報告 2018年10月18日更新

【レポート】第67回てつがくカフェ


【開催概要】
日時:2018年9月23日(日)15:00-17:30
会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
ファシリテーター:辻明典(てつがくカフェ@せんだい)
ファシリテーショングラフィック:三神真澄(てつがくカフェ@せんだい)

(参考:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2018/09/67.html


* * *

IMG_3674.JPG


今回のてつがくカフェでは、まず前回のてつがくカフェで出された震災に関しての問いを共有するところから始まりました。そして、福島とそれ以外の地域の人との認識があまりにも違う、という発言から対話がスタートしました。その発言を怒りと捉えた参加者、いいや怒りではなくあきれだと言う参加者。そこから「怒りとは何か」というテーマで対話をすることになりました。

はじめに、「怒り」とはどのようなものか、思ったことを自由に出していきました。怒りの背景には「自己愛」や「正義感」があるのではないか。また、自分の苦しさとそう感じない他者との差が、怒りや悲しさ、やるせなさを生み出すのではないか、という意見が出されました。

たとえば、原発事故の汚染水の処理をめぐり、一部の地域に担わせるか全国で負担を共有するかの問題があげられました。それを「怒り」という点で見たときに、一連の問題の怒りのもって行き場として「負担の共有」があるのではないかとの問いかけがありました。また、怒りは感情なので政治や経済に利用するのはいけないとあげられる一方、世の中を動かす大きな力にもなるとの意見も出されました。
どうすれば当事者とそれ以外が分断しなくなるのか。それは難しいことですが、怒りは分断された二者の「つながろうとする意志」の表れではないかという意見が出されました。


さてここで、「怒り」に似た言葉である「不満」「怒る」「叱る」について整理をすることとなりました。「不満」は具体的に対象がある感情。「怒る」は感情を表わして責める俗人的な感じ。そして「叱る」は責任を問い責める論理的な印象。いずれも対象がはっきりとしており原因も具体的なようです。
では「怒り」はどうでしょうか。「怒り」の背景には社会的なメッセージがあるという意見が出されました。そして「怒り」は、自分ではどうすることもできないことに対する感情であり、そして自己愛や正義感、通念(ただし共有しきれているわけではない)などが損なわれたときに起きる感情であると意見が出されました。
「怒り」は他の3つの言葉より抽象度が高いことが見えてきました。

ここで、「怒り」をさらに深く考えていくためのキーワードを挙げていきました。
・感情的/論理的
・誰が(主体)(当事者か?それ以外か?)
・対象
・理由
・ちゃんと聞けない(受け手)
・自己愛ではない
・結果


キーワードを出していく中で、「怒り」には次のようなサイクルが見えてきました。
不満や悲しみがある(抑制)→怒り(エネルギー)→新たな怒り/喜び
抑制された不満から怒りが表出すると、外部(周りや社会)に変化が起きます。それは解決かもしれないし、妥協や我慢の場合もあります。その結果が、新たな怒りにつながったり、喜びに変わったりするのです。「怒り」というエネルギーが、結果的に喜びに変わればよいのですが、うまくいかない場合は新たな「怒り」を生み出します。これがどちらに転ぶのかはわからないのです。
また、「怒れない」とき、抑制された不満や悲しみはやるせなさになるのではないかとの意見も出されました。

ここまでの考察で、あらためて「怒り」とは何か、定義することとなりました。出された意見は以下の2つでした。
・怒りとは、方向性が不明なエネルギーである
・怒りとは、何もできないときに生じる

この定義を出したところで時間終了となりました。もちろんこの定義は、この場で対話した中で出された定義です。「怒り」の正体はまだまだ捉えきれたわけではなく、さらに踏み込んで考えていくこともできるでしょう。ここから先はそれぞれが持ち帰り、さらに考えを深めていくこととなりました。



IMG_3697_1.jpg


x facebook Youtube