コラム 2024年07月18日更新

「ドキュメンタリー制作ノート」第4回:撮影


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※この企画は、ドキュメンタリー制作における一つ一つのプロセスについて、テーマごとにみやぎシネマクラドルの作り手が文章を執筆する企画です。2024年度の1年間で以下のテーマについて執筆する予定です。

 

1回:企画・テーマ設定

2回:撮影交渉

3回:撮影準備

4回:撮影

5回:編集

6回:試写(対象への確認を含む)

7回:発表(自主上映会・劇場公開を含む)

8回:完成後の対象との関係

9回:失敗談

 

ドキュメンタリーを制作中の人、これから制作しようと考えている人の参考になれば幸いです。

なお、現在、みやぎシネマクラドルの会員がドキュメンタリーへの思いを自由に執筆する「わたしにとってのドキュメンタリー」も連載中です。そちらも是非ご一読ください。

 

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 「ドキュメンタリー制作ノート」第4回:撮影

 

我妻和樹(あがつま・かずき)

 作り手と対象との関係性も距離感も、撮影に対するテンションも、人や作品によってさまざまです。

 例えば、作り手と対象が、お互いに共通する「伝えられるべきこと」を形にするために思いを擦り合わせ、その目標に向かって協同関係を結ぶような場合もあれば、対象の中でとくに積極的に伝えたいことがなく、作り手の思いや作品のテーマに必ずしも全幅の理解がなくとも、大らかに撮影に協力してくれるという場合も往々にしてあります。

 どのような状態がベストかというのは誰にも分かりません。何故なら、その変化の軌跡は作品によってすべて異なり、唯一無二だからです。

 ここで大事なのは、なるべくテーマにこだわらず、同じ時間を過ごす中で、その人のあるがままを記録していくことです。撮影前に対象の人となりや生活を十分見つめたつもりでも、人は変化していくので、描くべきこともどんどん変わっていくかもしれません。

 とはいえ、その人のすべてを描くことなど不可能です。そこではその人のどのような側面を取り上げ、社会に問いかけるのかという目標がなければ、撮影も散漫なものになってしまいます。

 そこで、僕は大きく2つの軸に沿って撮影を進めていきます。

 一つはテーマに沿った側面を掘り下げていくこと。もう一つはその人の豊かな面、すなわち日常を見つめていくこと。

 これを長い時間をかけて追いかけていく中で、断片的だった素材が線と線で結び付き、やがてさまざまな線が交差し合い、立体化していきます。

 そして面と面が響き合い、ある時期を過ぎると、描くべきものの輪郭がぼんやりと浮かび上がってきます。不思議なもので、作り手には何となく直感で、「これはちゃんと映画になる」と思える瞬間が来るのです。

 ここまで来ると、編集を進めながら、作品のテーマをより深めるための明確な意図に沿った撮影も可能になってきます。

 そしてもう一つ、撮影で大事なのは、最初の同意がすべての同意ではないということです。

 当然ながら、対象だからといって、誰もが何でも曝け出せる用意ができているわけではありません。人によっては「自分が映ることで誰かの役に立てるなら」という使命感から、少し無理をして撮影を引き受けてくれる場合もあります。そこでは、その人が映画の中で見せる顔を選ぶ自由も必要になってきます。

 相手に大きな負担をかけてまでリアリティを追求するのは暴力である。撮影では、これを常に心がけるのが大事と思っています。

 

海子揮一(かいこ・きいち)

 インタビューした人物の思わぬ言葉や表情。イベント会場の地面を歩く蟻の列。こどもたちの独創さと躍動する体。冬場の作業場に漂う焚き火の煙。名も知らぬまま咲き散る野の花の彩り...。

 どれだけ事前に下見や予習をしていても、実際の撮影では想定外のことが必ず起こる。言い換えれば撮影とは、静的なイメージや物語の均衡を壊すための想定を超える「何か」を記録することなのかもしれない。それは単に撮影時のハプニングを期待している、ということではない。

 カメラの接眼レンズ側に立つというのは、構造上は撮影対象に対して支配的な位置に立つということだ。何を撮るのか、撮らないかは撮影者が権限を握っている。被写体の内実を無視し、意図された物語のために表層のイメージだけを奪い取ることも可能であり、それは刃物や火器と同じ潜在的な暴力を秘めた側面を持っている。しかし何が起こるかわからない状況の主導権は撮影される側の手の中にある。ドキュメンタリーの撮影の現場では「想定外の何かを待つ」という姿勢こそが、それらの危険性に傾かないための担保となるのではないか。ドキュメンタリーという映画の形式には、想定外の何かをカメラに収めることで撮影対象を単なる客体にしない、という暗黙のバランスがぎりぎりに成り立つように思う。

 ただ撮影という行為は暴力ばかりではない。たとえば猟師が動物を狩ることは暴力だけだろうか?私たちを取り巻くこの世界は圧倒的に雄弁で美しく、広がりと深さは果てがない。猟師がその武器を通じて獲物と対峙するということは、見方を逆転すれば、広大な世界の具象(=他者)である一部に焦点を絞り、血の通ったつながりをつくる行為なのだ。世界はシュレーディンガーの猫のように観察によってありのままではなくなるが、箱を開けずして猫の存在を知ることは難しい。

 「この世界で起きる出来事の99%は誰の目にも記憶にも残らず消え去ってしまうのよ」

1991年共産党によるクーデターを目撃したモスクワ市民のこの声は、30年後の今でも本質的には大きく変わっただろうか。人とテクノロジーの位置と距離は変わったかもしれないが、日々変わり続ける世界との新しい関係は常に求められている。

 想定外の何かを待ち、カメラを通して新しい世界を発見すること。つまり撮影とは古びた見方を世界に当てはめて抽象的な存在にすることではなく、発見した世界との間でオリジナルな関係を個々に発明していくことなのだ。

 

村上浩康(むらかみ・ひろやす)

 私の場合、ドキュメンタリー撮影で最も重要視しているのがインタビューです。私は基本的にナレーションを用いないので、取材した人達の言葉が映画の主な構成要素になります。そこでインタビューについて私が実践している事をいくつか列記します。

  • 同じ話を何度も聞く

 一般的に、取材対象へのインタビューは一度きりだったり、また同じ人を追い続ける場合も、前に聞いた話にはもう触れないのが普通です。しかし私は同じ人に同じ質問を何度もします。そういう機会を出来るだけ作るようにします。同じ話を何度も聞かれるのを人は嫌がるというイメージがあるかもしれませんが、間を置いて、「あの時、聞き足りなかったのでもう一度お話し願えないでしょうか」と投げかけるのです。

 再インタビューでは、既にある程度のことは知っているので、より深く話に切り込んでいけます。また前回の取材で新たに生じた疑問についても聞くことができます。

  • 相手の話したいことから聞く

 人には話したいことと話したくないことがあります。自分が求めているのは、もしかしたら相手が話したくないことかもしれません。まずは相手が話しやすい角度から切り出していくことが大切です。

 人には語りたい話、あるいは語りやすい話が必ずあります。人はあまり自分のことについて話したがりません。むしろ自分と関係のない、自分が知り得る事実、興味のあることや得意分野の知識を披露する時に夢中になって話します。相手から話を引き出す場合、こういう話から入り、まずは興に乗ってもらうことが大切です。そしてその勢いから自然に本題へ入っていくと、ともすれば話しにくいことでも話してくれることがあります。但し、決して無理強いをするべきではありません。

  • ふさわしい場所で聞く

 映像が捉えているものは人間だけではありません。人間の背景に映る環境も同時に記録しています。映像を見る人は、その人をとりまく環境も無意識に知覚しています。なので背景はとても重要です。インタビュー撮影では、場所をどこに設定するかで映像にもたらされるインパクトが格段に変わってきます。その話を聞くのに最もふさわしい場所を選ぶことが大切です。

 そこで活きてくるのが、①の「同じ話を何度も聞く」です。既に聞こうとする話の内容を把握していれば、その話をどこで聞くのが一番効果的なのか判るはずです。

 一口にインタビュー撮影といっても、様々な工夫と配慮が必要だと思います。

 

山田徹(やまだ・とおる)

 ドキュメンタリーの撮影では、現場の情報を収集する観察力と、それをストーリーに変換する技術力と演出力が不可欠です。被写体が生身の人間である場合、彼らに対する配慮、理解、そして共感が特に求められます。

 ディレクターズカメラの場合、これらの要素に一層の集中力と工夫が必要です。しかし、すべての要素に完璧に対応するのは現実的ではありません。撮影準備で築いた計画やリサーチ、ストーリーラインがあったとしても、ディレクターは被写体との対応で手いっぱいになりがちです。これにより、カメラとマイクの操作が疎かになり、フォーカスがぼやけてしまいます。また無駄なカットが増えることで撮影現場への負担も大きくなります。特に、一人での制作は主観性が強まり、何でも撮った気になってしまうことがよくあります。日記調の主観的なドキュメンタリーでない限り、このような主観性の問題は特に顕著です。

 もしカメラマンや録音技師が別にいたらどうなるでしょうか。撮影のクオリティはもちろん、主観と客観のバランス、作品の生産性が格段に向上するはずです。やはり、ドキュメンタリー制作はチームワークが理想的です。

 しかし、資金不足でチーム編成が難しい場合は、ディレクターズカメラに特化した制作アプローチを取るしかありません。ここで重要なのが「編集と撮影の往還」です。

 編集と撮影の往還とは、撮影と編集の作業を並行して進めることを指します。ディレクターズカメラでのドキュメンタリー制作では、現場での状況をすべて把握しながら高品質な撮影を行うのは難しいため、撮影した映像を逐次編集し、不足しているシーンや新たに必要なショットを特定して追加撮影を行うことが重要です。このプロセスを通じて、ドキュメンタリーのストーリーラインがより明確になります。またキャラクターや物語の深みが増し、表現の可能性も広がります。

 ディレクターズカメラでのドキュメンタリー制作は、一人で多くの役割をこなす挑戦です。その中で培われるスキルや経験は非常に貴重ですが、孤独な戦いに打ち勝つための忍耐力や信念、正しい倫理観と冷静な判断能力が必要です。

 ドキュメンタリーはチームワークで制作することが豊かな作品を生む方法だと僕は考えます。

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 <執筆者プロフィール>

 

我妻和樹(あがつま・かずき)

1985年宮城県白石市出身。主な作品に、南三陸町を舞台にした長編ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』『願いと揺らぎ』『千古里の空とマドレーヌ』など。みやぎシネマクラドルでは2015年の立ち上げから代表を務める。令和3年度宮城県芸術選奨新人賞(メディア芸術部門)受賞。

 

海子揮一(かいこ・きいち)

1970年宮城県大河原町出身。建築家/ブリコルール/クリエーター。環境とコミュニティをテーマにした建築設計活動の傍ら、映像製作・イベント企画・造形デザインも手掛ける。より自然に近い環境を求めて、2018年より仙台市に隣接する村田町寒風沢の古民家に拠点を置く。

 

村上浩康(むらかみ・ひろやす)

宮城県仙台市出身。2000年よりドキュメンタリー映画の製作・監督を続けている。主な作品に『流 ながれ』(文部科学大臣賞)『東京干潟』(新藤兼人賞金賞)『蟹の惑星』(文化庁優秀映画)『たまねこ、たまびと』(2023キネマ旬報文化映画ベストテン第3位)など。新作『あなたのおみとり』を2024年劇場公開予定。

 

山田徹(やまだ・とおる)

東京出身、自由学園卒、映像作家。記録映画作家の羽田澄子監督に師事。東日本大震災後の福島をフィールドに映像制作を行なっている。過去作に映画『新地町の漁師たち』(第3回グリーンイメージ国際環境映像祭・大賞)。現在、映画『あいまいな喪失』(2024年公開予定)を制作中。


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