報告 2017年06月30日更新

鷲田清一館長・随行録 ―2017年6月11日


鷲田清一館長・随行録 ―2017年6月11日
南三陸から石巻方面へ
レポート 佐藤 泰

6月11日日曜日の昼前、定禅寺通りの歩道沿いには、ところどころ人垣ができはじめていた。午後から始まるパレードを待つ人びとだ。震災の年に復興の願いをこめて始まった「東北六魂祭」を引き継いで、今年から新たに始まった「東北絆まつり」。東北各地の夏祭りが集まり、華やかさを競い合うように繰り広げるパレードは、六魂祭以来たくさんの人びとの人気を集めている。 お祭り前のなにかそわそわした雰囲気を感じながら、メディアテークの車は、鷲田館長以下スタッフを乗せて、防災庁舎の震災遺構でも知られる南三陸町へと向かった。2013年に就任して以来、鷲田館長はメディアテークのスタッフとともに仙台市沿岸部はもとより気仙沼や陸前高田を訪れ、津波被災地での人びとの活動に触れる機会を作ってきた。今回は南三陸から石巻にかけて、進みつつある復興のようすを駆け足ではあるがまわる予定である。仙台市内で高速に入り、三陸道を北上して、開通したばかりの南三陸海岸(志津川)インターまで1時間半ほど。震災前は二車線の部分が多かった三陸道だが、復興を後押しする意味もあって震災後はかなりの部分が四車線に拡幅整備された。初夏の緑と日差しの中、白く伸びる真新しい道路を私たちはひた走る。かつては被災地に向かう大動脈として、大量の瓦礫や土砂を運ぶダンプや、作業に出入りする車で毎日渋滞していたことが、目の前を流れる光景からはもはや想像すらできない。追い抜いていくスポーツ車の鮮やかな赤を眺めながら、鷲田館長は被災の痕跡がどこにも見られないことにあらためて驚いているようすだった。



南三陸海岸インターを降りるとほどなくして最初の目的地「南三陸さんさん商店街」に到着した。300台収容できる大駐車場はほぼ満車状態。かなりの台数が仙台ナンバーや他県ナンバーである。平屋6棟の商店街は、飲食店、鮮魚店、菓子店のほか、コンビニや産直施設など、計28店舗が入っている。特産の南三陸杉が内外装に使われた建物は建築家の隈研吾氏の監修で、「仮設当時からの心地よいノイズ感やワクワク感を残しつつ、より温かみのある商店街」を目指しているとのこと。志津川湾を見下ろす商店街の敷地は、震災後8mほどかさ上げされた地区のほぼ中央にある。商店街から見ると、かつては街のすぐ横で満々と水を湛えていた八幡川が、深くえぐられた斜面の底を流れるように見え、すぐわきの防災庁舎も、見えるのは頭の部分だけである。さらに周囲を見渡すとかさ上げ工事や新しい橋の建設があちこちで続き、完成後のイメージが見えてくるのはまだまだ先のことのようだ。それでも昼過ぎの商店街は、仲間や家族連れで食事をする人びとや、豊富な海産物を買い求める人びとでごった返し、市場のような活気にあふれていた。


しばし買いもの気分を味わったあと、私たちはさんさん商店街をあとにして防災庁舎に向かった。多くの犠牲者を出した悲劇の現場でもあり、これを残すべきかどうかについてはさまざまな意見があるが、今は震災の記憶を伝える遺構として保存される方向だ。かさ上げ工事のため今は近くに立ち入ることはできないが、ひきもきらず訪れる人々のために、庁舎が見える位置には献花台が用意されている。今後、防災庁舎の周辺はかさ上げされて祈念公園となる予定だが、工事の本格化にともない、この日訪れた献花台も近く移設されることになっているとのことだった。


南三陸から国道398号線を通って女川方面に向かう途中、追波湾に注ぐ北上川の河口から、少し内陸に入ったところの橋を渡ると、たくさんの子供たちが犠牲となった大川小学校の跡がある。周囲の家並みはすっかりなくなって、今は校舎だけが被災した当時のまま残され、敷地内には慰霊のためのモニュメントがそれぞれの立場から思い思いに設置されている。ぎりぎりまで津波を想定した避難行動をとらなかった学校側の責任をめぐって、今も遺族とのあいだで裁判が続いているが、ひとたびこの地を訪れると、私たちは誰しもがそのやりきれなさに言葉を失うほかないのだ。さえぎるものなくどこまでも広がる空と、校舎を吹き抜ける風とが、今もこの場所を深い沈黙に包み込んでいるかのようだ。


リアス式で知られる三陸海岸は、高低差の激しい入江と半島が交互に続くため、海岸線にそって行く昔の道は、細く曲りくねっていて難所も少なくなかった。今はそんな道路もすっかり整備され、程よいワインディングロードとそれに呼応して変化する景色が、ドライブの楽しさを引き立ててくれている。重苦しさを引きずりながら大川小学校を後にした私たちだったが、気持ちよく晴れ上がった三陸沿岸を走りながら、車中を支配していた空気も徐々に軽くなっていったように思う。 女川では、かさ上げによって、港のレベルから背後の山に向かって緩やかに続く斜面が作られた。震災前より200mほど山側に移動して2015年3月に再開された女川駅は、日帰り温泉を併設するユニークな建物で、建築家の坂茂氏の設計である。斜面上端の駅から正面の海に向ってまっすぐに伸びるゆったりした遊歩道を軸に、それに面する形で、新たな施設が並び、街並が作られている。人々が集まり活動するための「まちなか交流館」や「フューチャーセンター」、さまざまなお店が入る「シーパルピア女川」、豊富な海産物など地元食材を提供する「ハマテラス」、水産体験ができる「あがいんステーション」などがあるほか、遊歩道の下端にあたる海岸沿いには、津波で横倒しになったままの交番が遺されている。復興の過程で育まれたさまざまな活動や、それを継承発展させるための機能が随所に組み込まれているのも特徴のひとつだろう。



私が以前訪れたときは、テラスのテーブルにホタテ貝など焼きたての海産物をほおばる人びとがあふれ、特産品の買い物すらままならないほどの活気だったが、今回は4時近い時間帯ということもあってか、歩く人も少なく、うって変わって静かな佇まいを見せていた。時間が押していたために、建物群を外からさっと見渡すだけとなってしまった私たちの目には、そこがまるでリゾート地に作られた小洒落たショッピングモールのようにしか見えなかったのが残念ではあった。


女川から仙台に戻る途中、牡鹿半島の根元にある蛤浜に作られたカフェにたち寄った。津波の被害で集落としての存続も危うい状態にあった蛤浜だったが、それを再生するために地元出身の青年が中心になって立ち上げたプロジェクトには、多くのボランティアや協力者が参加した。そしてできあがったのが、被害のなかった民家をそのまま活かしたカフェ「はまぐり堂」と、そこを拠点により多くの人びとが海と自然に親しみ、そこでの生活を体験することができる交流の場である。蛤浜に向けて曲がりくねった道を行くと突然ツリーハウスとバス停が目に飛び込んでくる。



車で直接浜にも行けるが、ここから歩いてはまぐり堂まで降りていくこともできる。玄関で靴を脱いだ私たちは、座敷の奥の大きな机を囲んで座り、思い思いにメニューを選んだ。開け放たれた廊下のガラス窓からは、穏やかな日差しにゆれる庭先の草花が見える。壁の上には、この家の家族と海辺の暮らしを見守り続けてきたはずの大きな神棚が、そのまましつらえられている。「ああ、帰りたくない」誰ともなく口にした私たちは、すっかりくつろいで、この家のかりそめの住人になっていた。カフェの外には入り江を見渡せるテラスがあり、お客で混み合うときは潮風にあたりながらここで順番を待つ。これほど贅沢な順番待ちスペースはなかなかないだろう。カフェを出た鷲田館長はしばしここに座って海を眺める。いつの間にか日が傾いて、入り江の中にも山の影が少しずつ広がり始めていた。


蛤浜を出発した私たちは一路仙台に向けて車を走らせた。石巻に入り北上川河口にかかる日和大橋をわたると、門脇、南浜地区にさしかかる。このあたりは人口密集地であったがゆえに津波被害の大きさは筆舌に尽くしがたいものだった。もはや人が住むことのできないこの場所は大規模な復興祈念公園として整備される予定である。うっかり道を誤り、舗装されたメイン道路をはずれた瞬間、そこはほぼ手つかずで道路もでこぼこのままだった。震災から6年が過ぎて、一見震災の痕跡が感じられないほど整備の進んだところがある一方で、こんなふうに手つかずのままとなっている所もある。私たちが仙台を離れている間に行われたはずの東北絆まつりのパレード、整備の進んだ三陸道の快適なドライブ、南三陸と女川で見たそれぞれの復興商店街の有りよう、防災庁舎や大川小学校など、震災遺構とそれをめぐる人びとの思い、そしてはまぐり堂に流れていたゆるやかな時間、それらのいずれもが、あの震災を契機として、今、私たちの前にある。置かれた状況も違い、目指すところもそれぞれだが、あの日の痛みや喪失感を乗り越え、膨大な損失や先の見えない不安を跳ね返して、ようやくここまできたという点は変わらない。想定外の災害によって、私たちはそれまでの自分たちの思い上がりに気づかされ、以来、人としての謙虚さ、未来への誠実さのようなことに対して、なにか切迫した気分が東北にはあったのではないかと思う。「復興」はいずれ終わるのだろう。それを心待ちにしている人びとのためにも急がなければならない。しかし同時に忘れたくないのは、混沌とした状況の中で歯を食いしばり、支え合う、まさに復興のプロセスの中で、お互いに学びあい、考えあうことで積み上げてきたことの大切さでもあるのではないか。そんなことをぼんやりと考えながら、「永遠のアンダーコンストラクション(工事中)」という言葉を思い出していた。メディアテークを語るときによく使われるキーワードで、完成することのみを目的にするのではなく、そこに至るプロセスのなかにある、無数の学びやそこから生まれる新しい価値を大切にしたいという考え方である。 石巻から三陸道に乗って夕暮れの仙台に入ると、もはや日中のパレードの痕跡は跡形もなく、街はいつもの落ち着いた表情を取り戻していた。鷲田館長をホテルにお送りした私たちは、半日の旅の余韻をかみしめながらメディアテークへと帰った。


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