コラム 2024年05月25日更新

会員寄稿文「わたしにとってのドキュメンタリー」Vol.6 鄺知硯


ドキュメンタリー 鄺知硯さん.jpg

※この企画は、みやぎシネマクラドルの活動をより理解していただくことを目的として、「わたしにとってのドキュメンタリー」をテーマに会員が自由に文章を書く企画です。

 

**********

 

2018年、仙台市中心部にある桜井薬局セントラルホールで、我妻和樹監督のドキュメンタリー映画『願いと揺らぎ』(2017年制作)を鑑賞しました。これまでナショナルジオグラフィックの映画や歴史人物のドキュメンタリーを数多く見てきた私ですが、この映画には何か特別なものがあると直感で感じ、強く惹かれました。
「特別な何か」とは何だろう?この疑問を抱きながら、その後の数年間で私は、ドキュメンタリーを作る人たち、観る人たち、そしてドキュメンタリーに登場する人たちに実際に会うことで、私の中でこの問題に関する理解が少しずつ深まっていきました。
去年、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2023」で、中国の映画作家章梦奇(ジャン・モンチー)監督の『自画像:47KM 2020』(2023年制作)を鑑賞しました。上映後の質疑応答では、映画観客から「映画の中の村での生活はどのようなものか?」、「映画に登場した少女、方紅(ファン・ホン)のその後はどうなったのか?」といった質問が多数寄せられました。最後の質問に対して、監督は「方紅は大学に合格した」と回答し、その答えに観客は安堵の表情を見せました。
映画手法や芸術実践に関する議論よりも、このやりとりが長い間私の心に残っています。これは、ドキュメンタリーが持つ、私自身以外の「誰か」への純粋な関心を喚起する力を示しているからだと思います。
映画研究者、Dirk Eitzen(ダーク・エイツェン)は2005年の論文で「ドキュメンタリーは私たちに不思議な感動を与える」(2005:191) と述べています。Eitzenによると「ドキュメンタリーの中で誰かが泣いているのを見たとき」、我々観客は、「それが(俳優ではなく)、本物の人である」(2005:195)とのことを、身体と感情のレベルで認知することができるのです。
Eitzenの啓発を受けて、私は自分のドキュメンタリー鑑賞を「他者との出会い」と考えるようになりました。映画館や他の観客と共有する上映空間で、私自身の身体的、感情的なレベルで、まったく異なる他者が経験した身振り、感情、記憶を受け止めながら、スクリーンに映る「誰か」と出会い続けます。
今日では、私たちの生活は新世代の技術、特にバーチャルリアリティに囲まれており、「私」が「他者」といかに出会うかは常に熟考されるテーマだと思います。
そして、ドキュメンタリーのおかげで、私はより多くの人々と出会えるだけでなく、自分自身とも出会うことができるようになりました。
これがわたしにとってのドキュメンタリーの意味です。

 

 

 

[文献]
Eitzen, Dirk, 2005, "Documentary's Peculiar Appeals," Joseph D. Anderson and Barbara Fisher Anderson eds., Moving image theory: ecological considerations, Carbondale: Southern Illinois University Press, 2005, 183-99.

 

**********

 

鄺知硯(コウ・チケン)

所属:東北大学国際文化研究科博士後期課程
専攻分野:映画学、ドキュメンタリー映画


x facebook Youtube