報告 2015年09月02日更新

鷲田清一館長・随行録 − 2015年7月24日


10-BOXから東部沿岸地区へ レポート:佐藤泰 7月24日、関東地方は例年より遅い梅雨明けからすでに3日が過ぎたが、300㎞北の仙台は、まだ湿気をたっぷり含んだ分厚い雲の下にあった。この日の朝、就任以来晴れ男を自認する鷲田館長は、同行スタッフとともに久しぶりに沿岸部の視察に出かけた。

館を出て東の沿岸部に向かう途中、着任以来まだ訪問できずにいたせんだい演劇工房10-BOXに立ち寄る。メディアテークが開館した翌年、2002年に「劇都仙台」の拠点としてオープンした演劇系稽古場施設。6室ある練習室のほか、作業場、制作室、資料室、事務室をあわせ、全部で10個のハコ=10-BOXを備える。出迎えてくれた八巻寿文工房長は、10-BOXの企画・設計段階から現在に至るまで、中心となってひっぱり続けてきた人である。施設内を案内しながら話すその言葉には、随所に込められたこまやかな工夫や意図、運営をするなかで多くの人々と分かち合ってきた苦楽がにじみ出る。

せんだい演劇工房10-BOX 八巻寿文工房長
事務所の一角にはチラシ置き場がおかれ、その奥には大きなテーブルのあるダイニングキッチンがある。そこはスタッフだけではなく、館を利用して活動する人々の、まかないと交流の場ともなっている。食事の時間が来るたびに、カレーや豚汁のにおいが立ちこめ、賑やかな笑い声に満たされる事務所というのも悪くない。

キッチンの大テーブルは打合せ用のデスクにもなる
キッチンの大テーブルは打合せ用のデスクにもなる 事務所の扉をあけると、屋根のない中庭があり、それを囲むように、初期段階の稽古を想定した小さな練習室、ある程度動きのある稽古も可能な中規模の練習室、80席収容の公演も可能な大きな 練習室などが配置されている。それぞれの内装は、使い方によってその都度加工しやすいように、仮設的な軽い仕様で仕上げられている。 「こういうチープな感じがいいんやわあ」 塗装した薄い金属板を貼り合わせたような外壁をなでながら、鷲田館長はしみじみ言う。「最高の設備を誇るホールが、あまりに立派すぎて結局うまく使いこなせないのに比べたらこっちのほうがずっといい。」館長が京都の大学で学長として携わる新しい施設計画への思いでもあるかもしれない。

館外にも持ち出し可能な舞台設備、照明器具、音響機器などはいくつかの倉庫に分散して保管されている。いざというときに宿泊用ベッドにも転用できる収納棚には、照明器具や音響機器がところ狭しと並ぶが、それぞれの所定の収納場所を示すパネルには、機材名や性能だけでなく、歴史や使い方も含めて、初心者にもわかりやすいようなイラスト入りの解説がついているので、眺めているだけでもおもしろい。

「ここの運営は、劇場スタッフとの協働で成り立っています」 と語る八巻さん。10-BOXという場を維持することは、スタッフの役割にとどまらず、ここを使うすべての人々にとって、その表現活動の大切な一部になっているのかもしれない。震災の直後、とるものもとりあえずここに避難し寝泊まりしていた人々のあいだで、自然発生的に始まった活動は、まさに八巻さんが言うところの「存在の作業場、何かが立ち上がっていく場」としてのワークショップそのものだったという。すべてが機能を停止してしまったかのように見えたあの時、10-BOXには人々の再生力をエンパワーする力があった。災害時に文化が果たしうる役割のひとつを、あらためて垣間見た気がする。

資料室の壁には、関わった人々のメッセージが書かれている。八巻さんにマジックを渡された鷲田館長も一言。

資料室の壁には、関わった人々のメッセージが書かれている。八巻さんにマジックを渡された鷲田館長も一言。 仙台市の卸売市場に近接する「杜の市場」で軽い昼食をとったあと、仙台市立七郷小学校を訪問する。仙台市の小学校で津波で大きな被害を受けたのは、海岸に近い荒浜、中野、東六郷の三校である。七郷小学校はそれらより一段階内陸にあり、直接的な被害は小さいものの、被災者や被災校の受け入れなど大きな影響を受けた学校のひとつだ。ここには当時のようすがたくさんの写真となって残されている。撮影したのは日頃からカメラをよく手にしていた教員とのことで、担当業務というより自発的な活動だったようだ。事実、残された写真は、その先生が学校にいた時間帯に集中している。今はメディアテークの「3がつ11にちをわすれないためにセンター」と協働し、残された写真をパネル化して、児童や教職員はもちろん訪れた地域の人々から写真に関するコメントを集める活動も進めている。当時の1年生もすでに6年生、当時の職員の九割近くは他校に異動しているなか、当時を記録する作業の重要性は増している。なによりも地域の学校に地域の大切な記憶が刻まれていくことの意義は、単に震災というテーマにとどまらず大きいはずだ。

窓の外を眺めながら当時のようすを思い描く。中辻正樹教頭先生は、当時は内陸の学校におられたとのことで、双方のギャップの大きさも含めて説明してくださる。

窓の外を眺めながら当時のようすを思い描く。中辻正樹教頭先生は、当時は内陸の学校におられたとのことで、双方のギャップの大きさも含めて説明してくださる。

かつては家々が立ち並んでいた荒浜地区。奥に見えるのは震災後、現地再建への願いをこめ、住民の手で立てられた意見看板。手前は今は走らないバスの停留所を模し、東京の美大生が作った作品。
かつては家々が立ち並んでいた荒浜地区。奥に見えるのは震災後、現地再建への願いをこめ、住民の手で立てられた意見看板。手前は今は走らないバスの停留所を模し、東京の美大生が作った作品。 小学校をあとにした私たちは、閖上、荒浜など、被災した沿岸部の復興状況をみながら、今年3月に再建されたばかりの南蒲生集会所に向かう。ま新しい集会所には、2013年8月に蒲生地域のようすを案内してくれた吉田祐也さんが待っていた。市内の大学に勤めるかたわら、南蒲生町内会の「復興部」の事務局長として今も活動を続けている。 「この地域の戸数は、以前の3分の1で ほぼ確定しました。」 津波で被災した自宅を修理、再建し、まだ誰もいない頃から住み始めた吉田さんは、地域の被災者支援や復興の活動に率先して関わってきた。サーフィンやライフセイバーで日焼けした顔は、快活で人をそらさない誠実さにあふれているが、そんな人柄が、この地域の復興を支える大きな力となったことも確かだろう。ただ実際に現地で生活を再開できるかどうかは、それぞれが抱えるさまざまな現実と折り合わなければならない。震災前にくらべ地域の住人は大きく減ることとなったが、吉田さんたちはこれを新たなスタート地点として、ひたすら前を見る。復興部としての活動は間もなく終わるが、南蒲生復興のこれからの目玉として仙台のNPOである都市デザインワークスと協働しながら、新しいプロジェクトに取り組んでいる。仙台平野の水田地帯に小さな島のように浮かんでいた「居久根(いぐね)」と呼ばれる屋敷林を、「新しい田舎」のエコシステムとして再生させようとする壮大な計画だ。

集会所の2階は、情報発信のための資料や機材が用意され、壁には南蒲生の活動がわかりやすく紹介されている。
集会所の2階は、情報発信のための資料や機材が用意され、壁には南蒲生の活動がわかりやすく紹介されている。 3年前にこの地区を訪れた鷲田館長は、復興に向けた若者たちをはじめ地域の人々の元気な活動ぶりに驚いていた。そんな彼等のことが気になるのか、まるで同窓会に出た先生と生徒のように、当時の話や地域の近況の話でもりあがる。私はそんな二人のようすを眺めながら、海に向けて大きく開かれたこの場所が、これからも地域の人々のつながりを守り、紡いでいくためのたしかな拠り所となってくれることを祈っていた。
時おり霧雨がまじるものの、基本「くもり」だった空も、帰途につくころにはいよいよ暗くなり、雨粒らしきものがぽつりぽつりと降り始めた。車はワイパーをまわし道行く人も傘をさしている。鷲田館長の晴れ男もこれまでかと思われたが、よく見ると歩いているのは楽天の試合に向かう人々。そこで「楽天の試合が中止にならなければ雨じゃない」という究極の理屈を思いついた。結局のところ、楽天の試合は行われ、その日の楽天はロッテに6-2で負けたのだが、館長の晴れ男は勝ち残ることとなった。

南蒲生町内会「復興部」事務局長 吉田祐也さんと
南蒲生町内会「復興部」事務局長 吉田祐也さんと。


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