インタビュー 2017年01月17日更新

「カミングアウト/クローゼット」:【OUTのその後・1】「人のせいにして生きるのは、もう嫌だった」


【OUTのその後・1】

「人のせいにして生きるのは、もう嫌だった」

小野寺 真(オノデラ シン)

1977年生まれ

宮城県仙台市出身・在住

理容室「ヘアーサロン Wing」店主

FTMトランスジェンダー 異性愛者

http://outinjapan.com/sin_onodera/

<カミングアウトヒストリー>

●女として扱われることに違和感を覚えるようになったのっていつ頃ですか?

幼稚園の頃から、漠然としたのはあったかなあ。幼稚園くらいの頃って、男の子も女の子もよく裸になったりするじゃない?それで、男の子にはチンチンついてるのに、何で自分にはついてないんだろうって思って、親に聞いたりして。で、当時から男の子っぽかったりしたもんだから、親も「お母さんのお腹に忘れてきちゃったんじゃないの?」とかそんなかんじで(笑)。それで、えー忘れてきちゃったんだー、男の子の友達とおんなじが良かったー、とか思ったりして。

確実に意識するようになったのは、やっぱり小学校に入って、身体が変わってきたあたりから。3年生くらいになると、女性だと生理が始まる人がいたりして、そうなると男の子も女の子も、一緒に手をつないで遊んでたはずなのに、急に男性・女性に分けられて、着替えとかも別になったり。生理の話をするために女子だけ呼ばれるとか、そういうのがすごく嫌で。あーやっぱり自分は女なんだー、みたいな。

●女性を恋愛対象として意識し始めたのは?

小学校1・2年生の頃、男の子女の子関係なく、仲の良い友達とほっぺにチューするっっていう変な遊びが流行ってたんだけど(笑)、仲の良い証みたいな。それが、男の子だと全然意識しないんだけど、女の子にされると変に意識しちゃって。逃げて歩いたりしてたのを覚えてる。でも逆に、男の子とばっかりつるんでるもんだから「男好きなんじゃないの」なんて言われたりすることもあったね。

初恋っていうことだと、幼稚園の頃に女の先生が気になったりしてたかな。あと小学校の頃にも、気になる女の子はいたんだけど。でも、それが「初恋」と呼んで良いものなのかどうか、今振り返って思えばそうだったのかなあとは思うけど、当時は分からなかったよね。

●子供時代を過ぎて、中学生になると、今度は制服の問題なんかも出てきますよね。

そうそう。小学校の頃もね、体操着がブルマだったんだけど、それが凄く嫌で。「ブルマ忘れた」って言い張って、ミニバスケの時の短パン履いてたりして、何回も怒られてた。あと小学校の卒業式。「最後なんだからスカート履いてこいよ!」ってみんなに言われて、でも絶対嫌で。だけど親もスカート履かせたかったみたいで、ドレスみたいなスカート買ってきたんだよね。でもそれも泣いて嫌がって、結局姉がしょうがないってズボン買ってきてくれて、それで行けたんだけど。

でも中学校はね、やっぱり制服で行くしかなかったよね。もうモロに「男性/女性」だからね、中学校に行ったら。でもやっぱり嫌だったし、運動部だったこともあって、ほとんどジャージで過ごしてた。バスケットボール部の朝練があったから、ジャージで登校するのはOKだったんだよね。授業だとOKな先生とダメな先生がいて、ダメな先生の時は仕方なくジャージまくってその上に制服着て、先生がいなくなったら脱ぐ、みたいな。全校集会の時も、本当は制服着なきゃいけないのに「忘れました!」って言い張ってジャージで出て、教頭先生に「なんでお前だけジャージなんだ!」って怒られたり。もうね、「ジャージ愛好会」会長だったから俺(笑)。ジャージを愛してたから。中学3年間で十何着持ってたからね。それくらい着てた。

あとはプールの授業も嫌で、体調悪いとかなんとか理由つけて、ほとんど休んでたね。

●トイレの問題で悩むことはありましたか?

女子ってトイレでたむろったりするの好きじゃない?そこに入っていくのが嫌だったんだよね。だから女子トイレが嫌で、体育館のトイレとか、職員トイレにコソコソっと行ったりして。あとは授業中に行ったりね。先生に「なんで休み時間に行かないんだ!」って怒られたりしてた。生理はね、俺、始まるの遅くて、高校入るくらいの頃だったから、中学時代はそっちの悩みはなかったんだけどね。

●小学校の頃からバスケットボールに打ち込んで、高校はバスケットボールが盛んな女子高に入ったんですよね。

自分が小中学生だった頃って、まだ「性同一性障害」なんて言葉も知られてなかったし、レズビアンかゲイか、おなべかおかまか、ってかんじで。「おなべなんでしょ?」って言われて、そうなのかなーと思いつつ、でもそう言われるのも嫌だし、かといってバレるのも嫌だし。「自分は男だと思ってるけどなー、でも女の子のフリしなきゃいけないのかなー」って考えたりしたこともあったけど、でもそんなの考えただけでムリだしで。だけどそういうのを唯一考えないで没頭できたのがバスケットボールだったんだよね。それで、高校はスポーツ推薦で進学して。

●でも、怪我のせいでバスケットボールができなくなって。

高校2年生の時、試合中の事故がきっかけで車椅子生活になってしまって。唯一いろんな問題を考えなくて良かった、すごく好きで夢中でやってたバスケットボールの時間がなくなったら、自分はどうやって生きていったらいいんだろうって、途方に暮れたんだよね。バスケットボールもまたできるかどうか分からないし、親にも面倒かけるし、ましてや自分が性別で悩んでることなんて誰にも言えないし、もう生きていくのが辛い、生きていてもしょうがないって思ってしまって。でも事故で身体の自由が利かなくなってたから、ああ自分は自分で自分の人生を終わらせることもできないんだって思って、なんかもう情けないっていうか、何も考えられなくなって。親ともケンカして、口利かなくなるし。結局、リハビリしながら高校に通って、なんとか卒業はするんだけど、もう投げやりになってて。周りは「頑張れ、頑張れ」って言うんだけど、もうその「頑張れ」が聞けなくなっちゃってて。未来とか夢が描けないから、誰に何を言われても受け入れられないし、入ってこなくて。今考えると、担任の先生や友達には、ずいぶん支えてもらってたなあって思うんだけどね。

●それで結局、理容室を経営していた親御さんに言われて、高校卒業してすぐ理容専門学校に進学するんですよね。

親とケンカしてたんだけど、とにかく床屋にはなってくれ、って。もうあと何してもいいからとにかく床屋の免許だけは取ってくれ、って親に言われて。もうどうせやりたいこともないし、適当だったから、親が行けって言うんなら行くよ、行けば何も文句言わないんでしょ、ってかんじで。その頃はもう、何でも人のせいにしてたんだよね。怪我したのも人のせい、性同一性障害になったのも親のせい社会のせい、俺が苦しんでるのは社会のせい、みたいに思ってたの、その時は。とにかく誰かのせいにして生きてた。それがラクだから。

●今ではこうやって自分で理容室を経営している小野寺さんですが、理容師になったきっかけはじゃあ受け身というか、なりゆきというか。

そう。家も床屋だし、まあ、理容師になっておけばいつか何かの役に立つのかな、くらいで。まったくもってその時はやる気もなかったし。専門学校に1年通って、実家の床屋でインターンやって理容師免許取って、実家とか他の床屋とかで働いてたんだけど、やっぱり、とにかく「思い」がないから、続かないんだよね。投げやりで。どうせ女子として働かなきゃいけなくて、ちょっと嘘ついて生きてて、どうせ結婚もできないし、独りで生きていかなきゃいけないのかなあと思うと、夢とか希望とか持てなくて。

それでもバスケットボールだけはずっと好きで、高校卒業して少し身体が動くようになったときに、高校の同級生にクラブチームに誘われて、またやり始めて、やっぱりもう一回やりたいって思って、22才のときにスポーツ推薦で大学に入ったんだよね。昼間は仕事して、大学は夜間部に通って。でも2年生になったときに父親が倒れて、店やれなくなったから、大学やめて結局床屋に戻るんだけどね。

●そんな小野寺さんがカミングアウトを始めたきっかけって何だったんですか?

20才の頃から付き合ってた相方(彼女)がいたんだけど、26才の頃、「いつまで悲劇のヒロインでいるの?マイナスなことばっかり言って、人のせいにばっかりして生きてるよね?楽しい、それで?」ってぽつんと言われて、別れることになっちゃったんだよね。そのくらいの年頃だと、まわりが結婚し始めるじゃない。でも俺と相方の結婚っていう話にはならないわけだよね。俺もカミングアウトしてないし、相方も俺と付き合ってるってことをみんなに言えないわけよ。そんなときにマイナスなことばっかり言ってたら、そんなふうに言われて。

それで別れて、独りになって、考えたよね。俺ってそういえばこの年まで自分に向き合って生きてこなかったなあって。仕事からも逃げてたし、自分の人生そのものからも逃げてたし、人とのかかわりも逃げてたし。高校の時バスケットボール部やめたのだって、リハビリやりながらマネージャーやってみんなを支えるってかたちもあったのに、自分がプレイヤー やれないっていうその現実から逃げて、見たくなかったから、逃げ出してきたんだよね。このまま生きてたら、とにかく嫌なこと全部にフタをして、ずっと人生逃げて生きていくことになるんじゃないのかなあって思った時にもう俺、やめなきゃと思ったの。どっかで自分変えなきゃって。そう思った時が一番最初のカミングアウト。

まずは両親に、ちょっと話あるんだけど、って。分かってるかもしれないけど、俺自分のこと男だと思ってるんだって言って。親も、なんとなく分かってはいたみたいなんだけどね。付き合ってた女の子を家に連れてきてたりしてたから。友達じゃない雰囲気は感じてたみたいで。でもそこから10年以上かかったよ、理解するまで。最初に言った時に、母親には「自分の産み方が悪かったのか」みたいに言われちゃって。そうじゃないんだ、そういうのは関係ないんだ、っていう話から始めて。父親はなんとなく分かってきてるけど、母親はまだ、どっちかっていうと受け入れてない。その話は嫌だ、みたいになっちゃって。まあうちの親、80才過ぎてるしね。そうやってまずは自分の大切な家族に言って、それから友達にもカミングアウトしていった。

●そして仕事の方でも新しい一歩を踏み出して、今小野寺さんが引き継いで経営しているこの理容室に入店するんですよね。

そう。ハローワークで求人見つけて、2005年の3月に店に入った。床屋には珍しく日曜定休だったから、バスケットボールと両立できるかなあって、面接受けたきっかけはその程度だったんだけど。

●面接で性同一性障害だってカミングアウトしたんですよね。そうしたら当時の経営者であるお師匠さん(男性理容師)から「性別がどうとか自分のことを主張するのは理容師として一人前になってから。それまでは女性として働いてもらう。最低限でも化粧はしてこい」と言われて、3日悩んで結局入店したと。

やっぱり、面接でも隠したくなかったんだよね。女性として働けって言われたときは悩んだけど、でも「認めない」とは言われなかったわけだし、もう逃げてばっかりはやめて、必死で頑張って仕事も性別も認めさせようって思って。性同一性障害って言ったうえでそれでも雇ってくれるって言われたことも嬉しかったし。それで落とされてる人だって世の中いっぱいいるわけだからね。でも化粧なんかしたことなかったから、相方に―いったん別れた後ヨリを戻してたんだけど―教わって、ファンデーションだけ塗って。相方に「芸能人は男でもファンデーション塗るじゃない」って言われて、それで自分を納得させつつ。とにかく無我夢中で頑張ったね。それで3年くらい経ったころ、師匠が男物のシャツを買ってくれたことがあって。東京に連れて行ってもらったときに、オーダーメイドの店で、師匠が自分が買い物してた男物のコーナーで「お前も好きなの選べ」って言ってくれて。認めてもらえたのかなあ、って、やっぱりちょっと嬉しかったよね。

●ちなみに今、小野寺さんのところに、このお店に入ったころの小野寺さんみたいな、性同一性障害だ、男として働きたい、って言う若い理容師が面接受けにきたら何て言いますか?

うーん、やっぱり、まずは仕事どれくらいできるのか、お客さんどれだけ呼べるのか見せてって言うかな。で、仕事できないんだったら、女らしく戻せとは言わないけど、性別のこと主張するのと同じくらい仕事覚える努力はしろって言うと思う。

●その後お師匠さんが癌で亡くなって、2012年の9月に小野寺さんがこの理容室を引き継いで、現在に至るわけですよね。お店を引き継いだあたりから、本格的に性別移行も始めて。

初めてのカミングアウトをした頃に、FTMの友達に聞いた婦人科で男性ホルモン注射を打ち始めて。カミングアウトしたら次は外見変えよう!って思って、1年打ってたんだけど、師匠に出会って、なんかちょっと順番が違うなと思って、いったんやめたんだよね。その後はずっと何もしてなくて。だから東日本大震災の時も、ホルモン剤が手に入らなくて困るとか、そういうことはなかったんだけど。

●2012年の8月に改名したんですよね。そして「小野寺真」として、9月から正式にこの理容室を引き継いで。

「真紀子」っていう名前だったんだけど、「子」がつく名前だから嫌で。まず性同一性障害の診断書もらって、書類揃えて家庭裁判所に行って、名前を変えてもらった。それからまた男性ホルモンも始めて。2015年の11月に胸を取る手術して、2016年の3月、OUT IN JAPANの仙台撮影会の直前に子宮と卵巣取る手術受けて、その後戸籍の性別も男に変更して。2人姉妹の二女だったんだけど、性別変更するとなぜか二男になるんだよね。兄はいないのにね(笑)。

●お店のお客さんたちに対してのカミングアウトってどうしてるんですか?

修業時代はね、師匠に、お客さんに聞かれたら「女性です」って答えなさいって言われてたからそうしてた。でも師匠に「あの子男の子か女の子か分かんないよね、ソッチの方なんじゃないの?」みたいに言ってくる人もいたらしくて、師匠はお客さんによって「そうですね」って言ったり、「いやそんなことないですよ女性ですよ」って言ったりしてたみたい。

今は聞かれたら性同一性障害って言ってる。このお客さんには言わなきゃいけないなあって思った人には自分から言ってるし。あとは言わなくてもなんとなく、そうなのかな?って思ってる人もいるだろうし。普通に男だと思ってるお客さんたちもいるだろうし。お客さん全員に必ず言ってるわけじゃなくて、そういう流れになったら言う、くらいのかんじかな。最近は新聞やテレビに出たりしてるから、見たよ、いろいろ大変だったけど頑張ってるんだね、応援してるからね、って言ってくださるお客さんもいたり。もしかしたら、来なくなったお客さんの中にはそういうのが嫌で来なくなった人もいるのかもしれないけどね。

やっぱりね、覚悟はしたよね。嫌だって人もいるかもしれないし、そうしたらやっぱり商売にならなくなるかもしれない。そこは悩んだけど、でもやっぱりこれが自分だし、応援してくれる人もいるから、それを信じてやるしかないって思って。やっぱり何でもね、覚悟は必要だよね。

●地元で、しかもご実家と同業の理容業ということで、同業者には小野寺さんのことを子供の頃から知ってる人たちもたくさんいるわけですよね。そのへん、やりづらさとかないですか?

自分はね、もう別に何言われても「そうなんですよ性転換しちゃって~」とかノリで言えるからいいんだけど。うちの親の方が大変かもしれないね。

●正直、からかわれたりすることもあったりしますか?

男性理容師の集まりで、身体とかセックスのことに興味持って聞いてくるような人たちもいたりするんだけど。最初に「そういうの差別なんだよ」って言っちゃうと急にそこで距離できちゃうでしょう。だから俺は何聞かれても答えるようにしてるのね。ただお前の話も教えろよって。人にセックスのこと聞くんならお前のセックスも言えってね(笑)。そう言うと相手の方も、聞いてくるのをやめるか、はりきって言ってくるか(笑)、まあそれは人によるんだけど。冗談ぽく、あんまり重い話にしないで言うと、そうなんだ、意外と大変なんだねとか、みんなだんだん真剣に聞いてくれるようになったりして。興味を持ってもらうことはね、すごくありがたいなって思うんだよね。そういえば俺がカミングアウトしたとたんに、俺バイセクシュアルなんだよねって言ってきた人が2人くらいいて、みんなでビックリしたこともあった(笑)。でも、そんなかんじで軽くカミングアウトできるんだったら、それはそれで良いのかなあって思うね。

●セクシュアルマイノリティの場合、地元だと生きづらいからよその土地に行って暮らす、という人も多いわけですが、小野寺さんはそういう生き方を考えたことはありますか?

怪我してちょっと経って、親とうまくいかなくなってた頃に、東京で仕事探そうかなあと思って、東京の大学に入った友達のところに行ってみたことがあって。新宿二丁目(※ゲイタウンとして有名なエリア)のあたりとかプラプラしてみたんだけど。やっぱり結局「おなべ」として飲み屋づとめしかないのかなあ、って思っちゃって。性同一性障害っていう言葉も一般的じゃない頃だったからね。なんでこう生まれたらそういう業界でしか生きられないみたいになっちゃうのかなあって。やりたいこともないし、でも飲み屋づとめがしたいわけでもないし。で、思ったんだよね。やりたいことが自分で見つからないなら、東京にいても仙台にいても、どこにいても変わらないって。で、その時は、やっぱり自分はバスケットボールがやりたいって思って、仙台に戻って大学に入るわけなんだけど。

それに、地元の人たちに知られるってことから逃げたら、それって結局過去を消していかなきゃいけないことになるのかなあって。それが俺は嫌だったんだよね。過去があっての今の自分だと思ってるから。その覚悟がなかった、逆に。隠して生きる方が辛かった。東京とかよその土地に行っても、結局はカミングアウトしなきゃならない。だったらどこにいても一緒なのかなあって。

あとはやっぱり、うちの親が年取ってるからね。俺が見ないといけないんだろうなあっていう思いも正直あったね。

<OUT IN JAPANに関わって>

●2016年3月21日に仙台で開催されたOUT IN JAPANの撮影会で、小野寺さんは被写体として参加するとともに、ヘアメイクスタッフとして活躍していたわけですが、そもそも小野寺さんが被写体になった動機って何だったんですか?

やっぱり仙台ではまだまだカミングアウトしにくいようなところがあるから。仙台でも身近にいるんだよって、東京とか大阪みたいな大都市とか、海外だけの話じゃなくて、テレビの中だけの話でもなくて、仙台みたいなまちの、こんな小さな床屋にも、あなたのすぐ近くにもいるんだよって、身近に感じて欲しかったんだよね。

●撮影の時の衣装にもこだわってましたよね。

本当はね、いつも自分が店に立ってる時のスーツ姿で撮ってもらいたかったんだけど、でも撮影会ではスーツはダメっていうルールがあって。だからスタイリストの人と相談して、白いGジャンを合わせたり、ちょっと崩すかんじにして。胸ポケットにハサミと櫛さしてね。美容師とはまた違う、床屋の雰囲気を演出したかったんだよね。

●小野寺さんにとって、理容師になったきっかけは積極的なものではなかったけれど、20年やってきた中で、理容師として働いている自分っていうのが、とても大事なものになっていったんですね。

そうだね。やっぱり、師匠との出会いが大きかったよね。厳しい修業時代を乗り越えたから、いろんなものに覚悟も持てるようになったし。カミングアウトに限らず、勇気を出して一歩踏み出すことで、いろんなことがひらけてくるんだなあって、そういう生き方もあるんだなあって思った。

●仕上がった写真を見てどう思いましたか。

普段はあんな表情で撮らないからね、ある意味カッコつけて撮ってもらったわけだけど、自分のまた違う一面なのかなあと思って、ああなんか良いなあって。

それに、その1枚の中に、すごい数の人たちが関わってるっていうのを、俺は知ってるから。服を選んでくれた人たちだったり、撮影会を企画してくれた人たちだったり、裏方の人たちだったり。そういうのを知った上で見てるから、より深く見えるよね。

●2016年6月にOUT IN JAPANの公式サイトで仙台撮影会の写真が公開されたわけですが、その後反応ってありました?

そうだね、結構いろんな人が見てくれてて。俺の友達は、俺のだけじゃなく、仙台撮影会の写真は全部見てくれたみたいで、周りの人にも、OUT IN JAPANのこと言ってくれてて。いろんな人のメッセージ読んだりして、ひとりひとりにドラマがあるんだっていうことを知ってもらえて、LGBTとか、セクシュアルマイノリティとか分かってもらう本当に良いきっかけになってると思う。

●自ら被写体になる一方、ヘアメイクスタッフとして、たくさんの人の髪をセットしていたわけですが、やってみてどうでしたか。

やっぱりみんな何かしらの覚悟とか決意を持って来てるから。受付で同意書にサインしてるしね。俺と同じように、発信したいとか、自分が変わりたいとか、これをきっかけにカミングアウトしていくとか。すごくキラキラしてて、カッコ良く見えた。もちろん、スタイリストとかヘアメイクとか、プロの人たちがつくってるから、実際みんなカッコ良くなるし。ちょっと話すだけでもすごく、楽しさが伝わってきて、すごく良い空間だったね。話してみるとひとりひとりにドラマがあるのが分かって、ウルッときたりして。やっぱり、自分がセットした人たちのことは覚えてるし、写真展でも見ちゃうよね。

●OUT IN JAPANの写真って、みんなスポンサーのカジュアルブランドの洋服着てるから、あれが普段の姿なんだって思って見ちゃう人もいるみたいですけど、実際は「晴れ姿」というか、成人式の写真みたいなかんじで、プロがその人の良さを引き出してつくってるものなんですよね。

やっぱりみんな、過去の撮影会の写真を見てるから、自分もカッコ良く撮って欲しいっていう期待があったよね。ヘアメイクやってても、いつものかんじにつくる?それともちょっと違うかんじにつくる?って聞くと、やっぱり、違うかんじにつくってください、っていう人多かったんだよね。で、何か似合う髪型ありますかね、って聞かれて、いつも前髪上げてるなら下げてみる?とか、逆にいつも下げてるなら上げてみる?とか、そういうのはけっこうあった。やっぱりね、「引き出して欲しい」っていうのはあったと思う。

●そんなふうに、OUT IN JAPANで被写体になって、テレビや新聞にも出て、自分のセクシュアリティをオープンにしている小野寺さんですが、実はその一方で、「私がカミングアウトしない理由~CLOSET IN JAPAN~」に参加してくれたりもして。いろいろお話ししてみて、カミングアウトに対して意外とクールなスタンスを取っているなあ、っていうのを感じていたんですが、どうなんでしょう。

だって、別にカミングアウトが素晴らしいわけでもないし、クローゼットが素晴らしいわけでもないし。カミングアウトがプラスで、クローゼットがマイナスっていう発想もまったく俺の中にはないからね。カミングアウトしてもネガティブに考える奴もいるし、クローゼットだってポジティブな人もいるし、その人の生き方だから。ただ俺はカミングアウトしてるってだけで。

ずっと人のせいにして生きてきた時期があったから、自分で決めていく人生の方が、より楽しいんじゃないかとは思うんだけどね。たとえば俺だって「この人にはカミングアウトしない」って決めるパターンもあるよ。それで「何でカミングアウトしなかったんだろう」って後悔することもある。でもそれも自分で決めたことだから受け入れられるじゃない。

トランスジェンダーの場合は、性別移行したりってなると言わざるを得ないことはあるけど。ただね、俺は、カミングアウトは、自分の心が強くならないと、やるべきじゃないと思う。特にトランスジェンダーの場合は。プラスもあるけど、マイナスもあるってことを、分かったうえでやらないと。その強さは自分で身につけないと。カミングアウトした後に相手のせいにするのは、俺は違うと思うから。

たとえば俺が友達にカミングアウトしたら、俺の悩みだったものが、相手に言った瞬間、相手の悩みにもなるわけで。そしてその分俺は少しラクなるよね、やっとこんなに苦しかったのが言えたって。でも今度は友達の悩みになるわけだから、それは一緒に悩んでいかなきゃならないわけだよね。そうじゃなくて言ったら終わり、なんで分かってくれないのじゃ、俺は違うと思うから。

若いトランスジェンダーの子から相談受けることがあるんだけど、やっぱりみんな早く性別移行したいって思ってるんだよね。それは分かるんだけど、自分もそうだったから。でもね、何かやりたいことないの、って聞いて、ない、って言われたら、じゃあまだホルモン治療や手術はしない方がいいよって言うんだよね。なんでかって言うと、後で急にやりたいことが出てきたときに、ホルモン治療とかしちゃってたらできないこともあったりするから。たとえばスポーツの大会に出られなくなるとかね。性別移行ってゴールじゃないからね。通過点だから。それが終わってからも生きていかなきゃ、食っていかなきゃいけないわけだから。そっちの方が先じゃない?って、師匠に言われて俺は響いたから。性別移行するにもお金かかるわけだしね。自分の夢とか、就きたい仕事とか、そういうこと考える方が先じゃない?って。性別移行はその後でも、いつでもできるから。ホルモン注射だってすぐ打てるから。

性別のせいで、夢をあんまり小さく考えないで欲しいんだよね。もったいないよ。だから、そういう若い子たちにいろんなことにチャレンジしてもらうためにも、自分がカミングアウトして、身近に感じてもらうことって大切なんじゃないかなって思ってるんだよね。

2016年9月20日 ヘアーサロン Wingにて

聞き手:MEME

<インタビューを終えて:小野寺さんからメッセージ>

家族や仲間の支えがあっての私です。

トランスジェンダーは本当の自分になれずに諦めてきたこととかたくさんあるから。

夢を見られるような社会にするために。

宮城県はまだまだ閉鎖的だから。

分からないことだから誤解して相手を傷つける。心を傷つけられるのが怖いから先に相手を傷つける。

そんな街にしたくないじゃない。仙台市を......。宮城県を......。

一人で苦しんでる仲間がいるはずだから。繋がりたい。一人じゃないよって。

そして宮城県や仙台市などにもお力を借りたい。教育現場から変わるように。

そして就職するための企業との繋がりも大切にしていきたいよね。働かないと生きていけないじゃない。現実に俺たちは生きてるんだから。

セクシュアリティのこととか、言えずに苦しんでる人や、言いたくないけど社会に変わってほしいと思ってる人、そういう仲間も生きやすい社会になるように、たくさんの人たちにセクシュアルマイノリティ、トランスジェンダーのことを知ってもらいたいと思ってる。

そのために俺には、仙台で伝えていくことがあるんじゃないかと思っています。

※言葉の使い方について

言葉の使い方や選び方、語意の解釈については、語り手や時代によって違い、世代ごとにもニュアンスが異なることがあります。今回のインタビューでは、いまこのときの言語感覚を記録するため、語り手一人ひとりの言葉の使用方法を尊重して掲載しております。

※用語について

レインボーアーカイブ東北の記事には、耳慣れないセクシュアリティに関する用語がたくさん出てきます。下記のページにて、それぞれのおおまかな意味合いを解説していますので、ご覧ください。

レインボーアーカイブ東北による用語解説

http://recorder311.smt.jp/series/rainbow/#yougo


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