コラム 2024年05月01日更新

「ドキュメンタリー制作ノート」第2回:撮影交渉


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※この企画は、ドキュメンタリー制作における一つ一つのプロセスについて、テーマごとにみやぎシネマクラドルの作り手が文章を執筆する企画です。2024年度の1年間で以下のテーマについて執筆する予定です。

 

1回:企画・テーマ設定

2回:撮影交渉

3回:撮影準備

4回:撮影

5回:編集

6回:試写(対象への確認を含む)

7回:発表(自主上映会・劇場公開を含む)

8回:完成後の対象との関係

9回:失敗談

 

ドキュメンタリーを制作中の人、これから制作しようと考えている人の参考になれば幸いです。

なお、現在、みやぎシネマクラドルの会員がドキュメンタリーへの思いを自由に執筆する「わたしにとってのドキュメンタリー」も連載中です。そちらも是非ご一読ください。

 

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 「ドキュメンタリー制作ノート」第2回:撮影交渉

 

我妻和樹(あがつま・かずき)

 この世に存在しているドキュメンタリーのほとんどは、現実に生きている人の人生の一部をお借りして作られたものと言っても過言では無いと思います。
 ここで大事なのは、丁寧な合意に基づく、制作者と撮影対象となる人の信頼関係です。
 当たり前ですが、対象は誰かの表現のために都合よく存在しているわけではありません。制作者がその人に惹かれ、直感的に「撮りたい」「伝えたい」と思っても、対象には対象の人生があり、意思があり、制作者はそれを尊重した上で、物事を進めていかなければなりません。
 もちろん、映画制作が対象の望む生き方を邪魔することなく、むしろそれを後押しするような良い影響を与えられればいいなとは思いますが、実際には、何かをお返しするどころか、逆にお世話になることばかりです。
 つまり対象は、本来であれば何の義務もないのに、制作者の思いを温かく受け止め、理解を示し、無償で協力してくれる貴重な存在なのです。
 そこでは、協力してくれる人の善意を裏切らないように、隠し事の無い、丁寧な説明が必要です。何故なら、ドキュメンタリーにおいて、制作者がやりたいことのリスク(別章で後述)をもっとも被る可能性があるのは対象だからです。
 それを分かっていながら、必要な情報を故意に隠したり、対象の意向を無視したりするなど、制作者に都合良く物事を進めるとしたら、それは人の善意を利用した詐欺や搾取と同じことになってしまいます。
 もちろん、何の実績もないうちは、自分に自信が無く、相手に胸の内をぶつけられないということもあると思います。相手が自分よりずっと人生経験のある魅力的な人だったり、自分とは全く異なる価値観で生きていたりする場合はなおさらです。
 しかし自己開示しづらいというのは、そもそも人としての良好な関係が構築できていないことの表れでもあるので、そういう関係性の相手にカメラを向けたとしても、お互いに苦しくなってしまいます。それはのちのち大きなトラブルにも繋がります。
 逆に、自己開示することで、対象の中にもモチベーション(その人なりの価値や魅力)が生まれ、映画という同じ目標、もしくはそれぞれに実現したいことに向かって積極的に手を取り合うパートナーにもなり得ます。
 ですので、もし良好な関係が築けていると感じたら、まずは「この人とより親しくなりたい」という気持ちで、勇気を持って自分の本音を伝えてみる。すべてはそこからと思っています。

 

海子揮一(かいこ・きいち)

 スクリーンに100年前の人物が映し出されている。その人の声や姿、言葉や行動は、映画という物語の中ではキャラクターとして観客の目に残るが、その人の生そのものと切り離されたひとつの幻影でしかない。
 ドキュメンタリー映像の多くは個人を撮影対象とするため、その個人に撮影や記録のお許しをいただくために撮影の意図、作品のコンセプト、公開方法を必ず説明し、了解を得るのが原則だが、それは被写体となる人とどう信頼関係を築き、コミュニケーションを取れるかが前提となる。しかし基本的には、自分の姿が他者に記録され、恣意的に編集されてしまうのは迷惑でしかない。それはその方の人格権が他者の著作物に置き換わってしまうことへの恐れもあるだろう。カメラを向けることの暴力性のひとつには、個人の全人格をかけた生き様という表現や権利を他者が奪う危険性というのが存在する。
 これは撮影した方が撮影後に故人となられた時に強く実感する。肖像権やパブリシティー権などの人格権は、日本国憲法第13条にある個人の尊厳と幸福追求権に基づく基本的人権だが、その権利は生きている人だけが対象であって、死者にはない。文字通り「死人に口なし」なのだ。対して作品や記録は半永久的に残る。加えて著作物には著作権という著作者の死後70年は保護される。さらには財産権が生じ、売買の対象にもなる。このように取材者と撮影者の関係とは、片方は儚く、片方は不朽という不平等な土台の上に存在している。この関係を乗り越えるにはどうすればよいのか。
 私たちは個人の行動や発言、容姿などが他者への表現行為でもあることをあまり意識せずに生きている。また同様に、個人の領域と公的な領域は不可分であり、どんな人でも社会性を有している存在であることも無自覚であることが多い。映像の撮影とは、一方的な権利の行使と受忍という関係ではなく、カメラを鏡として、被写体の生き様こそが表現そのものであるということを、撮影という光を当てることで明らかにするチャンスでもあるのではないか。表現者としての被写体との共作という関係を結ぶことが、ドキュメンタリー映像を作品として成立させるための大切な要素であり、撮影交渉をする側の姿勢であるのではないだろうか。
 映像を作った作家もやがてはこの世から消える。スクリーンに残るのは撮影者と被写体との間に生まれる時間であり、その人の生を肯定する眼差しの軌跡である。

 

村上浩康(むらかみ・ひろやす)

 ドキュメンタリー製作をする上で最初のハードルが取材対象者への撮影交渉です。私の場合、市井のごく普通の人に取材する場合が多く、交渉をすると大抵は「どうして私のドキュメンタリーを作るの?」「私でドキュメンタリーになるの?」と困惑されることがしばしばです。
 私自身も誰かに「ドキュメンタリーを撮らせて下さい」と突然言われたら、自分がその対象になるとは思えないし、何かの詐欺ではないのかと勘ぐってしまうに違いありません。普通に暮らす多くの人々は自分がドキュメンタリーに撮られるとは思っていません。しかし製作する側とすれば、その人に魅力があり、その人を取り巻く状況や環境が何かを訴えかけてくるから取材したいと思うわけです。
 つまり製作者と取材対象者の間には大きな認識の違いがあるのです。これを乗り越え、納得して取材に応じて貰うにはどうしたらいいのでしょうか。
 まず当然ながら「何故あなたを撮りたいのか」を丁寧に説明する必要があります。真摯にお願いをすれば快く承諾して下さる人もいますが、難色を示す人もいます。しかしそこで諦めず何度も粘り強くお願いしていくと、事実上は根負けという事もあるのでしょうが、最終的に受け入れて下さる方が殆どです。それでも頑なに拒む人もいて、そうなると個人の意思を無視してまで撮る権利はないので諦めるしかありません。
 長年これを繰り返していると、交渉前から「この人は承諾を渋るだろう」と分かる場合があります。そんな時、私は直接的ではない変化球のような交渉を行います。その人の周辺取材から話を持ちかけるのです。
 その人の仕事、あるいは個人的に行っている活動、ボランティア等、いわゆる公的な部分について取材を申し込みます。そしてその人が世間に訴えかけたい事や語りたいことを取材の主眼に据えます。自分本位ではなく、取材者と被取材者が共通の目的を持てるような骨子を組み立てるのです。
 こうして撮影を進めていくと関係性が深まり、やがてその人は私的な側面を披露してくれるようになります。つまり人間関係が築かれるのです。こうなった時に初めて「あなた自身のドキュメンタリーを作りたい」とお願いします。
 大切なのは、この過程で相手に対して自分自身も開示していくことです。お互いに性格や考え方、人間性がわかった上で作品づくりをスタートさせるのです。
 取材交渉は相手を尊重し、関係性を深めながら進めることが大切だと思います。

 

山田徹(やまだ・とおる)

 ドキュメンタリー制作において、ぼくが最も重要視しているのは被写体との交渉です。
 人々のリアルな日常に入り込み、その世界を記録するドキュメンタリーは、完全に演出された世界で構成された劇映画とは異なる「生き物」の記録と言えます。制作者は、家族の日常、人々の喜怒哀楽、言葉や行動に表れない思いや記憶、神聖な場所での祈りなど、様々な場面を被写体の許可を得て撮影し、映画という時間芸術に形象化させます。尊厳やプライバシーに関わるその繊細な出来事をどのように記録し、映画で表現するかは、被写体との交渉次第です。
 撮影から話は飛びますが、映画が完成して一般公開が始まると、制作者は被写体との関係が「一生のお付き合い」に発展します。映画が完成して「さようなら」とはならないのです。
 映画制作に対する双方の積極的な態度は、両者でその社会的・普遍的価値を共有していたとしても、必ずしも恒常的に一致しないと考えるのが自然です。被写体となった人々は制作者とは異なる現在の時間を生きており、時間が経過すれば人や社会が変わるように、被写体も映画への態度が変化します。映画の公開権利は一般的に制作者が持ちますが、その映画は被写体の人生の痕跡でもあります。制作者は映画の公開後も被写体の現在の声を聞くことを怠ることなく、被写体の人権や人格を尊重・保護する責務があります。
 だからこそ交渉は難しい。被写体に配慮して撮影のハードルを高く設定し過ぎると、映画表現の可能性を自ら制限し、下手をしたら何も撮れずに終わることもあります。倫理的な配慮は重要ですが、状況に応じて勢いで行動・撮影することも必要になる場面があります。その判断はcase-by-caseで制作者の技術と経験に依拠しますが、それは吉と出るか凶と出るかの無責任で出鱈目な博打的な行動ではなく、明確な動機と信念、そして最後の最後まで被写体と向き合う誠実な態度と責任意識が必要不可欠です。
 映像とは不思議なもので、意図や信念がないまま記録された映像は、大抵、その時の自分の心境を反映した鏡のようになります。特にディレクターズカメラの場合、その傾向が強いです。
 続きは撮影論で述べる予定ですが、映像制作においては被写体との良好な関係構築が非常に重要です。

 

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 <執筆者プロフィール> 

我妻和樹(あがつま・かずき)
1985年宮城県白石市出身。主な作品に、南三陸町を舞台にした長編ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』『願いと揺らぎ』『千古里の空とマドレーヌ』など。みやぎシネマクラドルでは2015年の立ち上げから代表を務める。令和3年度宮城県芸術選奨新人賞(メディア芸術部門)受賞。

 

海子揮一(かいこ・きいち)
1970年宮城県大河原町出身。建築家/ブリコルール/クリエーター。環境とコミュニティをテーマにした建築設計活動の傍ら、映像製作・イベント企画・造形デザインも手掛ける。より自然に近い環境を求めて、2018年より仙台市に隣接する村田町寒風沢の古民家に拠点を置く。

 

村上浩康(むらかみ・ひろやす)
宮城県仙台市出身。2000年よりドキュメンタリー映画の製作・監督を続けている。主な作品に『流 ながれ』(文部科学大臣賞)『東京干潟』(新藤兼人賞金賞)『蟹の惑星』(文化庁優秀映画)『たまねこ、たまびと』(2023キネマ旬報文化映画ベストテン第3位)など。

 

山田徹(やまだ・とおる)
東京出身、自由学園卒、映像作家。記録映画作家の羽田澄子監督に師事。東日本大震災後の福島をフィールドに映像制作を行なっている。過去作に映画『新地町の漁師たち』(第3回グリーンイメージ国際環境映像祭・大賞)。現在、映画『あいまいな喪失』(2024年公開予定)を制作中。


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