せんだいメディアテーク



メディアテークの日々の活動をお知らせします。

2014/12/09
フィクションの境目

展覧会「記録と想起」の関連企画としておこなう今回の上映会は、3がつ11にちをわすれないためにセンター(わすれン!)に関係した映像作品と、わすれン!に参加した映画監督の濱口竜介さんが選定した映画をあわせて上映します。
 映画の文脈においてはこれまで、フィクションとノンフィクションの違いや共通性についてさまざまに語られてきました。また、20世紀後半にビデオカメラが個人に普及して以降に顕著ですが、劇映画のなかにノンフィクション的な手法を取り入れるなどの実践も多数おこなわれてきています。ノン/フィクション、それは現在のメディア状況のなかでどこに分かれ目が存在するのでしょうか。
 濱口監督は、「演じる」という観点から、3本の劇映画=フィクションの作品を選定しました。本人が今回の上映会のフライヤーにある選定理由で述べるように「素朴な劇映画」であるというそれらの作品のなかに、観客はいかなるノンフィクション性を発見できるのでしょう。記録装置であるカメラの前で俳優が演じるという行為のなかに、ノンフィクション性が内在しているという濱口監督。それは、フィクション以前の状態から、フィクションとしての映像へ移行する瞬間であり、そこに注目することなのでしょうか。そうすると、フィクションあるいはノンフィクションの境目とは、「~映画」として貼られたラベルで考えるのではなく、撮影の瞬間をどう捉えるかという認識の問題かもしれません。
 では、わすれン!に収められている映像については、どう考えられるでしょう。わす れン!の映像は、震災後の地域の記録ですから、まずはノンフィクションだと言えるでしょう。また、わすれン!では、映画と映像作品の区別は特にしていません。収められた記録映像は、シネマでの上映を主として想定しているわけではなく、インターネットのブラウザを介して閲覧することが主軸です。今回のように展覧会にも登場したりします。フィクション以前に、映画の境目が気になってきますが、そこを脇において、個々の記録物を見ると、取材・撮影・編集というわすれン!の記録物の制作過程にも、フィクションの作品を計画するときのような創作性が含まれていることに気がつきます。その意味では、映画に限定せず、映像におけるフィクション性とはなにか、また記録と創作におけるノンフィクション性とはなにか、ということを注視することで、現在の私たちを囲む映像メディアの輪郭が明らかになってくるのかもしれません。
(K.S)

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  • 『ポンヌフの恋人』(c)1991 STUDIOCANAL France2Cinema
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  • 『ASAHIZA 人間は、どこへ行く』
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  • 『村に住む人々』
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  • 『飯舘村 わたしの記録』
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