報告 2013年07月27日更新

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第4回レポート


【開催概要】
日時:2013 年 7 月 27 日(日)17:00-19:00
会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
(参考:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2013/07/3-11-6.html


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〈3.11以降〉読書会は今回で4回目でしたが、今回初参加の方々も何人かいらっしゃったので、予め用意したレジュメで比較的丁寧に前回の読書会を振り返ることから始めました。前回の読書会の内容は前回のレポートを見て頂ければと思いますが、途中で前回にはなかった話題が(新しい参加者の方から)出たのでまずはそれについて書きたいと思います。

そこで話題になったのは、ナンシーが「責任」をどう考えているのかについてです。前回と今回のはじめに確認したように、ナンシーが言っていたのは次のことでした。すなわち現代文明の特徴のひとつは「等価性」と、それによって諸々の「力」が互いに複雑に絡み合っているということです。このことからその参加者の方が考えたことは、ある出来事の「原因」と呼べるようなものも今ではけっしてひとつに限定できるものではなくて、ちょうどフクシマに関してナンシーが解明したように、文明全体の構造、布置が当の出来事を引き起こしているのであるから、今は「責任」というものについても問うことができなくなってしまっているのではないか、というものです。

この意見に対して、いち参加者として議論に参加していた筆者は、ナンシーの議論からそのような帰結を引き出してしまうことに抵抗を感じました。確かに現状、原因をひとつに特定しようとすることは不可能でしょう。福島原発事故の原因は東電の社長の意志ひとつに求められるわけでもなければ、東電という会社にのみあるわけでもなくて、あのような体制を作り出した政治的・経済的構造もまた事故を用意したはずです。しかしだからといって、責任について問うことを止めてしまえるという主張をナンシーがするとは私には思えませんでした。そうではなくてむしろナンシーの議論から引き出すべきなのは、より全体的な観点から責任について思考することではないかと。最も簡単な例は、原発事故に対しては、東電だけでなくそこから供給されてきた電力を享受してきた消費者の側にも責任がある、というように思考することです。

しかしまた別の方が仰ったように、ナンシーの議論は責任ということが問題になる以前の、より深いレベルでの議論であると考えるのが一番適当かもしれません。とはいえあの参加者の方が言って下さったように、ナンシーの議論を踏まえた場合にある出来事の「責任」をどのように考えられるだろうかと問うてみても面白いことはたしかです。



前回の内容を振り返ったあとは、第9節から音読をはじめていきました。きりのいいところまで読んでいったあとに、読んだ箇所で理解できなかった点について議論を進めました。

最初に議論の焦点になったのは、「コミュニケーション(communication)は感染(contamination)となり、伝達(transmission)は伝染(contagion)となる」(p. 59)という一節の意味です。ここで言われているのは、「コミュニケーション」や「伝達」が「感染」や「伝染」といった"病的"になるということであるのはわかりますが、いったいどのような意味で"病的"であるのかはなかなか理解しにくいところです。ひとつ明快な意見があったので紹介すると、ふつう伝達やコミュニケーションは「意図」をもって自分の考えや意見を伝えようとするものですが、いまは情報、意見、思想が技術を通して「意図せず」拡散していってしまいます。それはまるで体内のウィルスが当人の意図とは無関係に他人に「伝染」してしまうかのようであり、また通常の「伝達」に比べて異常な、それゆえ"病的な"仕方で情報等が伝わっているのだと考えられます。Twitterで情報を広めたいときには「拡散希望」と付け加えますが、情報はまさにネット上で「伝達」されるのではなく「拡散」していくものです。ときにはたとえ当人が「希望」していなくても、つまり意図せずともツイートは「拡散」していくこともあります。このことを念頭におくとあの一節の意味もわかりやすくなるのではないでしょうか。

ところでそもそも「伝達」が「伝染」となってしまうのは、前節までに延べられたあの「等価性」によって諸々の「力」、事象が統べられ、相互に依存しているからであるという意見も聞かれました。そしてこの相互依存のあり方は、今読んでいる節のなかでも描写されています。次の箇所です。

この相互依存のなかで、「自然」と「技術」の区分、さまざまな技術のあいだの区分、目的と手段との区分、自己目的たるわれわれの存在と無際限に等価的となった目的に仕える手段たるわれわれの社会的生との区分、こうした区分がすべて消え去ったのである。富、健康、生産性、知識、権威、想像力、これらはすべて同一の論理のなかに組み込まれる。この論理は、量の質への転換を大原則としているように思われる。(p. 58)

前回の話題にもなりましたが、牛やトウモロコシ、あるいは人間といった区分は資本主義社会においてはほとんど意味をなさず、それらどれについても価格という名の価値をつけることが可能です。それら各々の、固有の「質」は、価格という「量」によって互いに「通約可能」に――互いの優劣を評価することができるように――なります。ここでは(最初筆者が勘違いして述べてように)質は量によってはかられているとも考えられますが、むしろ(別の方がおっしゃったように)量が質"である"とみなされているのだと考えることもできます。たとえば文学作品の価値というものがあってそれを出版部数ではかるというよりもむしろ現在は、出版部数こそが文学作品の価値であるとされているのではないかということです。だからこそナンシーは「質の量への転換」というよりも、「量の質への転換」が大原則になっていると述べたのだと考えられます。この<量こそが価値である>という大原則、より具体的には「出版部数」や「販売台数」がそのものの価値であるという大原則にのっとれば、すべてのものの価値はそれのもたらす利益によって同様に("平等に")はかることができます。


61ページの「環境主義」や「技術的無意識」とは何かということについても議論になりました。「環境主義」という言葉の意味については、2通りの意見がありました。ひとつは「環境」と同義だという意見、もうひとつは人間もなにもかもある「環境」によって形成されるという考え、主義を表すというものです。前者の意見はよく理解できなかったのですが、とにかくわれわれは神や偉大な人間、自然といったある「最善のもの」を目指して思考することしかしてこなかったにもかかわらず、神への信仰は衰え、説得力をなくし、また「全的人間」を思い描くこともできなくなってしまったいまでは、「環境」が、あるいは「文脈」が<人間>を形成するとしか考えられなくなったがために、「主体」、「意味」、「アイデンティティ」、「形象」などに対する「正当な問いかけ、嫌疑、疑いを生み出すことになった」のだと述べられているということについては共通の認識が得られたと思います。「技術的無意識」については筆者が調べてくることになりましたが、参照されている文献の入手が困難なため、できそうもありません。


最後に、62ページで言及される「技術」がわれわれをそこに"さらす"ことになる「未聞の合目的性の条件」についての話題がありました。そこでは次のように述べられています。

〔...〕技術とは諸々の操作的な手段の総体のことではなく、われわれの存在様態なのだ、ということである。この様態は、われわれをこれまで未聞の合目的性の条件へとさらす。すなわち、あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段になるという条件である。(p. 62)

「合目的性」とは、ある目的にかなう性格だとして、「技術」というわれわれ人間の"在り方"(存在様態)が、どうしてわれわれを「未聞の合目的性の条件」にさらすことになるのか、理解しにくいところです。まずは「未聞の合目的性」がいかなるものかについて解釈が割れました。ひとつは、それはわれわれには予測できないような、まだであったこともない「合目的性」のことであるという解釈。もうひとつは、「目的無き合目的性」という意味であるという解釈です。これは、「未聞の合目的性の条件」にわれわれはすでにさらされていると考えるか、それともこれからようやくわれわれはそれにさらされると考えるかによっても解釈が分かれているのだと思います。この点についての議論は時間がオーバーしてしまったので十分にすることはできませんでしたので、次回も引き続き考えていければと思います。


今回は音読しながら議論をしていくという方式で読書会を進めていきましたが、やはりテーマが細部に集中する傾向があります。それはそれで意義のあることですが、細部について議論するのと同時に、次回はより全体的な観点と、具体的な観点とから9節、10節を読んでいけたらと思います。

次回は今回の読書会を振り返ってから63ページの「われわれはどのような集め合わせを想像できるだろうか。」という一文から始まる段落を読んでいく予定です。

第4回読書会資料1(PDFフファイル103KB)

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)





*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=5059#report


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