SCAN2009関連企画

従来の活動にとどまらず、パフォーマンスやコンサートなど、その活動領域を急速に広めているミュージアム。また一方で、街のなかで展開されるアートプロジェクト/フェスティバルやオルタナティブスペースの隆盛、デジタル/バーチャルミュージアムといったウェブサイトでの展開も注目されています。

表現の方法や場がますます多様化する現在、ミュージアムはどこに向かうのでしょうか。

今回のレクチャーでは、多種の分野を横断して活動されている方で、アートやミュージアムに関わっている方をゲストにお招きし、それぞれの経験や視点をもとに、現実的な場である「ミュージアム」だからこそ持ち得る可能性やその役割について、考察を深めます。

料金 1回 500円(4回通しチケットは1,500円)
定員 各回 30名(先着順)※飲みもの付き

申込み

※催し名、参加回、〒住所、氏名、年齢、電話番号、
電子メールアドレスを記入して担当係へ申し込みください。

*応募・申し込みにていただいた個人情報は、
当該事業及び関連事業の連絡やお知らせのみに使用いたします。

10/24(土)

10/25(日)

会場

小崎哲哉(おざき てつや):コーディネーター

※聞き手として各回に参加します

小崎哲哉
1955年東京生まれ。カルチャーウェブマガジン『REALTOKYO』(www.realtokyo.co.jp)、アートウェブマガジン『ART iT』(www.art-it.asia)編集長。89年、文化情報誌『03 TOKYO Calling』の創刊に副編集長として携わり、96年にはインターネットエキスポ日本テーマ館『Sensorium』のエディトリアルディレクションを担当する。企画制作作品にCD-ROMブック『マルチメディア歌舞伎』、写真集『百年の愚行』などがある。京都造形芸術大学客員教授。

ヴィヴィアン佐藤(ヴィヴィアン さとう)レクチャー1

「幽霊が宿る場-非建築的視点から」

ヴィヴィアン佐藤
非建築家、アーティスト、イラストレーター、パーティイスト、ドラァグクイーン、文筆家、映画批評家、、、 と様々な顔を持つ。ジャンルを横断していき独自の美意識と哲学で「トーキョー」と「現代」 を乗りこなす。様々な言説と言動は分裂的で不明ではあるが、ここ東京では不思議な整合性を放ち、その場では妙に納得させられてしまう。最近ではバーニーズNY、ヴーヴクリコ、LANVIN、MILKFEDなどのディスプレイも手掛ける。野宮真貴や故山口小夜子,故野田凪など個性派美学を持つ女性と仕事も多い。

戌井昭人(いぬい あきと)レクチャー2

「散歩目線で勝手にとらえる場」

戌井昭人
1971年東京生まれ。寸劇や歌や踊りなどをおりこみ、演劇というジャンルにとらわれずに、 縦横無尽に活動する変テコなパフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」を立ち上げ、脚本、出演、 その他、もろもろを担当。最近は小説も書いており、今年、141回の芥川賞候補に選ばれ、9月には、作品集の単行本「まずいスープ」(新潮社)が刊行された。
http://www.tetsuwari.com/

木幡和枝(こばた かずえ)レクチャー3

「場所のリズムを分解せよ、メロディーを分子化せよ」

木幡和枝
東京生まれ。東京藝術大学先端芸術表現科教授。出版社勤務後フリーのアート・プロデューサー、編集者、 翻訳者。アムステルダムのDe Appel、NYのP.S.1 現代美術センター及びArt Radio (NY)客員キュレター、プロデューサー。1982年東京中野にアーティスト共同運営スペース<plan B>設立、1988年より<白州・ 夏・フェスティバル>(現在は<ダンス白州>と改称)事務局長・実行委員。主な翻訳書にスーザン・ソンタグ『この時代に想う』『良心の領界』『同じ時の中で』、ローリー・アンダーソン『時間の記録』(いずれもNTT出版刊)、ベン・ワトソン『デレク・ベイリーと即興音楽の物語』(工作舎、2009末刊予定)、アラン・リクト『サウンドアート』(フィルムアート社、2009末刊予定)、トニー・ゴッドフリー『コンセプチュアル・アート』(岩波書店)。

レクチャー1「幽霊が宿る場 非建築的視点から」

ヴィヴィアン佐藤(ヴィヴィアン さとう)

  • レクチャ−1の様子
  • レクチャ−1の様子

非建築家、アーティスト、映画批評家、ドラァグクイーン、イラストレーター、文筆家と、様々な肩書きを持つヴィヴィアン佐藤の活動の全貌を把握することは非常に難しい。当日もドラァグクイーンの姿で登場してくれたヴィヴィアン氏。ドラァグクイーンというと、クラブなどアンダーグラウンドで活動するイメージが先行するが、ヴィヴィアン氏は、クラブイベントのほかにも、美術館やギャラリーの様々なオープニングパーティに呼ばれることが多いという。パーティーといっても、ただゲストがいて、美味しい食事と飲み物があれば成り立つというものでもない。そこにはホスト役が必ず必要で、適切な話題を提供したり、人と人を結びつけたり、またよどんでいる場所をみつけてはコミュニティをひっかき回す人が必要である。ドラァグクイーンとしてのヴィヴィアン氏にはそのような役割が期待されることが多いのだという。実際にレクチャーの中で紹介されたパーティーでの参加者との記念写真では、そうそうたる人物が、普段は見せないようなリラックスした表情でカメラに向かって微笑んでいた。これは、ヴィヴィアン氏だからなせる技で、ドラァグクイーンとして振る舞うからこそ、社会的な地位や境界を軽々と超えて人と隔たりなく交流することができるのだ。このような職能ともいうべきホスピタリティを持つヴィヴィアン氏は、我々の想像を超える人脈の広さを誇る。

ヴィヴィアンの「人と人をつなぐ」活動は、パーティー以外の場でも活かされていて、それが「ヴィヴィアンシート」というものである。友人に勧めたいと思うイベントなどのチケットを通常の価格より安く設定して提供するという、言わば私設PR活動である。多いときには400枚ものチケットを売ることもあるという。ただやみくもに紹介するのではなく、あくまで自分自身が良いと思ったものだけを紹介している。ヴィヴィアン氏いわく、作品は、個人だけで創られるのではなくて、いろいろなものが共鳴しあい、また現代の社会が求めているものが自然と形となって立ち現れてくるものである。そこから自分が何を汲み取れているのか、それを常に問いながら活動しているのだという。「重要なのは、作家が面白いことをするだけではなくて、きちんと観る人に届けられるということ」と小崎氏が続けた。小崎氏は、雑誌やウェブという媒体を使って人やものごとをつないでいるが、ヴィヴィアン氏の場合はヴィヴィアン氏自身がメディアとなり、人やものごとをつなげていく。そこに、彼女を軸とした「場」が生まれるのだ。そこに彼女の本質が現れているのではないかと思う。

また、作品を読み解く際に、ヴィヴィアン氏は「誤読」に努めているという面白い提案を行った。作家が気づいていないことも含めて、作品の制作された場所の歴史や磁場のようなものを読み解きながら、自分のものにしていく。これは先に触れた、「いかに自分自身が汲み取れるか」という、自分自身のリアリティを基準に率直に人やものとの関わり続けているヴィヴィアン氏の一貫した姿勢を垣間見せるエピソードである。

人と人、ものごととものごとをつなぎ、ジャンルや境界を超えた交流を生み出す「場」。それは、アフターパーティーのような制度の外にある場合も多い。より豊かなアートの場を広げていくには、ヴィヴィアン氏のようなアートという場におけるホスト役や良きサポーターの役割が非常に重要であることに気づかされたレクチャーであった。

林朋子(せんだいメディアテーク企画・活動支援室)

レクチャー2「散歩目線で勝手にとらえる場」

戌井昭人(いぬい あきと)

  • レクチャ−2の様子
  • レクチャ−2の様子

戌井氏は鉄割アルバトロスケットというパフォーマンス集団の主宰をしつつ、近年では小説を発表、またギャラリーでも作品を発表するなど、言わば舞台表現、文学、美術といった様々な活動をしている。これらの活動は分断されているのではなく、ラジオのチューニングをあわせるようにして活動を続けているという。

戊井氏が今回のテーマに対して提案したのは「散歩」。何でも歩くことが好きで、その歩いている道すがら目に入ってくるものに刺激を受けることが多いのだという。美術館も、散歩の途中に上野公園の美術館群に立ち寄って、そこの椅子で休憩しながら作品を観て様々なことを回想する、そういった具合だ。「今日はこの作品/展覧会を観よう」と目的を持って美術館に訪れ、予め決められた順路をたどり、整然と並べられている作品を観て、満足して帰路につく。得てして、我々はそういった行為に慣れてしまっているのではないだろうか。そういったことに一度疑問を持つと、さまざまなことが気になってくるし、当然作品の見方も変わってくる。そもそも、どんなものでも、想像していたシチュエーションではなくて、予期せぬタイミングで予想外のものを突きつけられたときの衝撃のほうがはるかに大きい。散歩とは目的地があってないようなもの。点と点を結ぶような移動ばかりしていては出会えないようなものごとに出会うことこそに散歩の醍醐味がある。戌井氏は、散歩の途中で出会ったユニークな「小事件」の体験談の数々を披露してくれた。散歩をしていてこんなことに出くわすのか、と驚かされるエピソードもあったが、これは戌井氏の視点のユニークさのなせることなのだと感じさせられる。同じ場所にいても、何を感じ取るかは当の本人次第なのだ。出来事に限らず、作品の出会い方の場の設定の仕方や視点はもっともっと自由であっていい。戌井氏の肩肘の張らない語り口は、私たちの凝り固まった頭を少しずつ柔らかくしてくれる。作品との出会い方といった点では郊外型の美術館ではなかなか散歩の途中にふらっと立ち寄ることが難しい。大きくて立派でなくても、都市の中に美術館やギャラリーがもっとたくさんあれば、鑑賞の機会が増え、また身近さも増すのではないかという意見も出た。

散歩の話から発展し、ジャンル・ミックスの問題についても言及された。戌井氏は、自身が劇団を主宰していながら、実は演劇関係者との交遊はそれほど多くなく、むしろ音楽や美術分野で活動する人との交流が深いという。そこから生まれるコラボレーションから新しい作品が生まれる可能性もある。これは、一時代前の「サロン」にも通じるところがある。現在、皆自分の専門に凝り固まってしまい、同じ美術であってもジャンル内の小さなカテゴリ内に留まりがちな傾向もみられる。書道と現代美術、あるいは古美術と現代美術など普段交流の少ないジャンルをあえて同じ場所で展示することによって新しい交流が生まれるのではないか、そういったアイデアもかわされ開かれる同じ分野の中でさえ生まれがちな境界を混ぜていくこと、自由な視点でものごとと接することで開かれる新しい出会いの可能性、そんなことに気づかされたレクチャーだった。

林朋子(せんだいメディアテーク企画・活動支援室)

レクチャー3「場所のリズムを分解せよ、メロディーを分子化せよ」

木幡和枝(こばた かずえ)

  • レクチャ−2の様子
  • レクチャ−2の様子

木幡氏は、翻訳家、同時通訳、編集者、東京藝術大学教授、「オルタナティブ(異質な、型にはまらないを意味する英語の形容詞という)な」アート・センターやライブ・パフォーマンス・スペースのプロデュース、そして国内外で有数なアート・イベントやフェスティバルのプロデューサーとしても知られ、最先端のアートシーンをリードされてきスゴイ方だ。

木幡氏の口からは、コンサバだった仙台出身のお祖母ちゃんの思い出、バレエを習ったり、大人の本を読んだり、カメラを与えられ写真を撮っていた早熟な子供時代の頃のこと、英語との出会い、学生運動全盛の最中、各党派のビラを超党派の立場で翻訳したことが翻訳家としてのルーツだという話、世界的な写真家集団「マグナム」でアシスタントをした時のこと、編集者としてのキャリアなどなど、歯に衣着せぬ刺激的な話が次々繰り出され、一言も聞き漏らしたくないと思うほど引き込まれた。

そうした話の中からは、旺盛な好奇心と鋭い感性、並外れた吸収力で幼少の頃からの「仕掛人」「参謀」であったことが伺われる。「人様が表すものを享受するのが私の役回り」と笑う木幡さんのベースにあるのは、優れたものに対する「憧れ」なのだという。木幡さんの中に在る受容体が反応したものだけに自然と運ばれて行く。ジャンルは何にしても「人間的」「はかなさ」がキーワードらしく、一夜限りの即興ライブのプロデュースもその一つだという。 美術館は、収集、保存、研究、展示、教育普及と、様々な機能を備えているが、コレクションに限らず一つのものを継続していくことが大切であるという。しかし、ご自身は永久に残る物を集めるタイプではなく、消え行くものに興味があるのだそう。そんな木幡氏が数あるミュージアムの中で「場としてのミュージアム」として挙げたのは、自身も客員キュレターを務めたニューヨークの「P.S.1 Contemporary Art Center」だ。

次々と繰り出される興味深いお話のラストの方で、本日のテーマにふれた。「リズムを分解せよ」とは、「場所に拝跪しないこと」。つまり、与えられた場所にちなんで何かをするとか、そこの場所特有のものをやるというだけでは足りない。場所に追従しない、跪かない、自己卑下しない。仮に表現が稚拙だったとしても、「ありがとうございます」と権威に服従しなくていい。よりアクティブなエネルギーを注入してこそ初めてアートになる。場合によっては先人の業績すら踏みにじる覚悟も必要。ミュージアムの見学順路にしても従う必要は全くなく、自分の中で編集してテーマを決めて好きなように見ることがあっていい。

次に「メロディーを分子化せよ」については、「海」から生れた生命体である人間の60兆の細胞1つひとつに「海」を含んでいるといわれている。分子はエネルギーを孕み、すべての意味が眠っている。物語性を語るのはメロディーだが、時にはメロディーを追わず、分子化してみる。ありのままをもう一度見てみることがあっていい。これらは「あたり前と思う何気ない日常を疑いなさい。ありのまま見なさい。好きなように生きなさい。それがアートなんだから」という木幡氏からのメッセージのように感じ、大いに勇気づけされた。

最後に、今も強烈に心に焼き付いているのが「革命家でありたい」という言葉。革命家とは、親も妻も殺せるいわゆる職業革命家という意味ではなく、「生命をあらためるという意味での革命家」とのこと。終了後、「スケールは違いますが、私も革命家でありたいと常々思っています」と話しかけた私に、目を輝かせ大きく頷いて下さった木幡氏に心から感謝!話の中に何度も登場した木幡氏の盟友ともいうべき故スーザン・ソンタグの最後のエッセイ集『同じ時の中で』(NTT出版刊、2009)を近く読む予定である。素晴しい企画にも感謝!次回も楽しみにしています。

神坂礼子(スタジオ・ラボ「ミルフイユ編集部」/コピーライター)

まとめセッション

ヴィヴィアン佐藤/戌井昭人/木幡和枝/小崎哲哉

まとめセッションの様子

小崎哲哉氏は、この企画のコーディネータとしてゲストを考えるにあたって、あえてアート・ワールドの「ど真ん中」にいる人ではなく、多岐にわたる活動をしている方々を招くことを意識したという。そうすることによって、それぞれの視点が化学反応を起こし、これまでにない面白い話を聞くことができるかもしれない、また、そういった人をゲストにお呼びすること自体が可能性を広げることになるのではないか、そのように考えたという。また小崎氏は、今回のゲストの共通点を、位相の異なる文化をつなげてコミュニケーションをはかっている人、移動する人たち、フラヌール、現状の社会に対して意識的に異端であろうとしている人、とも形容した。

これまでの3つのセッションを受け、小崎氏は、「美術館は、正統なものに対するオルタナティブであってもよいのではないか」という提案を行った。そこで、小崎氏は本テーマをひもとく手がかりとして、スーザン・ソンタグの『反解釈』の中に収められた「キャンプについてのノート」を紹介した。キャンプとは、「説明をしようとすればそれにまるごと裏切られるかもしれないような、名状しがたい感覚のこと」であり、誇張されたもの、外れたもの、ありのままでないものを好むことだという。それを受けて、木幡氏は、現代の社会が簡単に二分化することができない状況に陥っていて、誰もがキャンプ的にならざるを得なくなっている。また、人種、経済、ジェンダーなどアイデンティティの問題も自己決定できる自由が生まれた一方で、新しい価値観や自己決定することに不安を感じ、社会で通用するレッテルにしがみつこうとする矛盾した現象が起きているのではないか、と指摘する。こういった兆候は何も若い世代にだけみられるものではなく、美術にも同じことがいえるのではないかと話題は広がった。例えば、美術館に訪れると、「○○派の重要な作品」などと急に改まって作品をみてお勉強モードになる。これも美術作品も一種のブランド信仰になっているのと同じこと。そもそも、作品をみたとき、重要なのはその作品に対する知識を持ち合わせているか否かではなく、個人として呼応するものがあるか否かであし、作家にとってみれば、一番の喜びは専門家から評価されるのではなく、観者から本物の共感を得られることである。そういったことをもっと大切にしていかなければならないと、ゲストの皆が口を揃えて指摘した。特に現代美術の領域では、作品を観る側の責任は作品をつくって発表することと同じくらいの重要さを持つことを、私たちはもっと意識しなければならない。

最後に、木幡氏はこのテーマに対するヒントとしてスーザン・ソンタグの言葉を伝えてくれた。

「Comfort isolates.(安寧は人を孤立化させる)」
「Solitude limits solidarity.(孤独は連帯を阻害する)」
「Solidarity corrupts solitude.(連帯は孤独を腐敗させる)」

この全てを満たすことは極めて困難なことだが、これらを実践しようとすることによってしか、新しい創造性や関係性は生まれてこないのだろう。作品を観る者も、創作する者も、見せる場を運営する者も、これが正解という模範解答はないのだから、常に模索していくしかないのではないか。ミュージアムとは何か、その限界を問い続けること、そして制度や習慣の外にあるものを積極的に内に入れていくことが「場」としてのミュージアムの可能性を拡張していくことではないかと、まとめセッションは締めくくられた。

林朋子(せんだいメディアテーク 企画・活動支援室)

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