コラム 2024年04月02日更新

「ドキュメンタリー制作ノート」第1回:企画・テーマ設定


「ドキュメンタリー制作ノート」第1回:企画・テーマ設定

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※この企画は、ドキュメンタリー制作における一つ一つのプロセスについて、テーマごとにみやぎシネマクラドルの作り手が文章を執筆する企画です。2024年度の1年間で以下のテーマについて執筆する予定です。


1回:企画・テーマ設定
2回:撮影交渉
3回:撮影準備
4回:撮影
5回:編集
6回:試写(対象への確認を含む)
7回:発表(自主上映会・劇場公開を含む)
8回:完成後の対象との関係
9回:失敗談

ドキュメンタリーを制作中の人、これから制作しようと考えている人の参考になれば幸いです。
なお、現在、みやぎシネマクラドルの会員がドキュメンタリーへの思いを自由に執筆する「わたしにとってのドキュメンタリー」も連載中です。そちらも是非ご一読ください。

 
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 「ドキュメンタリー制作ノート」第1回:企画・テーマ設定


 ■我妻和樹(あがつま・かずき)

 ドキュメンタリーの制作を始める場合、その動機もきっかけも人によってさまざまです。経験の豊富な人は、「こういうテーマでこういう作品を作ってほしい」という依頼を受けて、仕事として制作する場合もあると思います。
 僕の場合、こうした仕事とは別に、自分自身の内なる動機に従って、何の後ろ盾も予算もない、いわゆる「自主制作」という形で制作を始めることが多かったです。そこには、自分自身が強く心を惹かれた人や土地との出会いがあり、そこから生まれた切実な問題意識や映像記録の欲求が、表現へと向かう大きな動機となっているように思います。
 このような形で始まる作品制作は、僕にとって生活の一部のようなもので、往々にして長い時間を費やします。例えば、僕が大学卒業と同時に制作を始めた長編第一作に関しては、撮影に3年、編集に3年という時間を費やしました。当時はすべてが初めての経験ということもあり、自分の力不足を痛感することも多々ありましたが、そのおかげもあってか、今では制作に長い時間をかける覚悟も割と自然なものになっています。
 もちろん、時間をかけたから良い作品ができるとは限りません。しかし、僕がドキュメンタリーで大事にしているのは、はじめに「これを伝えたい」という明確なテーマが自分の中にあったとしても、撮影対象となる人や現実と向き合う中で、企画時点での理解を何層も更新していくこと。そうして、自分の身体を通じてしか知覚できない、この世界の繊細で複雑な側面を丁寧に掘り下げていくことが、作品に豊かな厚みをもたらすとも言えます。
 逆に言えば、ここにドキュメンタリーの可能性があるのです。自分の思い込みのままに、対象や現実を都合よくコントロールするのではなく、目の前の人や現実との対話から、当初の想定を超えた新たな問いや魅力を発見し、学んでいく。そこではあらゆる状況に柔軟に対応しつつ、目的を見失わないようにするためにも、日頃からさまざまなことに関心を持って勉強するなど自分を鍛える努力も必要でしょう。
 もちろん、人と共同で何かを進める際には、制作意図や大まかなスケジュールを明確にし、プロセスの一つ一つに丁寧な合意を得て、しっかりとした成果に繋げることが大事です。しかしもし関係者の理解が得られるならば、上記のような姿勢で、時間をかけて物事を見つめ、企画時点では見えない、未知の世界を目指してみるのも良いかもしれません。



 ■海子揮一(かいこ・きいち)

 わたしの住む寒風沢(かんぷうざわ)の澄み切った夜空を見上げると、わたしたちがまだ見ることができる世界はごくわずかであることを教えられる。広大な宇宙の広がりに比べて、触れられる世界はあまりにも小さい。古くからわたしたちは科学、宗教、芸術、経済や文化など、点状の「見える世界」の灯火を手がかりに、星座のように自分たちの位置を推し測って生きてきた。それはわたしたちが持つ想像力こそが生存の方法であることの裏付けでもある。
 しかし現代社会では権力をもつ者が作った物語を盲目的に信じることでわたしたちから想像力を奪い、釈迦の説法にある「群盲象を撫でる」のごとく解釈や信条の違いで血を流す有り様を呈している。戦火によって親しんだ風景を破壊された人々が見上げる夜空を映す目に、わたしたちは一体なにを映像で語ることができるのだろうか。
 わたしが映像を作る動機の元には祈りに似た感情が常に湛えられていて、世界の広がりや深さを教えてくれるような風景に出会うと心が動き、撮影が始まる。その行為がたとえ象という無限の宇宙に触れる一人の盲人の錯覚であったとしても、無数の盲人の手が描いた世界のひとつにわたしの作品が加わることになる。もしひとりでも誰かの道標になることができたなら、わたしたちの社会に広がりと深さをもたらすのではないか。そんな希望と願いを織り込みながら物語を仮想することが私の映像表現の大きな主題となっている。
 ゆえに人物と風景の組み合わせから企画と構想が立ち上ることが多い。風景を映像によって描く行為とは人間そのものを映すことに等しい。人間の活動の結果が風景であって、裏を返せば人の介在しない領域に風景は存在しないからだ。風景は生きている人々の背景だけではなく、今はなき風景を形作ってきた無名の人々の痕跡や関係性が投影されている。特に自然が豊かな農村部では、人間の活動だけでなく植生や地形、気候など大きなスケールの構造の上に風景が明確に築かれている。わたしの映像作品にものづくりに関するものが多いのも、人物が周囲の環境から素材を採集して人の用になすものを生み出す(=ブリコラージュ)過程に人間の精神と世界の構造が凝縮されていると感じるからだ。その視点で被写体の前に撮影者の前に立つ時、私はひとりの盲人でありながら、象を狙う冷徹な狩人でありたいと願う。
 その狩人の中に住まう内なる他者、即ち「野生」の存在は、物語を築く大事な視座だと信じている。



 ■村上浩康(むらかみ・ひろやす)

 たいていのドキュメンタリーは、まず撮影対象や題材、テーマ等を決めてから製作に入ると思いますが、私の場合は全く違う方法でアプローチをしていきます。場所から入るのです。
世の中にはいろいろな場所があり、いろいろな営みが行われています。何かのタイミングでたまたまある場所を知り、強く興味を惹かれた時、私は何も決めずそこへ出かけてみます。
そしてそこが面白いと思ったら、次からはカメラを持って赴き、何でもいいから目につくものを撮り始めます。山であれ海であれ公園であれ、とにかくその場の景色や面白いと思った物をどんどん撮っていきます。
そんなことを何週間も続けていると、なぜかその場所にふさわしい、しかるべき人と必ず出会うことになります。その人はその場所に深く関わりながら、人知れず独自の活動を行っており、思いもよらない角度から世界を見つめています。つまり作品の主人公になるべき人と知り合えるのです。
場所だけを決め、そこへ通い続けていると魅力的な被写体に出会える。この一見行き当たりばったりな方法で、私は25年以上ドキュメンタリーを作っています。私はとても運がいいのでしょうか。
確かに我ながら運や出会いに恵まれてきたとは思います。しかしこれを幸運や偶然と呼ぶには、あまりにも頻発し過ぎです。
実はこの世界は驚きの出会いに満ちています。よく目を向ければ、すぐ隣に驚くべき人生を送り、驚くべき形で世の中と関わっている人がたくさん存在しています。そこに気がつけば、もうドキュメンタリーの萌芽を掴んだも同然です。
時に幸運や奇跡と呼ばれるような出会いは、実は身近に存在しています。何もマスコミや世間の関心を集めるような、特別な事象にだけドキュメンタリーの題材を求める必要はありません。身の周りの市井の人々の中にひっそりと原石のように隠れています。いや隠れているのではなく、単に目を向けていないだけなのです。ドキュメンタリーの題材は、製作者の日頃の視点の持ち方で決まります。
どんなに個人的で狭い世界を題材に選んだとしても、それをとことん突き詰めていけば必ず普遍的な問題にぶち当たります。何故なら人間を取り巻くこの世界は、どこを切り取っても問題だらけだからです。
私は自分の暮らしや関心の中で出会った人を撮ってきました。自分がリアルに感じる場所を立脚点に、人生と同じ歩みで作品が生まれていく。それが私にとってのドキュメンタリー製作です。



 ■山田徹(やまだ・とおる)

 ぼくは『新地町の漁師たち』というドキュメンタリー映画を自主制作しました。映画は、東日本大震災と原発事故で被災した福島県新地町の漁師たちの4年半に及ぶ復興の歩みを記録した89分のドキュメントで、2017年に劇場公開しました。
 じつは『新地町の漁師たち』は最後まで企画を立てないまま成り行きで完成させた映画です。企画を立てないまま劇場公開できた映画は稀だと思います。そもそも映画は出資・協力してくれる人たちに見せるための予算確保の企画案が必要です。また映画のストーリーや完成までの制作プロセスを明確にすることも大切です。チーム制作なら尚更です。つまり映画制作は目に見える企画案がなければ始まらないのです。
 ではなぜ『新地町の漁師たち』は完成し、劇場公開ができたのか。大きく分けて二つの理由があります。
 一つはこの映画は一人で、しかも自己資金で制作したからです。取材も撮影も編集も配給も宣伝もすべて一人。もちろん家族や友人、被災地域や映画に共感してくれた方々の応援や支えがあったことは間違いありません。しかし、基本的には一人です。そのため、制作に対して誰も文句は言いませんでした。それゆえに孤独との戦いでした。制作途中でお金は底をつき、生活が厳しくなりました。体力的にも精神的にもキツかったです。
 もう一つは「震災」を記録していたからだと思います。とくに原発事故は事態収束の見通しが立ちません。被災地・被災者の心境や状態は日々刻々と変化していました。撮影のたびに想像以上の出来事と遭遇し、その度に変化が求められました。ドキュメンタリーは真っ白なキャンバスに好きな絵を自由に描けない。言い換えれば、ドキュメンタリーは他者から自由になれない。このことに気が付いてから、ぼくは「映画のための映画制作をする」のではなく「被災地の記録を残すこと」に焦点を当てる映画制作をするようになりました。そこで撮影も編集も成り行きまかせとなり、企画そっちのけの映画制作になったのです。
 これがぼくが企画を考えなかった理由です。幸いにも映画は完成し、映画祭で賞を受賞。劇場公開と国内外での上映会が実現できました。それができたのはひとえに映画を応援してくれた人々の存在です。この方々の支えがなければ映画は「映画」にならず、撮影記録はいまもハードディスク内に眠っていたでしょう。
 振り返ってみれば『新地町の漁師たち』はどう考えても合理的ではない映画制作でした。修行僧のように自分磨きはできましたが「仕事」ではなかったと思います。何が言いたかったかというと、映画制作において「企画案」を作るのは、とても大切だということです。

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 <執筆者プロフィール>

 
■我妻和樹(あがつま・かずき)
1985
年宮城県白石市出身。主な作品に、南三陸町を舞台にした長編ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』『願いと揺らぎ』『千古里の空とマドレーヌ』など。みやぎシネマクラドルでは2015年の立ち上げから代表を務める。令和3年度宮城県芸術選奨新人賞(メディア芸術部門)受賞。

 ■海子揮一(かいこ・きいち)
1970
年宮城県大河原町出身。建築家/ブリコルール/クリエーター。環境とコミュニティをテーマにした建築設計活動の傍ら、映像製作・イベント企画・造形デザインも手掛ける。より自然に近い環境を求めて、2018年より仙台市に隣接する村田町寒風沢の古民家に拠点を置く。

 ■村上浩康(むらかみ・ひろやす)
宮城県仙台市出身。2000年よりドキュメンタリー映画の製作・監督を続けている。主な作品に『流 ながれ』(文部科学大臣賞)『東京干潟』(新藤兼人賞金賞)『蟹の惑星』(文化庁優秀映画)『たまねこ、たまびと』(2023キネマ旬報文化映画ベストテン第3位)など。

 ■山田徹(やまだ・とおる)
東京出身、自由学園卒、映像作家。記録映画作家の羽田澄子監督に師事。東日本大震災後の福島をフィールドに映像制作を行なっている。過去作に映画『新地町の漁師たち』(第3回グリーンイメージ国際環境映像祭・大賞)。現在、映画『あいまいな喪失』(2024年公開予定)を制作中。


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