コラム 2018年11月28日更新

升沢の草分け その一  ―落人(おちびと)という伝承―


【升沢というへだたり】

 黒川郡大和町(たいわちょう)は、宮城県のほぼ中央に位置し、翅(はね)を広げた蝶のように中央が狭くつぼんだ東西に横長の形をしている。東部は広い水田地帯がみはらせる平地が広がり、西部は山形との県境となっている船形連峰の山稜から山麓が裾をひいている。
 宮城県を空からみはらすなら、山形県境の船形連峰から仙台湾の中に丸く入り込んだ松島湾まで、西から東に下りながら丘陵がのびる。これを松島丘陵とよぶ。宮城県域を中央で区切るこの丘陵は、浜近くで崖となって海に落ち込み、仙台平野を南北に分ける自然の境界となっている。この地形の境目はこれまでさまざまな歴史の境目を生み、古代では蝦夷の世界と大和政権の支配地域を分かち、戦国時代では伊達氏と葛西氏・大崎氏の領土を分けた。仙台弁といいながら、この境界の南と北では、アクセントも異なるという。

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 ふたたび大和町に目をよせると、蝶のつぼんだ翅の付け根に位置する吉岡の町は、伊達藩政時代の城下町、陸羽街道(奥州街道、現国道4号線)の宿場町であり、今も町役場や文化施設が集まる町の中心地区である。
 その吉岡を起点とする県道147号桝沢(ますざわ)吉岡線を西へたどると、沢渡(さわたり)を最後の集落として、すぐ急勾配でのぼる山岳道路となる。やがて長者館山(ちょうじゃだてやま)の風早(かざはや)峠を越え、道は荒川両岸の河岸段丘をたどって、船形山登山口の旗坂(はたさか)野営場までのぼりながら続いている。
 かつて、最奥の集落は沢渡ではなく、風早峠の手前には嘉太神(かたいじん)、峠を越えた荒川沿いには下原・種沢・升沢(あわせて升沢地区)の山間集落があった。升沢地区も嘉太神地区もムラをあげて移転し、そこにはかつての集落の姿はない。隣接する陸上自衛隊王城寺原(おうじょうじはら)演習場が、沖縄米軍の実弾射撃訓練を受入れ、その砲撃音などの補償としてのムラの引き移りであった。1997年(平成9)から升沢地区集落集団移転事業が開始され、2000年には、村人はすべて、家を解体し土地を更地にして、麓の三峰地区に集団移転した。


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▲霧の種沢集落、移転前の風景

 吉岡の旧市街から沢渡地区まで約11キロメートル、ひらけた見晴らしのよい田畑の中にゆるやかにまとまった屋敷とイグネ(屋敷林)が散在する散村風景が続く。
 沢渡の集落を過ぎて吉田川を渡ると、急勾配の山岳道路となって山中の急カーブをまわりながら、風早峠の直下まで約4.5キロメートル、ぷっつりと人家が途絶える。風早峠を越えると視界が開け、荒川両岸のひらけた河岸段丘がよくみわたせる。升沢の集落はその河岸段丘上に位置していた。道はその荒川の崖を下って川を渡り、こんどは対岸の崖の急坂を登って河岸段丘上の明るいナラ林に入る。林を抜けた先がかつての升沢集落の中心であり、かつての吉田小学校升沢分校の校舎が唯一、研修センターとして残されている。風早峠からここまでが、さらに約4.5キロメートル。

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▲升沢集落へ続く新緑のナラ林

【"水落切"(みずおちきり)をこえて】

 天から降った雨が山脈の稜線で切り分けられて両側に流れ落ち、それぞれ異なる沢筋を流れ下り、同じ沢面に降る雨水を集めて異なる河川の本流へと導かれることがある。その切り分ける山の峰が、いわゆる「分水嶺(ぶんすいれい)」である。
 升沢への道をたどるときの風早峠が、その分水嶺にあたる。風早峠の手前にあった嘉太神地区は、北泉ヶ岳北麓に源を発する吉田川の左岸に位置し、その後吉田川は大和町、大郷町、松島町、東松島市をほぼ東に流れ下り、河口のすぐ手前で鳴瀬川と合流する。一方風早峠を越えてたどる升沢地区は、船形山東麓を源流とする荒川の左右河岸段丘上に散在し、荒川はその後岩ヶ沢川、花川と名を変えつつ、色麻町を東北に流れ、鳴瀬川に合流する。

 つまり吉田川も荒川も大きくは鳴瀬川水系でありつつ、合流するのは石巻湾にそそぐ河口直前であって、上中流域は船形連峰の異なる谷筋をたどって、それぞれ大和町と色麻町を流れ下る。升沢の集落は、風早峠を越えた荒川流域にくらしを営んできたため、歴史的には加美郡色麻と、荒川を介した通商や通婚によって結びついてきた。黒川郡吉岡との強い結びつきは、戦後自衛隊王城寺原演習場の拡張により色麻(しかま)への道が通行できなくなってからのものだという。


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▲冬の荒川

 伊達藩政時代の山林関係文書では、こうした分水嶺のことを「水落切」と呼んでいるようである(例えば『仙台領遠見記』など)。升沢は里の集落からはるかへだたり、「水落切」をこえた最奥のムラだったといえよう。


【草分けと落人(おちびと)】

 未開の湿地・原野・山林を、はじめて切り開いて新しい村を創った最初の開拓者とその家系を、村の草分け、草切り、柴切りなどと呼ぶが、升沢の草分けは、旧家筋とされる升沢地区の早坂四家である。そしてこれら早坂家は、家系図に類するものは伝えていないが、平家の落人(おちうど)であるという口伝をもつ。
 早坂四家とは、『升沢にくらす』(註1)の記述にしたがって昭和30年時点の当主名によって家名を記すなら、早坂国男家、早坂宗右衛門家、早坂喜一家、早坂林右衛門家の四家である。

 ただ、調査のおり四家の人々は、自らの家の系譜の源を名指すとき、全くと言っていいほど、「落人(おちうど)」という言葉を使われなかった。彼ら彼女らは、「おちびと」と古風な、そしてどことなくたよりなげな境涯を思わせる言葉をよく口にした。さらには、「照れ」とも、自虐的で冷笑的ともとれる「平家のおちぶれ」「平家の残党」などの言葉が聞かれるときもあった(註2)。
 しかし、「おちびと」「おちぶれ」という言葉の声からは、照れやら、自虐やら、冷笑やらともまた異なる、それらからは遠く離れた軽み、もっと突き放して遠く俯瞰するようなまなざしが感じられた。
 おそらくそのまなざしの底では、最奥のムラで代々くらしをつないできた人々が積み重ねてきた伝承の記憶が、気負うでもなく卑下するでもなくたしかに生きてきた人々を、しなやかに支えているように思われる。


升沢の草分けその1001雪の升沢集落、移転前の風景 .png               ▲雪の升沢集落、移転前の風景


 早坂四家では、各家代々の伝承として、正月の門松は門口や玄関には立てず、松飾りは屋敷内の神棚やその前に飾られる。林右衛門家では、おしつまった大晦日の晩などに、主人が家の付近で三蓋松2本を切ってき、幣束も注連縄も付けずに松だけを神棚の両端に置く。

 平家に限らず、負け戦の落ち武者を始祖としてその土地に根付いた家には、門松を飾らないしきたりを伝える家は多いようである。多くはその由緒として、「その土地に落ちのびてきた日が大晦日で門松の用意ができなかった。そうした先祖の労苦をしのぶために代々門松を立てない」などの逸話を伝承している。  升沢の国男家においては、「落人(おちびと)の家なので、表立って晴れがましい目立つことはできないから」という言い方で伝えているのが印象深い(『升沢にくらす』p.113)。




【升沢と定義如来】

 宮城県西部、奥羽山脈の山懐には、平家の落人伝承をうけつぐ山間集落が数多く散らばっている。定義(じょうげ)如来・定義温泉で知られ、仙台近郊の観光地ともなっている仙台市青葉区大倉の上下(じょうげ)地区も、平家落人のムラとして名高い。
 『宮城町誌 本編』(1969 宮城町誌編纂委員会)によれば、上下集落の伝承の概要はつぎのようである。

 定義如来として信仰を集める極楽山西方寺の本尊は、阿弥陀如来の画像掛軸という。これはもともと平重盛(1138-1179)が死期にあたり、老臣平肥後守貞能(さだよし)に授けて、自らの菩提を弔い、平家と世の中の平安を祈らせたものだという。平家滅亡後、平貞能は宮城郡大倉の地に落ちのび、たずさえてきた重盛の阿弥陀画像をこの地に安置して礼拝していた。貞能は死期にあたり、「死後は墳墓の上に小堂を建て如来の尊像を安置して後世に伝えるように」と従臣に託して建久9年(1198)7月7日逝去した。その後従臣は墳墓の上に小堂を建立し、代々守っていたが、子孫にあたる早坂徳兵衛は仙台北山の安楽寺で修行し、出家得度して観蓮社(かんれんしゃ)良念と称し、宝永3年(1706)小堂を極楽山西方寺として自ら開基となり創建し、第1代の住職となった。

 升沢地区を細かくみると、下原・種沢・升沢という三ヶ所の自然集落として散らばっている。荒川左岸の河岸段丘上に升沢集落が位置するのに対して、種沢集落は右岸の河岸段丘上にある。
 じつはこの種沢集落には、定義の阿弥陀如来にかかわる伝説があった。『船形山の民俗』に収録された録音記録の文字起しを引く。

「それからジョウギ(定義)の阿弥陀如来はここにもあったんだおんね。種沢というとこにっしゃ。同じものがね、オマンダラ(曼荼羅)、俺達でね、お掛け図っしゃ」(p.60)

 その阿弥陀の掛図は、記録者である吉田潤之介氏が聞取りした時はすでになく、色麻から古川へと流れてしまったのだという。 もとより真偽は不明だが、西方寺を開創した平貞能の従臣の出自が早坂氏であったことを考えあわせると、上下と升沢の落人伝承がうけつがれてきた経路が興味深い。
 里の集落と深く関係することを忌避した「おちびと」の集団では、子孫たちは泉ヶ岳から峰続きの船形連峰へと、稜線づたいに移動しながら定住地を求め、各沢筋を降りながらふさわしい土地を見出しては、切り開いていったのではないだろうか。
 調査のおり、大正末から昭和初めころ生まれの男たちの若いころは、大倉の定義如来に参詣に行くにも、山形県の銀山に山仕事の刃物を買いに行くにも、いずれも山越で、泉ヶ岳・船形山の山腹を歩いたのだという。


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▲船形山の峰をのぞむ

【落人という伝承】

 平家落人の伝説は、青森から南西諸島まで、隔絶した山間集落や離島に無数に伝承されてきた。その中の多くが、検地から逃れて隠し田を切り開いて暮らしていた百姓たちや、木工品の用材を求めて定住した木地師たちのムラだったにしろ、受け継がれてきた伝承群からは、実在した戦闘の敗残者たちの、それこそいろとりどりの姿と息遣いを垣間見ることができる。

 とくに落人たちの逃避行の過程での恐怖、疑心、悲惨、虚無などの気配をおびた伝説は、ことに印象深い。足手まといの子どもを投げ込んだ「ちご淵」、足手まといの女を殺した「京女神社」(徳島県名西郡上山町東宮山)、白鷺の群れの飛来を源氏の追手の白旗と見誤り、平家の落ち武者たちが身を投げた「七つ渕」(高知県高知市七ツ淵)など、とくに中国四国地方には無数に語り継がれている。
 一方で、隔絶した山間の未開地を切り開き、獣を狩り、山畑で粟(あわ)、稗(ひえ)、麦、黍(きび)、籾(もみ)を作り、今に続くいくつかの旧家の祖となった(徳島県那賀郡中町木頭)草分けとしての落人たちも無数にあったろう(註3)。見出した土地に向きあい、生き抜いていくなりわいと向きあい、淡々とたしかにくらしをつないできた人々があった。ただ、そうした山間集落でくらしをつないでいくことのはかりしれない困難さも、またたしかにちがいない。平勝秀とその一党がくらしたと伝える大秋山村(長野県下水内郡栄村境)は、天明の飢饉にあたって村民が死に絶えたと伝える(註4)。

 ひるがえって当の升沢集落においても、土地のものが餓死(がす)と呼びならわしてきたかつての凶作飢饉の伝承と無縁ではない。近世初期の升沢集落は、集団移転時の集落地より北側、升沢川を渡った対岸ダンノシタにあったと伝えられ、餓死(がす)のために川の南岸にムラをあげて引き移ったのだという。


 なお、文章中に載せる写真で特に記載がないものは、すべて現在整理中の手代木信成氏撮影の升沢関連写真の中から選んだものである。

(その二へ続く)


(1)東北民俗の会編『升沢にくらす 集団移転に伴う民俗調査報告書』(2003 宮城県大和町教育委員会)。升沢地区の集団移転にあたり、1999年から2003年まで、大和町と東北民俗の会が共同で行なわれた、升沢地区の民俗全般を対象とした記録保存調査の最終報告書。以降言及引用する際は、報告書および、『升沢にくらす』などと表記する。

(2)鈴木岩弓編『東北文化資料叢書第三集 民俗資料 宮城県大和町升沢地区 船形山の民俗 吉田潤之介再訪資料』(2008 東北大学大学院文学研究科東北文化研究室)p.59,p.70なども参照。この資料集は、大和町吉岡中町出身の吉田潤之介氏(1918-2000)が船形山と升沢地区の信仰・民俗に関する調査を行い収集記録した資料の一部を収録している。基礎となった資料群は、潤之介氏の死後、升沢調査を縁として遺族から町が提供を受けたものであった。以降言及引用する際は、資料集、『船形山の民俗』などと表記する。

(3)福田晃編『日本伝説大系 第12巻 四国編』(1983 みずうみ書房)p.116-122「41平家の馬場」参照。

(4)林保治編『平家物語ハンドブック』(2007 三省堂)p.251-258「平家落人伝説と史跡」参照。


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