にとって家族づれで楽しめる憩いの場所でもあった。震災によって干潟の形はすっかり変わったが、その後の復旧工事とともに、徐々に以前の形を取り戻しつつあるという。とはいえ、緑に囲まれた以前の静かな佇まいは、今やその面影すらたどることができない。

館長随行録3(6)

生き物たちのオアシスのようなかつての蒲生干潟も、今は延々と砂地が続くばかりだ。吹き抜ける潮風を受けながら言葉も途切れがちになる。

館長随行録3(7)

蒲生干潟と仙台港の中間に位置する海岸線は、サーファーの間では「仙台新港」と呼ばれる日本でも有数のサーフィンスポットである。実は吉田さんも毎朝の日課で海に入るサーファーだ。サーフィンが好きでこの地域に移り住む人も少なくない。震災後はそうしたサーファーたちも海岸の復旧作業に率先して取り組んだそうだ。砂浜の手前にある小高い丘に立つと、眼下にサーフィンに興じる若者たちが見える。津波が来たときには幸いにも波がなくサーファーはいなかったそうだが、ここが地域や周辺の工場の人たちの避難場所になった。津波に備え海の方角に逃げるという究極の選択を迫られた人々を想い、「こわかったやろな」と何度もつぶやきながら、鷲田館長はしばらく海を見つめていた。

蒲生の海岸から市内中心部に戻る途中、災害危険区域に指定されている和田地区の町内会長、高橋實さんのお宅による。 中学生のころから「おんつぁん」と呼ばれていた高橋さんは、その人柄もあって、地域のみんなが信頼するこの地区のまとめ役であり、みんなが頼りにする世話役を担ってきた。震災直後は、地域の状況を熟知する水先案内人として、他の町内会長たちとともに自衛隊や消防隊の救助活動を支えた人物でもある。集団移転と現地再建への想いに揺れる住民たちの連絡調整役として、今も現地に踏みとどまり、住民それぞれの未来のためにがんばっている。 高橋さんは私たちを迎えるやいなや、庭の畑ツアーをスタート。津波ですべて流れされた庭に、それ以来高橋さんはさまざまな苗や種を植え続けてきた。2年を経て草花や野菜が一見無造作に生い茂る庭を歩きながら、高橋さんは次々と野菜類を収穫しては私たちに手渡してくれる。最初に私たちが口にしたのは、まだ甘くなってないスイカ。「これ、水だと思って食うの」との説明のまま、私たちはひとしきりのどを潤す。高橋さんの超ネイティブ仙台弁に誘導される小さな庭の旅が終わる頃には、私たちの手は持ちきれないほどの野菜を抱えていた。ちなみにツアーを締めくくるとっておきは、最高に甘い食べ頃のスイカ。水だと思って食べたスイカは、実はこのための伏線だったようだ。

館長随行録3(8)

畑からとったスイカをその場で割り、「ほら、水だと思って食うの」とひとりひとりに配る高橋さん。まだ収穫期になる前で甘くないが、とりたてのみずみずしさは半端じゃない。

沿岸部の津波被災地から避難した住民の多くは、仙台市街東部の公園等をにたてられた仮設住宅に仮住まいしている。そのうちのひとつである福田町南1丁目公園の一角には、メディアテークの設計者である伊東豊雄氏が被災地の人々のために手がけた「みんなの家」の第1号がある。ひたすら被災者の声を聞きながら、人々が安心して集えるように設計された木造の建物は、一見、デザイナーとしてのこだわりを封印したかのようにすら見え、伊東氏のこれまでの作風を知る人は一様に驚く。完成以来、木のぬくもりに満ちた「みんなの家」は、仮設住宅に住む人々の憩いの場となっている。

館長随行録3(9)

仮設住宅の方々が育てた花壇に囲まれた「みんなの家」。伊藤み弥さんは今、ここの仮設住宅の方々とともに、「花は咲く」を歌う練習を重ねている。「仙台フィルとうたう『花は咲く』合唱団プロジェクト」として、2014年4月の公演をめざしているそうだ。

「みんなの家」をあとにして、最後の訪問場所である宮城野区文化センターに向かう。鷲田館長は、区役所の大きさや区の文化センターの立派さにしきりに驚いていた。被災地から戻ったばかりということも多少あるかもしれないが、少なくとも京都でいったらこれは市役所の規模だという。京都の区政は仙台と違い、小さな単位で細かく分かれているためそもそもひとつの区の規模が小さいらしい。 さて今回の被災地めぐりは、来る10月17日に宮城野文化センターの開館1周年を記念して開催される「みんなで聴きたい語りたいせんだいメディアテーク鷲田清一館長とともに」のための下準備でもあった。当日は鷲田館長が、今回の案内人となった吉田祐也さん、伊藤み弥さんを迎え、それぞれの活動を通じて、震災のこと、復興のこと、これからのことなどついて語り合う予定だ。

イベントの詳しい情報はこちら(PDF)

宮城野区文化センター開館1周年記念
「みんなで聴きたい語りたい せんだいメディアテーク鷲田清一館長とともに」
日時:2013年10月17日19時から20時30分
会場:宮城野区文化センターパトナシアター

館長随行録3(10)

最後に訪れた宮城野文化センター。図書館の入り口の落とし物コーナーに、メディアテークが発行したフリーペーパー「ニューニューせんだいノート」が置かれていた。今もフリーで配布しているものが、回り回って落とし物になることがなんだか不思議で、思わずパチリ(閑話休題)

※今回お会いした方々

○吉田祐也さん みやぎ連携復興センター事務局長補佐
29歳
2010年よりNPO法人せんだい・みやぎNPOセンターにて、市民活動・コミュニティ支援の仕事に携わる。 東日本大震災以降は、仙台市宮城野区の地域連携コーディネーターとして、災害ボランティアセンターや避難所や仮設住宅への支援団体のマッチング業務に従事し、現在は同組織の復興事業部門「みやぎ連携復興センター」にて、宮城県域での支援団体・企業・行政のコーディネート業務や調査・政策提言業務、地域人材育成業務を行っている。 趣味はサーフィン、ライフセービング、ダイビング・・などマリンスポーツ。

○伊藤み弥さん
一般財団法人音楽の力による復興センター・東北 コーディネーター
仙台市青葉区在住。15歳まで名取市閖上で育つ。仕事をしながら演劇やダンス、映画などの裏方をたしなむ。 震災以降は舞台芸術に関わる有志とともに任意団体「アートリバイバルコネクション東北」を立ち上げ、地元アーティストによる復興支援活動をサポートした。2012年9月より現職。実は、クラシック音楽は未知の世界。

○高橋實さん
和田町内会会長、中野小学校区復興対策委員会委員長
76歳
伊達家の家臣和田氏とともに12代にわたりこの地に暮らしてきた。東日本大震災以降は、中野地区(学区)の各町内の被災状況把握、犠牲者の安否確認、自衛隊や警察への協力のため、被災した自宅事務所に夫人とともに残っている。中野小学区の4町内会役員などで構成される復興委員会では委員長をつとめ、毎月2回の委員会や3月の慰霊祭などを開催する。49の町内会を擁する高砂地区町内会連合会の副会長として、津波被災地だけでなく地域全体のお世話もしている。 趣味は野菜・花づくりと川柳。震災後、隣の町内会で発行している西原新聞に川柳を投稿している。