せんだいメディアテーク

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2015年03月22日更新 報告 〈3.11以降〉読書会―〈震災〉を読み解くために―第22回レポート

【開催概要】
日時:2015 年 3 月 22 日(日)17:00-19:00
会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
(参考:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2015/03/3-11--22.html


* * *





写真1

今回はメディアテークで行う読書会の最終回でした。この回も含めここ4カ月は続けて『聖地Cs』(木村友祐著、新潮社)を課題本にしてきました。

まずはこれまでの読書会を振り返るために、本を読んできた参加者同士で感想を述べ合い、互いに意見を交わすことから始めました。その次に物語の全体像を掴むべく、各人が考えたこの小説の「プロット」を発表してもらいました。ここで行ったのは、「この物語はどんな物語か」という問いに一言二言で答えてもらうという、全体像の簡単な要約ですが、それさえも、まさに十人十色といったところでした(詳しくは第20回レポートをご覧ください)。そのあとは登場人物個々人に焦点を当て、彼らがどのような人として描かれているか、また彼らにどんな印象を抱いたのかを述べ合い、話していきました。この段階でもやはり多種多様な見方や意見が出されました。

写真2

以上の段階を経て、わたしたちは初めにひとりで読んできたときよりも深く、また複数の視点からこの物語を精読することができました。前回と今回の読書会でしたことは、こうして物語を十分に精読したうえで浮かび上がってくるような「問い」を言葉にしていく作業です。

対話の中では、たとえば次のような問いが挙がりました。

「(小説の舞台、"希望の牧場"の主である"仙道さん"という人物について)普段から商業目的で牛を殺してきたにもかかわらず、被曝したからといって牛を生かすことはギマンではないか?」
「この小説がフィクションとして書かれてあることの意味、あるいは、なぜわたしたちはこの小説がフィクションかそうでないかを気にするのか?」
「小説とは何か?」

二、三番目の問いも面白いものでしたが、ここでは一番目の、仙道さんの行為に対して投げかけられた問いが対話の軸となりました。対話を通じて、結局は仙道さんが被曝した牛を殺さない理由を考えることになりましたが、参加者の回答はまず次のふたつに分かれました。ひとつは、仙道さんは自分(たち)のために、牛を「利用」しているのではないかという意見。たとえば自分たちの窮状を外部の人に訴えかけ、忘れさせないために利用している、という見解です。他方で、震災を通じて「命」への見方が転換し、牛の命そのものを守ろうと、牛たちを生かすようになったのだという意見もありました。この二種類の意見がそれぞれ展開されていったところで、ある参加者から「そもそもなぜ、生きているものを殺さないでいることが問題になるのか」という声が挙がりました。たしかに仙道さんの牛たちへの態度は、「尊厳」といったような、「測りがたい価値」に対するものとは少し違う気もします。それよりもまさに、本文中で仙道さんがそう述べるように、仙道さんの牛への態度は「礼儀」としてのそれであって、なにか当然のことといったニュアンスを感じさせます。だとしたら変なのは、当然のことをする人よりも、当然のことに理由を求める人のほうかもしれません。

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22回 3.11 レポ画像④.jpg

とはいえ、ここで出てきた「礼儀」という言葉は、使うのは簡単ですが、あらためて意味を問われると上手く言い当てるのは困難です。そこで対話の最後に、「礼儀とは何か」をみんなで考えることになりました。

この問いへの応答には、

「相手を利用しない」態度
「感謝する・表現する」態度
「敬意を表す作法」
「命を蔑ろにしないこと」

などが挙げられました。

ここでは、「敬意」という語の意味を考えるために「軽視」の意味を考え、それは相手や物を「どうでもいいものとして扱う」態度のことだという意見に辿り着きました。だとすると礼儀とは、相手を「どうでもいいものとして扱わない」ことを含むはずだ、たしかに長く使った服や道具をどうでもいいものとして扱うことを「物への"礼儀"に反している」と言ったりする...というふうに対話は進んでいきました。

しかし、この問いに対する完全な答えが見つかるはずもなく、この思考の流れは時間的制約のために途切れざるをえませんでした。とはいえ4カ月にわたって同じ小説を読んできたからこそ、こうした抽象的な(そして哲学的な)話題でも、自然と入っていくことができました。最後にふさわしく、生き生きとした奥行きのある対話ができたのではないかという感想です。

写真5

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)




*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=11777#report