キャメラのむこうにある<リアル>

キャメラのむこうにある<リアル>

せんだいメディアテーク  小川直人

 今日、私たちはテレビやインターネットのニュースを通して世界の状況を知る。毎日絶えず流されているその映像は、すべての場所に同時に居合わせることはできない私たちのある種の欲求を満たすものとして、ほとんどは「現在」を少しだけ遅らせた形で量産され続けている。最近でこそ、そこに映っているものが必ずしも真実ではないという疑問をいだくことがたまにあるだろうが、少なくともニュース番組の映像が特殊撮影で作られていると思う人はいないだろう。だからこそ、崩れ落ちる世界貿易センターの映像を見て、「映画みたい」と人は言うのではないだろうか。あの映像が特撮だと思っていたら「映画みたい」ではなく「映画」である。
 世界の状況を知るという視点からすれば、当然のごとくドキュメンタリー映画もそのメディアとして挙げられる。「フィクション」に対して「ドキュメンタリー」と言われるように、そこには脚本や演出はないものと認識されることが多い。しかし、ニュースに即時性があるのとは対照的に、ドキュメンタリー映画、特にフィルムとして上映される機会に限られている作品は、刻々と変わる世界を追いかけようとする私たちの日常からするとあまりにも遅れてきた「現在」である。
 そして、ドキュメンタリー映画は「映画」である以上、作家による撮影対象の選択があり、編集による意図がある。全く筋書きがないわけではない。もちろん、ニュース映像にもおなじような意図はある。しかし、映画ではニュースと違い監督の名前が表明されているのだ。つまり、意図への責任を負う人間が明示されている。
 その点が、ニュースではなくドキュメンタリー映画によって世界の現在を知ることの大きな違いである。ドキュメンタリー映画は、現実を切りとったものでありつつ(ここまではニュースと同じである)、それ以上に、キャメラを通して混沌とした世界から作家が読みとった「なにか」を伝えようとする方法だというべきであろう。よって、ドキュメンタリーをニュースと混同してはいけない。世界に起こったなにかが、作家の心をいかに波立たせたかを伝えているのだから。
 ニュースではなくドキュメンタリー映画によって世界を知ること。キャメラのむこうにあるものは、作家の意志であり、見る人それぞれにとって「リアル」なものである。