イベント 2011年11月27日更新

第5回「切実な〈私〉と〈公〉、どちらを選ぶべきか?」(要約筆記つき) 


■ 日時:2011 年 11 月 27 日(日)12:00−14:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 1f オープンスクエア
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい

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切実な〈私〉と〈公〉、どちらを選ぶべきか?
東日本大震災、そして福島第一原子力発電所事故の発生直後の3月20日、あるニュース番組において当時の福島第一原発内で事故処理をする作業員たちのインタビューが報道されました。その中で、作業中にかなりの放射線量を浴びたために、すぐさま家族の待つ避難所へ退避させられた作業員の次の言葉が印象に残っています。「残って懸命に作業する社員がいる中で出てきてしまうのは苦汁の決断だった」。彼のその言葉には、放射能という恐怖に晒されながらもなお、〈公〉的な職務から撤退することへの〈負い目〉が表れています。
同じ時期、同事故発災直後から事故処理に取り組み続けた作業員たちは、「フクシマ50」という名称が海外メディアから与えられましたが、そこに込められた自己犠牲的な姿への賞賛と、彼の〈負い目〉がどこかつながっているような気がしてなりません。 しかし、その一方で私たちには家族や恋人、友達のように、かけがえのない〈私〉的な間柄が存在します。そして、その〈私〉的な存在を守るためには、ときに〈公〉を省みずに行動しなければならないこともあるのでは ないでしょうか。
たとえば、原発事故直後、南相馬市のある病院では198人いたスタッフのほとんどが避難し、看護師は17人だけになってしまったそうです。ある報道番組(※)では、その病院に勤務する看護師たちが患者を守るために病院に止まるか、それともわが子を放射線から守るために避難するか、その選択に引き裂かれる葛藤が特集されていました。そのなかで、避難を決断したある看護師が、職務を放棄した罪悪感からこの地へ戻ってくることや、看護師という職業を続けることはできないという覚悟で避難したと語る場面があります。やはりそこにも〈公〉より〈私〉を優先したことへの〈負い目〉、あるいは〈罪悪感〉に引き裂かれる姿がありました。
彼や彼女たちだけではありません。未曽有の大震災・原発事故という出来事のさなか、自らの〈公〉的な立場と〈私〉的な立場のあいだで引き裂かれる苦悩は、多くの人々に生じた問題ではなかったでしょうか。では、なぜ私たちは公/私の選択によって、〈負い目〉を抱くもの/抱かないものという分断が生じてしまうのでしょうか。そもそも、そこで語られている公/私とは何なのでしょうか。この問題について皆さんとともに考えたいと思います。

※ テレビ朝日・報道STATION「特集・17人の看護師の思い」
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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp





*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=2250
*イベントのレポートはこちら https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2011/11/5.html


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