架空の郷土芸能つくりますワークショップ

ありえたかもしれない音楽

「逆シミュレーション音楽」は現代における作曲、演奏、そして音楽体験というものを捉え直すための究極の音楽として三輪が名付けたものである。単純なアルゴリズムによって生み出される純粋行為としての音楽、「逆シミュレーション音楽」のコンセプトと現在までの試みを紹介する。そのコンセプトとは裏腹に「逆シミュレーション音楽」の実際は音楽の専門知識も演奏技術も必要としない単純なものである。

音楽における3つの「相」に基づく「逆シミュレーション音楽」の定義

[概念と名称について]

逆シミュレーション音楽とは人間の行為によって生み出されるある特定の現象の総称で、それは音響現象を含むことがある。その際、人間の行為が「繰り返し計算」によって得られる数列に基づいて行われることを大きな特徴としている。
逆シミュレーション音楽は地球上の古代人や未開民族が行っていたかもしれない、あるいは行うことが可能であったような音楽(これを「ありえたかもしれない音楽」と呼ぶ)を空想し、主にコンピュータ・シミュレーションによって検証しながら新しい音楽を生み出す試みである。その際、演奏会や作曲家、演奏家、聴衆の区別など、音楽に関係する既存の社会的制度は前提としない。
また、従来の音楽では演奏される音の根拠や規則を精神性や感覚などの概念によってしばしば隠蔽するが、逆シミュレーション音楽はむしろそれを「規則による生成」(論理計算)によって露呈させつつ、それに「解釈」と「命名」を加えた3つの「相」の概念によって自らを定義する。
定義に使われている、音楽におけるこの3つの「相」の概念は逆シミュレーション音楽以外の音楽一般についても適用可能で、それは人類の音楽概念に対する新たな視点でもある。ただし、ここでは「繰り返し計算」の適用など、逆シミュレーション音楽に固有な条件のみが述べられる。
この試みは、地上で起きる様々な現象を物理法則等を基にコンピュータ空間内で模倣するコンピュータ・シミュレーションという考えを反転させ、コンピュータ空間の中で検証された、ある法則に基づく現象を、現実空間において模倣するものであることから「”逆”シミュレーション音楽」と名付けられた。さらに「ありえたかもしれない音楽」を模倣すること、つまり実際には存在しなかったであろうものを現実世界の中で模倣するという意味も、そこに込められている。

[音楽における3つの「相」について]

逆シミュレーション音楽における個々の作品は「規則による生成」、「解釈」、「命名」と名付けられた3つの「相」によって規定される。その際、「規則による生成」における規則を考えた人を「考案者」と呼び、 「解釈」における決めごとを考えた人を「作曲者」と呼び、 「命名」 における名前や由来を考えた人を「命名者」と呼び、「解釈」によって逆シミュレーション音楽を行為を通して実現することを「演奏」と呼び、この「演奏」を行う人を「解釈者」と呼ぶ。その際「考案者」、「作曲者」、「命名者」は同一人物であってもよい。
「規則による生成」とは、解釈者が演奏中に行う計算の手順(=アルゴリズム)をもとに、演奏中のある計算が、それよりもひとつ前に行われた計算結果に基づいて行われ、これを連鎖的に繰り返していくような、繰り返し計算システム全体のことである。また、このシステムにおける計算の連鎖は原則として閉じた環を形成しているものとする。
「解釈」とは 「規則による生成」によって生み出される計算結果(数列)を解釈者がどのように読みとり、また次の計算ステップにどのように受け渡すかを現実的に定めることである。つまり個々の計算結果に対応した解釈者のふるまい方や演奏の準備、そのために使用される道具等に関する工夫のことである。さらに解釈者が演奏時に犯すかもしれない誤りに対する対処法もこれらの工夫に含む。
「命名」とは作品タイトルや規則の名前、解釈で行われる行為、使われる物などに名前を与えることであり、またそれらの「由来」を解説することを含む。 命名は逆シミュレーション音楽作品を固有の物語に位置づけ人間社会に登録することである。

[3つの「相」における「逆シミュレーション音楽」の条件]

規則による生成:
規則は高度な科学的知識を持たない人々(例えば子供や古代人)でも、文明を持つ地球上の人類ならば、 計算可能かつ考案可能だと思われるものでなくてはならない。規則は論理的な言語によって記述可能なものに限り、そこに偶然性や恣意的な選択を含んでいてはならない。つまり、 計算の結果は演奏開始の状態が同じならその後も常に同じになるようなものでなくてはならない。解釈者が行うべき計算は記憶可能でまた単独できるものでなくてはならない。逆シミュレーション音楽作品は演奏開始時に特定の状態(=初期値)を持つことがある。
解釈:
解釈は、一生を費やして訓練し続ければ地上の人間ならば誰でも実行できるようになれるものでなくてはならない。解釈は規則による計算結果を他者がきるだけ明瞭に識別できるよう工夫されていなくてはならない。解釈は規則によって生み出される現象全体の特性や多様性をできるだけ明瞭に知覚できるよう工夫されていなくてはならない。解釈は計算を解釈者ができるだけ迅速、確実に行えるよう工夫されていなくてはならい。解釈は命名によって定められた名前や由来によるイメージに影響を受けることがある。
命名:
命名された様々な名前やその由来は命名者によって新しく創られた架空のものでもよい。名前や由来は 規則や解釈によって定められた決めごとの特徴を反映していなくてはならない。名前や由来は解釈者や鑑賞者が作品を解釈し記憶する手助けになることがある。名前や由来は解釈における様々な工夫の手助けとなることがある。

[好ましい「逆シミュレーション音楽」]

訓練によって反射的に行えるようになる規則や解釈は好ましい。
解釈者が誤りを犯しにくい規則や解釈は好ましい。
単純で多様な結果を生み出す規則は好ましい。
繰り返し計算によって生み出される数列が反復しないような規則は好ましい。
よって、規則によって引き起こされる短く正確な数列の反復は好ましくない。
ただし反復ではない、 規則によって引き起こされる特徴的な現象は好ましい。
名前や由来 はイメージしやすく、事実と信じられるものが好ましい。
名前や由来において考案者、作曲者、命名者の名前などが敬意を持って残されることは好ましい。

[逆シミュレーション・アンサンブル]

逆シミュレーション・アンサンブルとは、逆シミュレーション音楽を実現するための複数の解釈者からなる演奏集団のことである。ひとりの解釈者が単独で規則による計算を続けながら行為することは通常高度な訓練を必要とすることが多いため、計算と行為を複数の解釈者に分散し共同で行うこの逆シミュレーション・アンサンブルは逆シミュレーション音楽のもっとも自然で望ましい実現形態である。

[記譜された「逆シミュレーション音楽」]

本来の逆シミュレーション音楽は 規則による計算をしながら演奏を続けるものであるが、それが現実的に不可能な場合、あらかじめ計算の結果を記譜し、それに従って演奏を行うことがある。これは本来好ましくない逆シミュレーション音楽ではあるが、 規則に従い解釈と命名が行われている限り逆シミュレーション音楽のひとつの領域である。

「あり得たかもしれない」音楽

随分前にぼくは自分から「方法音楽、はじめました」というメッセージを中ザワさんに送ったことがあった。ハープのための作品「すべての時間」を完成させた時のことだ。なぜそう考えたのかといえば、「方法主義宣言」で語られている定義はよそに、まずはこの作品が純粋にコンピュータ・アルゴリズムで作曲されたものだったからにすぎない。乱数すら使わず、初期値が決まれば曲全体(永遠、あるいは2昼夜続くことになっている)のピッチはもちろんリズムまで、楽譜に定着されるべきすべてが 決まってしまう音選びの規則をぼくはこの作品で考えた。
ぼくがハーピストに渡した楽譜は西洋の伝統的な記譜法で音符が記され、誰が見てもある作曲家が創った作品だと思ってくれただろう。しかし、実はこれはもう普通の意味では音楽ではないし作曲とは言えないのかもしれない。それはただ、ハープという音の出る道具を使ってこのように行為せよ、と示した覚え書きである。それが音楽と呼ばれるものになるのかを約束しようとはしていない。そしてぼくは、ハーピストの行為を指定する基本原理をコンピュータ・テクノロジーを使ってみつけた誰かである。それでも、ぼくがこの地上にそのような音楽が「あり得たかもしれない」と確信できればそれは、少なくともぼくにとっては音楽なのである。「あり得たかもしれない音楽」と言う時、その前提は演奏可能であるということと、コンピュータなどを使わなくてもこの世の誰かが思いつくことが可能だった原理を持っているということである。即ち「あり得たかもしれない」音楽であるためには人間に実現可能な(演奏)行為の仕組みがなければならない。それは、もしかしたらコンピュータがなくても地上のある民族が行っていたかもしれない音楽や伝統、考え方を考えることでもある。
しかし、カオスやフラクタルの基礎理論は紙と鉛筆で考えることができても実際の研究はコンピュータが生まれなくては進まなかったように、今ぼくが考えているこの「方法音楽」もそのような意味でテクノロジーによってはじめて可能になる新しい、演奏規則にのみ着目した音楽であり、それは行為の「方法」によって音楽を 考えてみることでもある。

三輪眞弘
機関誌「方法」第13号