イベント 2014年10月26日更新

第38回 「"みんな"の避難所にとっての"自然"って?~震災とセクシュアリティ6~」


■ 日時:2014 年 10 月 26 日(日)14:00-16:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ ファシリテーター:房内まどか(てつがくカフェ@せんだい)
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp(西村)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

《今回の問いかけ》

7月に行った「震災とセクシュアリティ5~これまでの問いを振り返る」では、これまでの問いをもとに、新たに「避難所の中における<自然>とは?」という問いが立てられ、「みんなの避難所」「自然」といった言葉について、参加者の方々それぞれの意見が交わされました。そこで今回はこの問いを引き継ぎつつ、かためられた自分のセクシュアリティをほどき、次に災害が起こったときの「みんな」にとっての「自然」を変えていくための対話ができたらと思います。
あなたは、「みんな」という言葉を使うときにどのような人たちを思い浮かべますか。ほんとうにそれは「みんな」でしょうか。たとえば、避難所で過ごす中で、セクシュアルマイノリティの方々の苦痛や、見た目にはわかりづらい障害や困難を持っている方々などの苦労への対処は、多く見過ごされてきたという側面があります。一人ひとりの指す「みんな」が異なるのは当然だと思いますので、それを責める言葉を交わしたいわけではありません。ただ、無意識に「みんな」の背景に隠れてしまった人たちがいないかどうか考えてみたいのです。 そして、今まで当たり前のように使う「みんな」という語を問うてこなかったことの根本には何があるのでしょうか。
「自然」という言葉はどうでしょうか。たとえば「それって自然(なこと)だよね」という発言は、時にとても暴力的です。誰しもそれぞれの自然(あたりまえ/ありのまま)を持っていることを、私たちはつい忘れてしまってはいないでしょうか。特にセクシュアリティのように、自分にとっての自然がほかの人にとってもそうであるように思い込んだり、あるいはほかのひとへ権力のように振りかざしてしまったりすることがあるのはなぜでしょうか。
私たちが普段何気なく使う言葉は、無意識に人を傷つけることもあります。それを自覚するため手がかりとして対話を試みても、その対話さえも遠かったのがセクシュアリティというテーマです。対話によって人は必ずしもわかり合えるわけではないけれど、対話から、自分を開く鍵を、自分が見る世界を描き直す新しい色を得られる可能性はあります。どうか2時間、明日への投資として、セクシュアリティと震災、そして自分自身について、一緒に考えていけたら幸いです。

房内まどか(てつがくカフェ@せんだい)


《てつがくカフェとは 》
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp




*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=10860
*イベントのレポートはこちら https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2014/10/38-6.html


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