報告 2012年05月20日更新

第11回 シネマてつがくカフェ「映画『声の届き方』(制作:伊藤照手)から考える」レポート・カウンタートーク


【開催概要】
日時:2012 年 5 月 20 日(日)15:00-17:30
会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオb
(参考:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2012/05/--4.html


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第11回目てつがくカフェはシネマてつがくカフェ(第2回目)のスタイルをとった。鑑賞した作品は『声の届き方』(制作:伊藤照手)という、昨年 11月13日に仙台市定禅寺通りで行われた反原発デモ・ウォークに関する市民のインタヴュー記録映像(今年1月実施)で、そのあと従来の対話型のてつがくカフェに入った。

最初は『デモ』という現象を目の当たりにした率直な感想、意見が飛び交った。 実際にデモに参加したことがある方々、デモ文化が浸透しているヨーロッパで頻繁にデモやストライキを見たことがある方の豊富な体験談が会場の流れを一気に勢いづけた。デモに対してもちろん賛否両論あり、「デモ」 自体に性急さや衝動性を感じ戸惑う方々もいられたが、その中でたちあがったキーワードは、デモの「多様性」といった伝える側の表現の自由であり、 そこには音楽や踊りといった視聴覚にポジティブに訴えるものだけでなく、「沈黙」というメッセジーが強力な伝達手段になるという議論をより深く掘り下げる切り口もあった。

  



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議論に方向性が出てくると、今回のカフェの話題の流れは次の二点に収束し、そこでさまざまな意見が展開していったように思われる。
一点目は、自分の思いや主張を伝えるのに何故「デモ」といった方法、行動をとるのか?という問いであり二点目は、まさに「声が届く」という現象はどういった事態なのか?というコミュニケーションの根幹にかかわる遡及的な問いだ。
後者でのキーワードは受信する側の「受け取る自由」であり、発信者にはコントロールできない次元で、いわば無意識的なレベルでの「伝播」現象に近い「届き方」が問題に遡上してきたといっていいと思う。「心に触れる」という触覚次元での感受性といってもいかもしれない。

私たちは「声が届く」、「伝わる」といった現象は日常的なコミュニケーションではただの信号や記号のやりとりだと、当たり前のことのように思っているかもしれない。今回思ったのは、コミュニケーションが成功すること自体まさに奇跡的なことで、そこにはいつも誤信可能性に憑きまとわれている危うい空間があり、その認識なしに言語活動をするのはあらゆる対立の根になっているのではないか、と思った。
もちろん以心伝心のように相手を100パーセント分かり合えるのは無理で、人間は何らかのコミュニケーション手段を開発したわけだが、そこには必ず媒介するもの(音声、視覚、嗅覚など)があり、信号の対立項としての「沈黙」が語るのはそのためなのではないか、と思った。いや、「沈黙」は 「多弁」の対立項ではなく、そもそも「沈黙」がコミュニケーション成立の条件・前提になっているのかもしれない。

報告:加賀谷(てつがくカフェ@せんだい・いわて)

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板書のまとめ


黒板1枚目



黒板2枚目



黒板3・4枚目 ---------------------------------------------------------------------------------------------

◎ 第11回 シネマてつがくカフェ「映画『声の届き方』(制作:伊藤照手)から考える」カウンタートーク




カフェ終了後に行ったスタッフによる延長戦トークです。以下より視聴できます。






*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=107#report


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