イベント 2011年12月24日更新

第6回「被災者の痛みを理解することは可能か?」(要約筆記つき)


■ 日時:2011 年 12 月 24 日(土)16:00−18:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 1f オープンスクエア
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい

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被災者の痛みを理解することは可能か?
「同じ体験をした人とでないと、話せない」
震災により、多くのものを喪失したり、生死の境をさまようような体験をされた方の中には、このように容易に他人と共有できないトラウマを心に宿している方がいらっしゃいます。「話せない/話したくない」というメッセージからは、彼らの体験が想像を絶するほど壮絶なものであり、体験した者/しない者との差がいかに大きいかを如実に物語っています。
震災直後は、テレビから流れるニュース映像を見続けて涙を流したり、自分も何かしなければという思いに駆られ、ボランティアとして被災地へかけつけた方が大勢いらっしゃいました。非常事態下の政争といった現地との温度差を感じさせるようなニュースが流れれば「被災者の痛みを理解しているのか!」といった非難の声があちこちから噴出しました。心の底から楽しむことに罪悪感を覚え、祭りやイベント、宴会などの自粛ムードも一気に広がりました。あえて被災者と同じような生活を強いてみた方もいらっしゃいました。これらは、〈被災者〉の置かれている状況を理解し、彼らの〈痛み〉を少しでも〈理解〉しようという意思の表れであったと思います。
しかし、そもそも私たちは、自分とは異なる存在である他人の〈痛み〉を〈理解〉することなど出来るのでしょうか。ましてや、冒頭に掲げたような被災体験をされた他人(被災者)の〈痛み〉を共有することは可能なのでしょうか。そして〈理解〉とは、同じ体験をしたか/しないかという点で決まるのでしょうか。また、ここでいう〈理解〉とは一体何を指すのでしょうか。
一方で私たちは、なぜ他人の〈痛み〉を〈理解〉しようとするのか(もちろん、理解したくないという場合もあるでしょう)。〈痛み〉を分かちあうことが〈被災者〉の助けになるのかという点についても考えてみる必要があります。
震災から9ヵ月が経過しました。復興の掛け声とは裏腹に、被災の程度や個人の体験により復旧の温度差は拡大し続けています。今回のてつがくカフェでは、今後の被災者への支援を考えるための糸口として、被災者の痛みを理解することの可能性について、みなさんとともにじっくり考えてみたいと思います。

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp





*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=2391
*イベントのレポートはこちら https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2011/12/6.html


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