イベント 2016年11月17日更新

てつがくカフェ3:展覧会「まっぷたつの風景」から「明日」を問う


「畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景」の関連イベントとして、映画や作品を通じて対話する全3回のてつがくカフェを開きます。第2回目は、本展を通じて「明日」について考えます。

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▲考えるテーブル
 第52回てつがくカフェ「安全を決めるのは、何/誰か?」(2016年7月31日実施)の様子

てつがくカフェ
展覧会「まっぷたつの風景」から「明日」を問う

日時:12月25日[日]14時から17時

場所:せんだいメディアテーク6階ギャラリー4200

定員:先着60席

※展覧会チケットの半券の提示でご参加いただけます。
 申込不要、直接会場へ。


 

「大津波や原発事故をもし『未曽有の出来事』と言うなら、それに対しては『未曽有の物言い』が用意されなければならないはずだ」(『陸前高田2011-2014』155頁)
 

「未曽有」なのだから、当然それは、これまでの古さ/新しさを決定していた基準や言葉遣いさえも超えた、さらには「良い悪い、正しい正しくないすら『わからない』ような『未知の方角』」に向けて歩み出していかなければならない。まさにそれは、これまでの「物言い」では到底たどり着くことができないような、「明日」というものに向けて歩み出していくことにほかならないのだ。
 

畠山直哉は、写真集『陸前高田2011-2014』のなかでそのような趣旨のことを記しています。とはいえ、「未曽有の物言い」によってしかたどり着けない「明日」とは果たしてどのようなものなのでしょうか。それは、〈未来〉や〈将来〉とも異なる次元のものなのでしょうか。また、いまそれを問い直すことにどのような意味があるのでしょうか。この「てつがくカフェ」では、畠山のこの問題意識をもとに、震災以降を生きるわたしたちにとっての「明日」を考えます。
しかし、それが相当過酷な作業になることは間違いなさそうです。なぜなら、この対話の場では、これまでわたしたちが大事にしてきた価値基準そのものが疑問に付され、留保され、問いの俎上に挙げられ、無効にされてしまうからです。つまり、震災以前のわたしたちの「物言い」や価値基準に頼ることは許されないということです。ならば、この「明日」を問うという作業は、震災によって壊れ、失ったものを再びこれまでの基準に則ってもとの状態に戻すという、いわゆる〈復興〉の姿を問うこととは決定的に異なるものになるはずです。畠山の言う「未曽有の物言い」が孕む困難さは、まさにこの営みのなかにこそ横たわっていると言えるでしょう。そのことを、畠山は次のように表現しています。
 

「そもそも『未曽有』とは、過去に類例がないもののことであるのだから、古い新しいの規準すら、役に立たないはずで、だから『未曽有の物言い』とは、ひょっとして僕らには奇妙で理解しにくいものであるかもしれず、今までのような、歴史の先端に出来事を登記するようなタイプの、あのよくある『新しさ』とは、無縁なものになる可能性がある。」(同前)
 

わたしたちは、この困難さの前で立ち尽くしてしまいそうです。しかし、先に挙げた文章に続いて、畠山はすぐさま次の言葉を続けています。
 

「いずれにしろ僕には、それを受け入れる準備はできている。時間や歴史の感覚は、僕の中ではもうすでに粉々なのだから。」(同前)
 

わたしたちもまた、畠山の後を追い、「時間や歴史の感覚が粉々になった」ところから〈対話〉を始めたいと思います。
 

西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)


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