イベント 2016年11月17日更新

てつがくカフェ2:展覧会「まっぷたつの風景」から「割り切れなさ」を問う


「畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景」の関連イベントとして、映画や作品を通じて対話する全3回のてつがくカフェを開きます。第2回目は、本展を通じて「割り切れなさ」について考えます。

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▲考えるテーブル
 第51回てつがくカフェ「被災地で/から、広域避難者の今を考える」(2016年5月29日実施)の様子

てつがくカフェ
展覧会「まっぷたつの風景」から「割り切れなさ」を問う

日時:12月10日[土]14時から17時

場所:せんだいメディアテーク6階ギャラリー4200

定員:先着60席

※展覧会チケットの半券の提示でご参加いただけます。
 申込不要、直接会場へ。




「『単純な物言い』の権化は呪われるがいい」。(『陸前高田2011-2014』154頁)

写真家の畠山直哉は、自身の写真集『陸前高田2011-2014』(河出書房新社、2015年)の「あとがき」のなかでそのように書き付け、物事にすぐに白黒をつけてすべてを単純化してしまうわたしたちの態度に強い違和感を示しています。その違和感の背景には、東日本大震災による大津波の経験が大きく影響しているようです。
さらに畠山は、震災以降、自分自身が物事に白黒をつけようとする世間の物言いや態度を徹底して忌避するような「気むずかしい男」になったとも述べています。
 

「大津波によって、僕は自分が、なんだか以前よりも複雑な人間になったと感じている。複雑といっても、別に良いこと、というわけではない。むしろ良いこと、悪いことと単純に言い当てることができないような事象が、自分の目の前に大量に出現し、それに手をこまねいたり考え込んだりしているうちに、世間で交わされている単純な物言いのほとんどが、紋切型の欺瞞(ぎまん)や無駄としか聞こえなくなってしまった。そのような気むずかしい男になってしまったということだ。
傍(はた)から見たら『気むずかしい男』にしか見えないだろうけれど、じつは僕が感じる欺瞞や無駄とは、僕自身の思考や行動も含めて反省的に感じ取られるものであって、その点で常に『本当にこれでいいのか?』と、僕に自問を強(し)いてくるような性質のものだ。それに対して自分の心は『わからない』と即答する場合がほとんどであり、その後はたいがい、押し黙ってうつむくことになる」。(同前)

 

しかし、この「押し黙り」や「うつむき」をある種の〈あきらめ〉へと繋げてしまってはなりません。わたしたちは、むしろこの「うつむき」のなかに、震災以降、とくにわたしたちを取り巻いているこの「割り切れなさ」に丁寧に寄り添い、いまこそそれを徹底的に問い直すべきであるとする畠山の強い気概を読み込むべきではないでしょうか。
震災から5年半を経たいま、わたしたちは、この「割り切れなさ」をどのように捉え、またそれにどのように臨んでいくべきなのでしょうか。参加者の皆さんとともに、彼から突き付けられたこの困難な課題、「割り切れなさ」の意味を問い直します。

西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)


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