せめて、機械の目として

 それは奇妙な光景であった。黒い全身タイツに身を包んだ男が腹這いになり、臍を中心にゆっくりと回転している。両腕をこころもち左右にひろげ、両膝から先を直角に曲げた男は、スカイダイビングで宙を舞っているようにも見えた。男の両目に装着されたゴーグルも、私の空想に一役買っていたことは間違いない。しかし、男は大空を滑空しているのではなく、ヨーロッパの古城の一隅、冷え切った石畳の上で回転していたのであった。
ポータブルDVDの小さな液晶画面から、壁に掛けられた大判の写真に視線を移す。左右に二枚並べられたその写真は、一つの風景を左右ふたつに分割して撮影されたもので、真ん中から一枚に継ぎあわされていた。向かって右手の写真にはヨーロッパの城が白亜の外郭を見せてそびえ、中央には二つの画面にまたがって小さな池が配されている。封建時代の洋装に身を包んだ男が池の奥にある柵に足をかけて画面の奥を見やっているのが点のように見える。左側の写真、前景には手入れされた生け垣が配され、さらにその手前に何か黒いもやのようなもの、明確なかたちを持たない、気配の集密したような存在が写し込まれていた。私が、その存在の正体−回転回−に気づくのに、ほとんど時間はかからなかった。
屋代氏は、この奇妙な写真行為−回転回−を14年続けてきたのだという。

 私が回転回について知ったのは比較的遅く、2005年にせんだいメディアテークで開催された写真展「85/05」の内覧会においてであった。その内覧会において、前述した回転回作品とメイキングDVDを拝見し、作者の屋代敏博氏と少しだけ話をさせていただいた。そのときは、自分が屋代氏のカメラのレリーズを握り、秒数を数えながらシャッターを切ることなど夢想だにしなかったのである。

 今回、せんだいメディアテークにおいて開催された回転回Live!において、私は撮影アシスタント的役割−ありていに言えばシャッターを押す役割−を担当した。屋代氏本人も写真に写り込み、回転する写真行為−回転回−においては、シャッターを押すのは屋代氏本人ではない。写真家である屋代氏は参加者に指示を出し、構図を決め、ピントを決め、露出を決め、要するに状況を作りだした後…最後に他者にレリーズを渡す。屋代氏自身が写真に写り込むためには、レリーズを押し込みシャッターを動かす他者(場合によって、それは機械仕掛けのセルフタイマーが代行するだろう)が必要なのだ。
「決定的瞬間」において成立する写真の面影は、そこにはない。

 ストップウォッチで秒を計りながらシャッターを押し込み、カウントを読み上げる。露光はほとんどの場合20秒で、私は終日「回転スタート…1…2…」と20まで数えることになった。そうやって屋代氏を含む参加者が回転しているさまを見続けるうちに、私は、私の存在がこのワークショップに置いて異質で、またひどく透明な存在に思えて来るのであった。その思いは、できあがった写真を拝見した時に、ますます強まる。

 回転回Liveにおいては、ワークショップ参加者らは作品の一部としてカメラの前に立ち、回転しながら画面に映り込む。作者である屋代氏も例外ではなく、参加者のひとりとしてカメラの前に位置し、自ら画面にうつりこんで行く。参加者が回転し、作家自身も回転する。そこには、作品の作者とワークショップに参加する(受け身の)参加者というステレオタイプな構図とは異なる、相互に関わり合うかたちがある。かつての写真文脈で言うところの撮る者−撮られる者、主体−客体…という二項が対峙することなく入り交じっており、作品を作る屋代氏と、参加者の間には隔たりがない。
ところが私はと言えば、カメラの後ろに立ち、カメラと三脚に振動を与えないよう、じっと動かぬままレリーズを押し込み、ストップウォッチの数字を読み上げる。私は、カメラの前に出ることはなく、ましてや回転することもない。このワークショップにおいて私と屋代氏を含む参加者の間には明確な断絶が存在し、それは、古くからの写真における撮影者と被写体の関係としてたちあがってくるのである。

 その場所に築かれている相互に関わり合うようなかたちから、私だけが古典的な関係式で離脱している。作者と参加者が回転し、その明瞭なかたちすら渾然と混じり合った空間で、私だけがカメラの後ろにいてじっと固まったままシャッターを押し込んでいる。そうしてできあがった写真に、私の存在はない。カメラの前にいないのだから、とうぜんである。写真をかたちづくる視点は屋代氏のものであるわけだから、とうぜんである。できあがった写真を見て欲しい。シャッターを押した人間の存在は、ここでは完全に消滅している。

 この写真を作り上げた作者は屋代氏であり、その屋代氏は自ら写真に写り込んでいる。できあがってきた写真に、私が関与した痕跡はない。これが、私が私自身を異質かつ透明な存在と呼んだ理由である。この図式において、私は、私たちが写真を見る時の、カメラの存在に限りなく近づいている。
カメラ…機械の目…は、概して自己主張をしない。写真というものは主に、写真に写っている像と、それを写した者の意図と、その実現の程度で評価される。純粋に撮影したカメラのみによって評価される写真というものは、ほとんど存在しない。
カメラそのものは、単に光を記録するだけの透明な存在なのだ。

 ワークショップに参加した私は、回転回になることはなかった。そのかわり、私は機械の目の一部となって機能した。
はたして私は、ほんとうに透明な存在になりえたのであろうか。

越後谷 出