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2014年01月25日更新 報告 〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第9回レポート

【開催概要】
日時:2014 年 1 月 25 日(土)17:00-19:00
会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
(参考:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2014/01/3-11-5.html


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サムネイル

今回の読書会は、『フクシマの後で』を読んで書いてきて頂いた文章のうち、前回までに読み切れなかったものと、今日新たに書いてきて頂いた文章を読んでいく予定でしたが、結局ある一人の方(Kさん)の文章から出発した議論に終始してしまいました。

Kさんの提起したのは次の問題でした:

ナンシーは、等価性が浸透したことによって原発事故が引き起こされたというが、実のところ等価性の浸透が不完全であったからこそ、そのような破局が引き起こされたのではないか。

読書会のなかでも確認しましたが、この意見の中でKさんは〈等価性の浸透〉ということで「人間の集団がきちんと組織されていること」を含意していました。確かに、ある組織のメンバーが互いに交換可能=等価であり、またあるひとつの「モノサシ」をメンバー全員で共有できていればいるほど、その集団は良く組織されていると言えるでしょう。そして原発事故の要因が東京電力やあるいは首相以下の組織系統の欠陥にあるのだとしたら、ナンシーに反して、事故は〈等価性の浸透〉ではなくむしろその不徹底によって引き起こされたのではないかとKさんは問題を提起して下さいました。

この問いにはつぎのふたつの前提があります:

1) ナンシーは「等価性が浸透したことによって原発事故が引き起こされた、あるいはそれと同種の破局が引き起こされる」と本文のなかで述べている

2) ナンシーが「破局」を話題にするとき、それには原発事故も含まれる

もしこれらの前提が正しく、そしてKさんの考える通り原発事故の要因が組織の欠陥であるとすれば、ナンシーは実情を見誤っていることになります。残りの議論すべて、Kさんの取ったこれらふたつの前提を吟味することにあてられました。

第一に〈等価性〉と原発事故、あるいは〈フクシマ(という出来事)〉の関係が問題になりました。Kさんによればナンシーは〈フクシマ〉の「要因」として〈等価性の浸透〉を指摘していることになります。この考えに同意する方もいらっしゃいましたが、違う解釈をとる方々もいました。後者の方々によれば、ナンシーは等価性ということで〈フクシマ〉の原因を指摘しているのではなく、まさに"フクシマの後で"顕わとなった現代文明の布置が、等価性や計算不可能性によって特徴づけられると述べているのだと理解できます。しかしどうして、"フクシマの後で"そのような布置が「顕わとなった」のか、言い換えれば、〈フクシマ〉が等価性によって特徴づけられるような現代文明の布置をあらわすというのはどういう意味でのことでしょうか。――というのもたとえば、チェックのシャツを着ているということがその人がT大生であることを「あらわす」と言う場合、チェックのシャツがT大生であることを「あらわす」のは「多くのT大生がチェックのシャツを着ているから」です。単に「AがBをあらわす」といっても、どのような意味でそうなのかをさらに追及する余地があります。――この問いに対してある方は、ひとつには〈フクシマ〉の影響が世界中に及んだことがあると答えていました。つまり"フクシマの後で"、なぜ〈フクシマ〉が地震の震源地付近の地域に留まらず、国中、世界中に影響を及ぼしたのか、しかも経済的・政治的・倫理的な影響、領野を問わない影響を生んだのかと言えば、それは等価性や計算不可能性によって特徴づけられる現代文明の布置のためだと答えられる。この意味で、〈フクシマ〉はそのような現代文明の布置を「あらわす」のだと答えて下さいました。このように解釈すれば、ナンシーが〈等価性の浸透〉を〈フクシマ〉の原因とみなしていると考える必要はありませんし、さらにまた「フクシマの後で」という本のタイトルの理解も深まります。

整理すると、ナンシーは〈等価性(の浸透)〉を〈フクシマ〉の原因として挙げているという解釈と、その帰結を遡って見出されるという意味で〈フクシマ〉のあらわす現代文明の特徴として挙げていると理解するふたつの解釈が読書会中に提出されました。

読書会のはじめ、Kさんの文章を読んだ直後では、Kさんは原発事故と破局を同一視あるいは前者は後者に含まれると考えているように思えました。Kさんの本当の考えがどうであれ、とにかく〈フクシマ〉と〈破局〉、〈等価性(の浸透)〉それぞれの関係を明確にしておくことはKさんの提起した問題を考える上でも、ナンシーの言っていることを理解するためにも必要なことです。〈等価性〉と〈破局〉の関係の理解については、次のふたつの異なる立場があり、それぞれの立場に応じて〈破局〉の理解も変わっていました:

①〈等価性〉が完全に浸透し、あらゆるものがあらゆるものと等価になった状況そのものがすなわち〈破局〉である。

②〈等価性〉(の体制)が進展し浸透していったさきに〈破局〉が訪れその結果〈等価性〉の体制は解体される。

どちらの立場の方々にも聞かなければならないことがあります。まず②番目の解釈をする方は、〈破局〉ということでどういった事態を考えているのか(①番目の解釈ではその答えはすでに与えられています)。この問いに対して②番目の解釈をしていた方々は共通して〈破局〉ということで「人間がその土地・この地上に住めなくなること」をイメージされていました。このイメージが原発事故と結び付けられているとしたら、原発事故と〈破局〉を同一視していたKさんもまたこの②番目の解釈によって文章を書かれていたのかもしれません。

対して「〈等価性〉の完全な浸透」という①番目の立場に立った場合の〈破局〉のイメージは、②番目の解釈を取る多くの方々の念頭にあった〈破局〉のイメージとは程遠いように思えます。①番目の立場の方々は、②番目の立場の方々の多くが抱いた問い、「〈等価性〉の完全な浸透がなぜ〈破局〉と呼ばれるのか」に答えねばなりません。

この問いに答えるにあたっては「破局」という語の意味に注意深くなる必要があります。実際にある方が仰っていたように、たとえば普段私たちは「結婚生活が破局する(破局を迎える)」、「経済が破局する(破局を迎える)」という仕方で「破局」という言葉を用いることがあります。この場合「破局」は「終わり」を――またその方が仰っていたように場合によっては浄化を――含意していますが、①番目の立場の方々が〈破局〉ということで理解する状況、すなわち等価性が完全に浸透した状況は、どのような意味であれ何かが終わっているようにはみえません。したがって①番目の解釈にしたがってナンシーのいう「破局」を理解するときには、少なくとも「終わり」という意味を含む"catastrophe"(「破局」と訳されたフランス語、英語でいうカタストロフィー)のことを考えないよう注意しなくてはなりません。つまり①番目の解釈に従えば、ナンシーはカタストロフィーということである特有な意味での「破局」のことを考えていることになることを念頭に置く必要があります。これを踏まえて、それではなぜ〈等価性〉が完全に浸透した状況が「破局」と呼ばれうるのでしょうか。

この問いに対しては①番目の解釈を取る方々の間でも二通りの答えがありました。ひとつの答えは――私に理解できた範囲では――ナンシーのいう〈破局〉は「混沌」に近く、〈破局〉=〈等価性〉が完全に浸透した状況では、たとえば物事の基準それ自体が互いに等価となって、どの基準で物事の良し悪しを決めれば良いのか、何が良いのかが分からなくなる。あるいはあらゆるものの「意味」が無くなってしまう。このような状況のことをナンシーは〈破局〉と言っているのではないかと答えて下さっていました。もうひとつの答えは「倫理的な破局」とでも言うべきもので、つまり人間や生命までもが互いに「等価」で交換可能なものとして扱われてしまうという事態、これがナンシーのいう〈破局〉だと理解している方もいらっしゃいました。(ただし〈破局〉についてのこれらふたつの理解は両立できないものでもないでしょう)

ということで、内容的には前回までの読書会と重なる部分もあったかもしれませんが、しかしKさんの提起した問題を足がかりとしていくつかのこと――〈破局〉と〈フクシマ〉、〈等価性〉とそれら相互の関係――が以前より明確になったのではないでしょうか。また、最後に「破局の等価性」というタイトルが「破局を導く等価性」とそうではない等価性が区別できることを示唆しているのではないかと仰って下さった方もいて、時間があればこの問題を深く追求したいところでしたが叶いませんでした。もう一度、自分で第一章を読みなおす際にこの観点を入れて読んでみてください。

Kさんの感想文を発端として今回は以上のようにして第一章「破局の等価性」についての参加者の方々の幾つかの解釈を互いに対照させることができました。今回の読書会を経て、ナンシーの主張に対して自分がいかなる解釈をし、いかなる立場を取っているのか、そしてそれが他人とどう異なるのかが際立ったのではないでしょうか。読書会の最中はいまレポートで書いた内容以上の事柄が話され、このレポートから受ける印象ほど整理された議論の流れであったわけではないですが、今日のような仕方でこれからも参加者個々人の考え方、理解の仕方、立場の違いを際立たせられたらこの読書会の理念に適うのではないかと思います。

また個々人の読み方、立場の相違を際立たせることを今回以上に粘り強くやるとともに、そのうえで課題本の「内容」にどこまで深くかかわり合いつつ踏み込めるかというところにこれからのこの読書会の課題があると思います。参加者の方々の御力も頂いてぜひ充実した読書会にしていければと思います。


*次回以降の読書会について*

これまでの読書会ではしつこいほど「等価性」が普及することの"悪い"面について(時にはその"よい"面についても)話題にしてきましたが、そうするたびに、そうするほどに、第一章第9、10節で「等価性」の代わりにナンシーが肯定するよう喚起するもの、すなわち「平等性」や「尊厳」、そして「非等価性のコミュニズム」の理解への欲求が増してきたと思います。特に去年最後の読書会のなかで"形骸化した民主主義"="熟議を欠いた多数決"として性格づけられた現代日本の民主主義が、個々人を等価で交換可能、数に還元可能なものとして扱う等価性の体制と深く関係しているだろうという話がありましたが、この文脈で『フクシマの後で』第三章「民主主義の実相」を読み解いていければと思います。


しかし、その前に一度『フクシマの後で』から離れて、次回2月22日以降の読書会からはしばらく、東浩紀著『一般意志2.0』を課題本とします。その理由のひとつとしては、第三章「民主主義の実相」は第一章にもまして難解な内容になっているように筆者には思われるので、一度最低限背景となるような知識、とくに「民主主義」についての最低限の知識を得たいというのがあります。『一般意志2.0』はルソー『社会契約論』の読解から始まりますが、ルソーのこの本は「民主主義の起源」としても位置付けられることもあり、著者の『社会契約論』読解を辿りながら、起源にあった「民主主義」の概念に親しむことができれば、ナンシーの「民主主義の実相」を読みつつ対話を進めていくための下地を用意することにもなるのではないだろうかと期待しています。さらに本書は当然、民主主義の基本的な概念をおさえるだけに留まらず、ルソーの構想したそれと今、現実に運用され、あるいは理想とされている民主主義とのずれ――(日本人は熟議ができず民主主義に馴染まないと言われるが)それにとって「熟議」が必要不可欠ではないものとしてルソーによって民主主義は構想されていたこと――を指摘し、そしてさらにルソーの抽象的に思われた構想を現在の発達した情報技術を用いれば実現できる可能性のあることを示唆しています。すなわち、ある意味でこの『一般意志2.0』もまた起源に遡るという仕方で「民主主義の実相」を明らかにしていると言え、そのうえでさらに、情報技術によってその具体的な形を描こうともしている本であると言えます。したがって単に背景的な知識が含まれているだけでなく、内容あるいは現在の民主主義に対する"眼差し"という点でも実は『フクシマの後で』と重なる部分があるのであり、それゆえ私たちがこれまで話してきた事柄に異なる角度から、新しい光を投げかけることもできるはずです。それで是非一度「民主主義の実相」に入る前にこの本を読んでみたいと思いました。

ただし内容に関して重なる部分があるとはいえ、著者自身が序文で「本書の議論は、あるていどの忍耐さえあれば、だれでも最後まで追うことができるはずだ」と述べているとおり、叙述のスタイル含め「破局の等価性」とはかなり雰囲気が異なると思います。こうなったとき、〈3.11以降〉読書会の対話はどう行われるようになるのか、筆者自身も楽しみにしています。

そこで次回2月22日の読書会までに、『一般意志2.0』の第一部(序文+第一章~第三章)までを読んで来て頂ければと思います。自分の言葉、自分の意味を前提にしての対話には(不可能ではないとは思いますが)やはり限界があるように思いますし、お互いにフラストレーションが溜まる一方だと思います。それにせっかく同じ一冊の本について話すという「読書会」の形式をとっているのですから、課題本を読んで、本に書かれてある言葉を使って充実した対話ができればと思います。先ほど述べた通り『フクシマの後で』の三章を読むほど困難な課題ではないはずですから、ぜひ一度は読んでみてください。

第9回読書会資料(PDFファイル)

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)





*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=5222#report