85/05
-幻のつくば写真美術館からの20年

資料室

企画ノート「The sun also rises. 日はまた昇る。」
清水有(せんだいメディアテーク 企画・活動支援室 学芸員)

展覧会の終わりとはじまり

21世紀に入ってからまたたく間に最初の5年間は過ぎた。そして20世紀最後の10年には、予想もしなかった「変化」というノイズが相次いで鳴り響いていたようでもある。「社会主義の崩壊」、「東アジア圏の工業化と先進国のポスト工業化」、「EUの市場統合」、「グローバリゼーションの進展」国内では「バブルの饗宴と崩壊」、「平成不況と構造改革」、「IT技術の進歩」、そして「市場万能主義」。これらの「変化」は世紀の間の裂け目(ボイド)に抜け落ち、多くの有能な知と共に深い谷間に解き放たれたようでもある。

本展は、開館20年を経た幻のつくば写真美術館を再度、せんだいメディアテークのギャラリーで復活させたいという企画から始まった長期プロジェクトであり、そのスタートは「写真家・岡本太郎の眼、東北と沖縄」展に遡る。これは多面的な角度で芸術を創造する奇才、故岡本太郎の写真家としての才能に注目し、岡本太郎が撮影したという東北地方と沖縄の写真に再度光を与えた展覧会であった。そして企画会議をしていたある夜のこと。話は80年代のことにそれた。それぞれが想い出を語る中で、岡本展の監修者でもあった飯沢耕太郎氏は日本の写真美術館の黎明期の頃の話へと移った。氏の話の中に「つくば写真美術館」「石原悦郎氏」「ツァイト・(時代という意のドイツ語)フォト・サロン」という言葉を盛んに聞いたのだ。そして氏の「石原さんはこの世界への恩人」という言葉が心に残った。既に次回は80年代を検証できる企画は無いかと思索を続けていた私は電撃的にこれらの言葉が結びつき、その時から「80年代、日本最初の写真美術館」というテーマが寝ても覚めても頭から離れなくなったのである。

裂け目(/)

早速、飯沢氏の仲介で数週間後には石原氏のギャラリーである「ツァイト・フォト・サロン」で最初の打ち合わせをしていた。急な申し出にもかかわらず石原氏は快くこの企画に興味を持って頂き、万全の協力体制をも約束下さった。その頃から実に2年近くになるが、ツァイト・フォト・サロンの鈴木里佳さん、大塚加織さんには、本展のために様々にご協力を頂くことになる。また、このほぼ同時期に雑誌「スタジオボイス」で、石原氏へのインタヴュー(インタヴュアーは飯沢氏、構成と文は写真評論家の竹内万里子氏)が掲載され貴重な資料として大変参考になった。

石原氏の素晴らしさは語り尽くせないが、やはりどれだけ大きな世界を相手にしても常に「ギャラリストとしてのイノセントな情熱」を携え、それが全く風化することがないという点にあると感じる。氏の人生は常に順調な事ばかりではなく、むしろ矛盾や逆境の連続だったかもしれないことをインタヴュー記事やご本人からの談でよく耳にした。しかし氏は「理想」を実現させるため全身全霊を傾けて来られたのである。芸術の「送り手」として作家や美術館からこれほど慕われる心強い人はそういないだろう。

さて、今回の展覧会の切り口であるがこれだけの内容をまとめるタイトルには苦慮した。最終的には「85/05」という記号のようなものになったがこのタイトルにはこだわりがあった。「85」とは1985年の事で「05」とは2005年までを表す。間の「/(スラッシュ)」とはその間の20年。冒頭にも書いたがその間の20年の社会の様相の「変化」など世紀の狭間に抜け落ちた事象をも表す。そしてこの記号は時間、空間も含め様々な裂け目を示す記号として多くの意味をこめて使用した。例えば本展の構成。当初本展は1)復活、つくば写真美術館、2)日本の現代作家とした。1)は170作家400作品という中から現在ツァイトにある作品をセレクションしてそれを展示。前述のツァイトの大塚氏はじめ多くのご協力で約200点は、20年前と同じものか、もしくはほぼ同じ作家の同時期の作品を展示できた。また2)はその後活躍している若い世代の作品ニュージェネレーションズと当時も参加していた現代作家サクセッサー(継承者たち)の作品で構成。その2つ展示の間は決して分断されているわけではなく歴史は続いている。だがその継続は85年と2005年の対比で見せるため展示としては現れないのである。そこで「/」の空間をつくりそこではインターネットなどのメディアを使って、資料室のような空間を作りなるべくこの狭間に見えてこなかったものが理解できる工夫をしてみた。

さて実は本展には第三部も用意されていた。そのコーナーは「アジアの予兆」としていた。20年前のつくば写真美術館のコンセプトの一つは写真都市である。写真都市は19世紀から経済的繁栄の推移に伴い、パリ、ニューヨーク、東京と移ったと言える。では現在、何処に移動したのか?北京、ソウル、上海、はたまたベルリンへと戻ったのだろうか。地経学を学ぶ様な新鮮さはあったが、それは単に経済推移の力関係で決めているにすぎない。「東京の次に来る写真都市は?」という問いかけ自体もあいまいなものであるから、解答などもむろん何通りも出てきてしまう。おそらくアジアのどこかでは?という結論にこぎ着けた頃。そんな展覧会の準備の途中で、石原氏から現代上海の事情を度々お聞きすることが出来た。そして氏や多くの写真家が見たという上海の廃工場のことを耳にする。そことsmtのギャラリーがつながってしまったとしたら?展示イメージも大胆な構成に変更してはというアイデアも出てきた。例えばまだ一介の画家であったヒトラーを描いた映画「アドルフの画集」に出てくる兵器工場を改装したギャラリー。そこに立ち現れる画廊主の姿はダンディズムの極み。展示スタッフは大いにもり上がったが、現実的にはやはり資金不足と展示自体のまとまりの悪さから次回へと見送りになった。私見であるが中国は国と言うよりそれは文明であろう。大中国は資本主義も飲み込みながら未だに前体制を維持し、今も「変化」を続けてこれこそ今世紀の裂け目のようにみえる。既に何人かの作家のご紹介をいただいてはいたが、やはりもっと調査して、今後例えば三年後、中国オリンピックや上海万博の年にきちんとしたメッセージとして提案したいと思う次第である。

写真について

さて、本企画は、誰もが容易に像(イメージ)を利用できる時代の写真展であった。on paper(紙上画像)の印画紙を額に入れ展示し、展覧会をするということはどういうことであったのか。

僕は普段「写真(正確にはフィルム)は無くなるの?」とか「どんな写真が良い写真なの?」とか「写真はどう撮ったら良いと言われるの?」という質問を多く受けていた。本展では写真の発生から現代の多様な表現までを一望する事のできる写真史の教科書と言える展示となり、翻ってそれは上記の質問にもある回答を出せたと思う。またメディアを入れる棚(テーク)を意味する最先端の建築、ひと館だけで主催する展覧会となったが、結果的にはここでしかできない意義あるものであっただろう。

一連の写真技術の革新は、前述の飯沢氏がその著書『デジグラフィ』で、「デジタルの普及が写真を殺してしまったのではなく、すでに絵画との離別を果たしたときに写真は死んでいたのだ」そして「写真は死んでしまったのではく、やがてその死というイメージとして生きるのだ」と記されたように、「写真」という本質は変わっていないだろう。現に技法の違いは表現の優劣に繋がらないことは本展で一望できた。しかし、今はデジタルであることの写真表現が主流となりつつあり、むしろ銀塩写真は古典的、もしくは教養主義的な域にこもり、その分布の版図も大きく変わってしまってきている。しかもアーティストは実に様々な表現の幅を追求している。自由を追求していく社会が一極的な社会として立ち現れることになる一方でローカリズムや貧富の差、問題となる階級間の問題、モラルや新種のヴィールスによる病の蔓延などが新たな疑問としておきてくるのと同様に表現の便利さの壁は失敗と破局への双子のゴリアテなのだ。幸福の追求とはいつしか金銭、そして恥ずかしさの追求となる危険をはらむ。テクノロジーの亀裂は発生と発展の踊り場にも危うく深い裂け目となってたち現れているのだろう。

写真美術館について

20年前、つくば写真美術館を設立するにあたって、館長の石原悦郎氏や6人のキュレーターの方々がほとんど20代から30代の若者であり、ほぼ個人的な力で歩きだしたことは日本の写真史の特筆すべき点だろう。キュレーターの方々の無限の努力によって、「写真」はそれまでの印刷メディアの領域からそれ自体価値となるアートの分野へと拡大した。そこで勝ち取ったアートという称号を得た写真は、それまでの美術館の作法に則ってターミナルとなる(コレクション室)収蔵庫へと向かう。そして「写真美術館」という新システムはあっという間に日本全国へと広がった。後にモルグ(死体置き場)と揶揄されるが、それが故に写真の価値も守られたのかもしれない。しかし時代は変化し、前述の「デジタル」という名の革新によって元来の工業製品の成果物であることを思い知らされた。作品の変化に伴い表現、発表の作法も変化していく。「On paper からon PCへ。」この変化を敏感に感じていた本展ではそれを写真の現在の状況とも合わせ、展示の要素にもポラリゼーション(両極化)を構成して見せたというのは少しこじつけ過ぎかもしれないが、実際、僕達は様々な局面においてこれまでのシステムを超克していく知を試されている時代に生きているのかもしれない。

最後に

こうして、多く人々にとって幻(伝説的)であった20年前の「つくば写真美術館」は、ツァイト・フォト・サロンという母体により復活した。と言うより第二子として再出産された形だろう。その出産に立ち会った私たちは名付け親たち(ゴッドファーザー)となっていた。メディアテークの展示室は20年を隔てクラッシック(伝統)とコンテンポラリー(現代的・革新的)の対峙する場であり、同時にそれは本企画の起案時から運命づけられていた変化の裂け目(岡本太郎のいう対極主義)の実践の場となったのかもしれない。かつて「世界を映し出す鏡、もしくは窓」であった写真は、ほぼ時を同じく出現した「世界を覆い尽くす網(world wide web)」であるインターネットと共鳴しながら、今後の世界の変化を予感させる。かつては陰陽を1つに存在した写真の実存は変化していく。何処から来て何処へいくのか。写真の歴史がまた一頁。

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