2019年07月15日更新

作家による本展のための構想メモ


本展では、青野文昭の生誕地である仙台市の八木山が、過去から続く死者の空間「越路山」としてあらわされます。越路山は、本展の帰結点であり、展示されるすべての物語の出発点でもあります。 作家による構想メモをご紹介します。

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現在の越路山神社跡

青野文昭のメモ メインストーリー

 遠い昔に伝わる生出森(おどが森)の巨人伝説--ダイダラボッチ。岩を持ち上げ大地を揺るがし猛威をふるう--自然の力への畏怖。たび重なる災害、地震、津波にみまわれ続け、神を祭り(生出森山頂)、死者を弔う--「千躰仏」(当初は青葉山にあり、現在は、海から街への入り口であり八木山の入り口でもある愛宕山の大満寺に納められている--この地域一帯を千体・千代と呼ぶ様になる)。

 近世になり、この平野部(湿地帯)へ伊達政宗がやってくる。仙人思想(世俗権力からの超越性主張)を標榜し、生出森(おどが森)―太白山、千体―仙台と改名。仙台平野を見下ろす山頂に築城(仙台城)、仙台藩の拠点とする。神を祭り、死者の霊が集まり弔う山であっただろう越路山一帯は、この城の後背地とされ、伊達家の厳しい管理区域として封じられ立ち入り禁止となる。

 この時期再び巨大な大地震がおこり平野部を大津波が襲う。

 その復興事業の中で整備開発され水田地帯が広がっていく仙台平野。

 その反面、様々なひずみが山の方へ集まり蓄積されていった。

 伊達以前の過去の記憶、荒ぶる自然、土地の力、死者たちの魂が、越路山へ引き寄せられ、封じ込められ、そしてしだいに忘れ去られていった--「タブーの空間」越路山。

 明治、封建制崩壊、仙台城撤廃。一民間人である八木久兵衛が越路山を購入する(八木山と改名)。彼は、まず真っ先に、山の最上部へ神社(越路山神社)を建立した。それは、伊達にかわって自然の力、死者の霊を抑え込み、仙台平野へ覇を知らしめようとしたというのではなく、山そのものを切り拓き、新たな時代の開発の端緒とするためであった。吊り橋をかけ、野球場を誘致し、各局テレビ塔が設置され、八木山団地が造成されていった。

 しかし、地政学的にというのか、過去の因縁、記憶の継続とでもいうのか、、、テレビ塔は平野部全体へ電波を発信し、かつての仙台城の様に、新たな時代の象徴となり、現在の動物園や遊園地などの行楽施設は、本来の霊域としての越路山(八木山)を慰撫しようとするかのように振る舞い、沢山の市民を招き入れていく。一方、今なお八木山橋―竜ノ口渓谷は、深海時代以来の記憶を宿す地層を露出させ続け、死者を呼び込む。

 もちろんそうした因縁を新しい八木山団地の住人達は知る由もない。本来特殊な山だった土地を切り崩して生み出されてきた新興の八木山団地は、ただ場違いな記憶喪失者のように、土地の表層に蜃気楼の様に浮かび続ける。

 そんな折、突如、八木山動物園奥の山頂部に残されていた越路山神社は、廃止され一私有地として柵に覆われ立入禁止となった。しかし誰一人としてそのことを省みる者はなかった。

 2011年、東日本大震災。

 またもやこの平野を大きな津波が襲い多くの物、人命が失われた。

 海岸部から望む山(生出森や越路山)は、既にそれ以前から変わり果てており、もはや、神を祭り鎮めたり、死者の魂が寄り付く場所にはなりようがなかったはずだった。

 しかし、この地震によって、八木山団地では無数の地割れや地崩れが発生した。

 この沢山の大きな亀裂は、越路山の表層を覆う様にして生み出されていた八木山団地の性質を否応なく露見させることになった。地下に埋もれた土地の記憶--かつての「越路山」の記憶が地表に浮き上がり始める。

 今ここで、彷徨える魂達との新たな交信が始まろうとしていた。



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新作のためのイメージスケッチ


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