2023
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コラム 2025年05月25日更新
【結婚式エッセイ】結婚式の定義
結婚式、どうする?
「しなくてもいいかな」
パートナーは言い切った。それはもうあっさりと。
僕がパートナーの女性と結婚したのは、35歳の頃だった。
しかし結婚式については、彼女は全く興味がない様子だった。ウェディングドレスを着たいと言っていたことはあったが、よくよく話を聞いてみると、彼女はドレスが着たいだけであって、フォトウェディングでも十分だという。むしろ結婚式は面倒だからしなくてもいいと。
僕らにとって結婚は、当たり前に用意された選択肢ではなかった。
僕は、性別不合(旧性同一性障害)の当事者だ。元々の性別は女性である。パートナーも女性だ。そんな僕らが今の法律で結婚するまでには、簡単ではないいくつかの条件をそろえる必要があった。運動が苦手な僕を基準とするならば、みんなと同じスタートラインに立つために、まず42.195キロのフルマラソンをしてこなければならないかのような。
そしてたとえ性別を変更して、周囲から見たら"ふつう"の男性のようであっても、本来僕がマイノリティであることは変わらない。生まれ育った地方の街で、自身の性別に関することを伏せて暮らしている僕にとって、自分のルーツに容易に繋がる地縁・血縁といったものは、その42.195キロを一瞬でゼロ(もしかしたらマイナス)地点に戻してしまう可能性を持っているのだ。
だから僕にとってもたしかに、親類縁者が集まるイメージの結婚式は「面倒だ」という感覚があった。パートナーも同じように感じていたのかはわからないが、親戚やご近所さんからどう思われるのか、誰にどう伝わるのか、今の平穏な暮らしに悪影響を及ぼさないか...。
幼い頃からの記憶で、マイノリティに対する否定的な反応を見聞きした体験の方が圧倒的に多いがために、考え出したらきりがないほど悪い想像が浮かんでくる。
そうなるともう、「面倒」という言葉にしかできなくなるのだ。
けれども、結婚式をしないという選択肢を前にして、「いやいや、でも」と僕は思った。
僕はここまでの道程で、それはもうたくさんの人にお世話になった。倒れそうなときは水を差し出し、苦しいときは伴走してくれた友人たちがいたから、ここにいるのである。
パートナーとの結婚が人生のゴールというわけではないが、大きな節目であることは間違いない。だから僕としては、ここまで歩んでこられたことの報告と感謝を直接伝える機会として、結婚式がしたいと思った。
パートナーとしても、身内からの「どうするの」「やらないの」といったプレッシャーもあり(身内も親戚らから言われて困っていたのかもしれない)、結局のところやらないのも面倒ということで、最終的に「親しい人たちだけでやる」という形にまとまった。
心強い味方との出会い
実は、僕が結婚式をしたいと思ったのには、きっかけがあった。
仕事で知り合った人がたまたまウェディングプランナーで、とてもお話ししやすい人だったのだ。もしかしてこの人なら、カミングアウトしても大丈夫じゃないかな、結婚式について相談できるんじゃないかな、と思った。
その当時でも、全国的に見れば同性カップルの結婚式の話がちらほら聞かれるようにはなっていたが、地方でお目にかかれるほどメジャーなものではなかった。何も言わなければただの男女カップルなのだから、カミングアウトしなくてもどうにかなる。しかし僕は、いちいちごまかしたり疑われたりしながら結婚式をするのは怖かったのだ。
衣装(合うサイズがないかも)、プロフィール紹介(ビフォーは知られてはならない)、招待するお客さんのこと(LGBTQの友人に嫌な思いをしてほしくない)などなど、心配事は山ほどある。味方がほしかったのだ。
結婚に向けて戸籍の性別変更の準備を進めていたある日、僕はその人に切り出した。
「今度結婚するんですが、実は僕、元は女性なんです」
その人はびっくりしてはいたけれど、話を聞いてくれた。
「僕らのようなケースでも、結婚式はできますか?」
ドキドキしながら相談した僕に、その人は笑顔で、元気よく即答してくれた。
「もちろん!喜んでお手伝いしますよ!」
カミングアウトする前と何も変わらない様子に、とても嬉しく、ものすごく心強かったことを今でも覚えている。
もしその人との出会いがなければ、結婚式をしたいとは思わなかったかもしれない。
ここから、そのウェディングプランナーさんと一緒に計画を練り始めることになる。
まずベースとなる結婚式のプランがあって、そこからいらないプログラムを外したり、オプションを足したり、ランクアップしたりダウンしたり。そうやって金額や時間を調整していく。
会費(こちらでは会費制が主流)を抑えたかった僕らは、まず自分たちがいらないと思うプログラムを外すことから始めた。ふと、プランの中で挙式と披露宴が分かれていることに気付く。
「挙式って、なしにすることもできるんですか?」
質問すると、「できますよ!」との返答。
そう、「挙式」はプランから外せたのだ!
結婚「式」というくらいだし、従来のイメージで挙式と披露宴は両方とも行うものだと思い込んでいた僕は、目から鱗だった。
「誰かに誓う必要ある?」「いや、ないな」と、パートナーとの相談は挙式なしの方向ですぐに話がまとまった。
次は披露宴の内容だ。ほぼ友人と親類しか招かないので、主賓の挨拶はなし。二人の共同作業は既に散々やってきているので、ケーキ入刀はカット。代わりに僕らで準備するレクリエーションと、ケーキバイキング、各テーブルでの写真撮影を入れた。
同時進行で招待したい人たちをリストにしたら、思っていたよりも多くなり、会場をもう少し広い部屋に変更した。招待状を用意したり、料理や引き出物を選んだり、使用するBGMや演出を決めたり。衣装は貸衣装室で別に試着や打ち合わせをし、写真はフォトスタジオに依頼した。前撮りまでに指輪を用意することになり、これも大急ぎでお店に行った。入場前やお色直し中に流す動画も、自分たちで作った。あまり余裕がない日程だったので、期限付きでやらねばならないことがたくさんあった。
大変だったし、面倒なこともやっぱりないわけではなかったが、ウェディングプランナーさんはさすがプロといった感じで、限られた時間の中で次に何をすべきかをその都度わかりやすく提示してくれた。
おかげで、準備期間はとても充実していた。せっかくの機会なのだから、楽しいものにしたい。ちょっとしたいたずらを企むときのように、ずっとワクワクしていた。
「披露宴」は好きじゃないので
披露宴に関して、僕はウェディングプランナーさんにあるお願いをした。それは、名称を「結婚報告パーティー」にしてほしいということだった。
男性としての生活を始める以前、披露宴というものは僕にとってとてつもなく苦痛なものだった。フォーマルな服装というのは、ほぼ必ずレディースとメンズに分かれる。ドレスを避けてスーツを着ても、レディースには飾りの偽ポケットが付いていたり、ボディラインを出すように作られていたりする。着こなしも違う。化粧はマナーと言われたりする。
女性としての服装や振る舞いを求められることで、友人のお祝い事を心から喜べない。そんな自分のありようが、本当に苦しかったのだ。
だから僕は、たとえ中身は同じようなものだとしても「披露宴」と呼びたくなかった。イメージにとらわれず楽しんでもらいたいし、僕らも楽しみたい。
そこまで説明したわけではなかったけれど、ウェディングプランナーさんはしっかり要望を聞いてくれて、当日の会場の案内看板もちゃんと「結婚報告パーティー」になっていた。細かいことでも、ぞんざいにされなかったことがとても嬉しかった。
僕がカミングアウトしたスタッフはこのウェディングプランナーさんだけだったが、本当に僕らに寄り添って手伝ってくれた。最後まで、嫌な顔をされることは一度もなかった。
きっとそれは僕らだけでなく、どのお客さんに対してもそうだったのだろうと思う。それぞれにとっての「特別な日」を大事にしようとしてくれているのだ。
マイノリティだろうがマジョリティだろうが関係ない、一組一組と向き合う姿勢が心地よかった。
こうして僕らのいわゆる結婚式は、挙式もない、披露宴でもない、「結婚報告パーティー」として開催されたのである。
婚姻届を提出してから、約3か月後のことだった。
儀式
パーティーをしただけの僕らは、結婚式をしたと言っていいのか、ちょっと迷うところもある。説明を省くためにこのパーティーを「結婚式」と表現することはあるのだが、積極的にそう呼ぶ気持ちにはならないし、式を挙げたという認識はない。
結婚式の定義とは、一体何だろうか。
しかしこの「結婚報告パーティー」は、たとえ結婚式でなかったとしても、少なくとも僕にとっては大いに意味のあるものだった。
当初、戸籍の性別を変更してパートナー女性と結婚することについて、僕は諸手を挙げて喜ぶことができなかった。
それは、まだ自分のセクシュアリティが確定できなかった20代前半─ずっとレズビアンだと思って生きてきた自分が、トランスジェンダーという概念を知ったばかりの頃─に、インターネットを通じて知り合った人たちとのやり取りの中で経験したことが原因だった。
あるレズビアンの人が、「バイはどうせ結婚できるじゃん」と吐き捨てるように言ったのを聞いたのだ。
もちろん、バイセクシュアルだって同性を好きになれば結婚できない。けれど、異性を好きになって結婚する可能性もある以上、そもそも愛する人との結婚という選択肢がないレズビアンの人からしたら、時に「どうせ」と言ってしまいたくもなる。そういうことだったのかもしれないとも思う。
レズビアンの人たちがみんなそう感じているというわけではないだろうが、問題なのはそう感じさせている社会の側だと思っている。愛する人との結婚という選択肢が、そもそもない。選べないことと、選ばないこととは、全く違うのだ。
それでも、やっと自分と同じようなマイノリティの人たちと繋がったばかりだった当時の僕にとって、その中での敵意のようなものを目の当たりにしたショックは大きかった。
それから10年以上経って、性別不合の当事者として性別を変更した僕は、現行の婚姻制度を利用できるようになった。一般の異性愛の男女カップルと同じ扱いになった。しかしそれは、なんだか抜け駆けをしているようにも思えた。
「どうせ結婚できるじゃん」
そう言った人の顔が、冷たい声が、繰り返し脳内で再生されて、僕を責め続けていた。
結婚を決めたのは、長年付き合っていたパートナーが調子を崩し働けなくなったことがきっかけだったが、決心してもなお後ろめたい気持ちと否定される恐怖が、呪いのように心に絡みついていたのである。
結婚報告パーティーの当日。
いくつかの事情が重なり、お世話になった人たちみんなを招待することはできなかったが、それでも100人超となったゲストはほぼ全員が出席してくれた。
パーティーの次第は順調に進み、楽しい時間は本当にあっという間に過ぎて、最後のプログラムである退場前の挨拶となった。僕がカミングアウトしていない人も出席していたため、わかる人にしかわからないように、言葉を選んで感謝の気持ちを伝えた。
そのとき緊張の中で会場を見渡しつつ、ここまで生きてきたことは自分にとって決して当たり前ではなかったこと、そんな自分を見守ってきてくれた人たちのこと、そしてこの一日のことが、一瞬のうちに頭をよぎった。僕はちょっと泣きそうだった。
そして、これだけの人に、これだけ祝福されて、自分が自分の幸せを受け入れなかったら、この人たちの応援を裏切ることになるのだと、ようやく気付いた。
だから、自分の大切なものを大切にすることに、罪悪感を抱くのはやめようと思った。この先また、後ろめたさや恐怖に襲われることはあるだろう。それでも、もう僕は自分を責めない。
胸を張ってこの生命の道を歩む。そう決めた。
あれは、新しい門出のために、僕に必要な儀式だった。
変更した会場は最上階で、ぐるりと硝子張りになっており、晴れていれば遠くまで見渡せるとのことだった。当日の朝は曇っていて、それは期待できそうになかった。
しかし乾杯が終わって歓談の時間になり、それまで閉められていたカーテンが一斉に開けられたとき、明るい日差しが差し込むとともに、おお、という声が会場から上がった。
振り返ると、慣れ親しんだふるさとの山がはっきりと見えていた。
ここで生きていいのだと、言われた気がした。
【文:創(そう)】40代男性、青森県在住。