「記念碑」とはなんでしょう?
「記念碑」という言葉は、「念い」を「記す」「碑」と書きます。
きっとそれぞれの「記念碑」には、その碑を建てた共同体の熱い「念い」(理想、事件、愛、欺瞞、信念などなど、、)が様々な形で表現されているはずです。その意味では、神社仏閣、事件現場、老舗なども公設記念碑といえるかもしれません。
このワークショップでは、仙台という町のなかにある記念されるべきことがらを、図書館などあらゆるメディアをつかって調べ捜し出し、あるいは創り出して、ブロンズを素材とするオリジナルのおもしろ記念碑をつくります。

記される場所のために記されたもの - 駒形克哉が仙台八景を語る -
  1. このワークショップでは、仙台の歴史、文芸、現在、政治、理想、それらの中に記念されるべきことがらを、図書館等あらゆるメディアをつかって調べ捜し出し、各自、現在の街のテクスチュアのなかにそれを建てます。
    共同体に対する愛情が、理想を生み、それが雛形による表明となって、共同体への言葉による働き掛け(建立嘆願)に、本当にそれが建立され、みんなが末代まで幸せになる、という「共同体と芸術と個人」の理想的なありようを追求するワークショップ。

  2. 記念碑というのは強引な(公共の/への)押し付けです。まして何千年も耐久性があるもので、未来永劫に押し付けようというのですからずうずうしいものです。もっともずうずうしい芸術をささやかにやってみようというのです。このずうずうしさは万民に与えられている権利いや、むしろ義務でしょう。人はみな自分の思いを公に述べる義務があるのです。 なぜか?社会を向上させるため、人々を死ぬ程の退屈から救うためです。

  3. 「自分の考えを人に押し付ける事」というのは、やはりこのワークショップの核心です。「考えの押し付け」が暴力によってでなく、人が喜んで受け入れられるような手法を考える事、つまり「修辞学」それも、芸の力によってです。伝えたい事柄を個人的であろうと共同体的であろうと、まずはっきりとさせ、それを誰もが喜ぶような形を与えて記念碑とする。

  4. 個人的と、共同体的の区別も曖昧で恣意的なものです。 無名の人が穴につまづけば個人的であり、偉人が個人的につまづけば共同体の出来事になり、また、記念碑表現がうまければ共同体の記憶になります。また、どんなに公共的な事でも企画者が人である以上、個人的主観をまぬ がれることはありません。だから、自分の考えを明確に表現して社会に押し付けていくレトリックの練習としての意義だけでも十分あるのではないかと思います。そして、それが、これらの事に関して、個人が出来る最良のことと思われます。皆が皆、芸術における修辞の達人になるのが理想社会なのですから。

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