コラム 2025年02月15日更新

「ドキュメンタリー制作ノート」第10回:フリーテーマ


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※この企画は、ドキュメンタリー制作における一つ一つのプロセスについて、テーマごとにみやぎシネマクラドルの作り手が文章を執筆する企画です。2024年度の1年間で以下のテーマについて執筆する予定です。

 

1回:企画・テーマ設定

2回:撮影交渉

3回:撮影準備

4回:撮影

5回:編集

6回:試写(対象への確認を含む)

7回:発表(自主上映会・劇場公開を含む)

8回:完成後の対象との関係

9回:失敗談

10回:フリーテーマ

 

ドキュメンタリーを制作中の人、これから制作しようと考えている人の参考になれば幸いです。

なお、現在、みやぎシネマクラドルの会員がドキュメンタリーへの思いを自由に執筆する「わたしにとってのドキュメンタリー」も連載中です。そちらも是非ご一読ください。

 

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 「ドキュメンタリー制作ノート」第10回:フリーテーマ

 

我妻和樹(あがつま・かずき)

 僕はこれまでの連載の中で、テクニカルな面よりも作り手の倫理的な面を重視して文章を書いてきました。どんな映像論も作家論も、撮影対象への敬意(人権や尊厳を守ること)なくしては成り立たないため、いついかなるときもそれを忘れないでいたいと思うからです。

 それだけ、人を記録し表現するということは、対象の人格と密接に関わるデリケートな行為であり、それが対象の生活や人生を脅かすようなことがあってはならないということを、描く側の人間は常に念頭に置く必要があると僕は考えています。

 とくに、僕を含めて、作り手はよく「覚悟を持って」「葛藤して」等自分の努力ばかりを強調しがちですが、実際のところ、描かれる側の人からすればそんなことは二の次で、自分の意思をちゃんと尊重してもらえるかどうかが何より重要なのではないでしょうか。だからこそ、これまで書いてきたように、プロセスの一つ一つに丁寧な合意が必要になるのだと思います。

 こうした描く側の特権性や加害性を意識した上で、表現が対象から奪う暴力として機能するのではなく、互いにより良く生きるための方法として活用されることが、関わる人たちの人生(あるいは対象となる地域の未来)にも何かプラスのものをもたらすのではないかと僕は考えます。それは決して、作り手が最初から折れて対象に迎合しろという話ではありません。自分なりの主張やまなざしを持ち、ときにせめぎ合いながら、現実と対話する姿勢が必要ということです。

 そして、僕自身はこのような「対象とともに生きることの延長上に、学び、変化しながら生まれる表現」にこそ、ドキュメンタリーの強みと可能性があると信じて、これまで映画を作ってきました。

 正直、僕自身、ドキュメンタリーを作り続けることは限界と感じることもたくさんあります。それでも続けたいと思うのは、対象との間に紡がれる唯一無二の物語が、「この世にたしかに存在したほんとうのこと」として、多くの人と分かち合える記憶(歴史)となっていくことに、奇跡的なものを感じるからなのかなと思います。

 同時に、ドキュメンタリーがとても難しい表現だからこそ、同じように悩みながら、止むに止まれぬ気持ちで普段見過ごされている世界や人の生き方と真摯に向き合っている作り手がいることを知ると、とても励みになります。

 そのようなまだ見ぬ作り手と、今回の連載を通して何か通じ合えるものがあったなら、僕は嬉しいです。

 

村上浩康(むらかみ・ひろやす)

 連載の最後にあたって、ドキュメンタリー映像製作について私が考えていることを記します。それはドキュメンタリーの作り方について、フィクションと対比した時に感じる特色についてです。

 フィクションとノンフィクションの間には、創作上いろいろな相違がありますが、私が考える特徴的な違いは、主人公をはじめ作品に登場する人々の内面を、製作者がわかっていて作るのか、わかっていないで作るのかということです。

 フィクションの場合、脚本家や監督、俳優たちが協力して作品中の登場人物を創り上げていきます。なので製作者たちは登場人物の内面(思考や感情など)を把握して、執筆や演出や演技をしなくてはなりません。そこに大きな創造性が発揮されます。

 反対にドキュメンタリーの場合は現実に存在する人間を被写体にするので、その人の内面を製作者が作り上げることはそもそもできません。製作者は被写体の内面を推し測り、時には共感したり、あるいは反発したりしながら撮影を進めるしかなく、その人が本当に考えていることを完全には把握できません。私はこの点がドキュメンタリーのいいところだと思います。

 つまりドキュメンタリー製作とは、ある人の内面を撮影しながら、それを自分が探っていく過程を記録することなのです。相手を知ろうとするコミュニケーションの積み重ねがドキュメンタリーの根幹を支えています。

 これは何も人間だけにあてはまることではなく、対象が動物でも、事件でも、社会問題でも同じで、題材に対しての理解の過程が内包されるのがドキュメンタリーだと思います。すでに想定済みのものを撮るのではなく、あらかじめ主張したいことを綴るのではなく、知っているつもりになって代弁するのではなく、対象をつぶさに観察しながら、その内面を洞察し、なおかつ結論を急がず探求を続ける。

 この過程が作品からにじみ出ることで、観る人もまた疑似体験として対象へ興味を向けることが出来て、その人(あるいは事)と出会っていくのです。この出会いが観る人に何かしらの意味をもたらすことができたなら、ドキュメンタリーは一つの役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。

 製作者と対象との出会いから生まれたものが、観る人との新たな出会いを結んでいく。これこそがドキュメンタリーの本質だと私は考えます。

 

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 <執筆者プロフィール>

 

我妻和樹(あがつま・かずき)

1985年宮城県白石市出身。主な作品に、南三陸町を舞台にした長編ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』『願いと揺らぎ』『千古里の空とマドレーヌ』など。みやぎシネマクラドルでは2015年の立ち上げから代表を務める。令和3年度宮城県芸術選奨新人賞(メディア芸術部門)受賞。

 

村上浩康(むらかみ・ひろやす)

宮城県仙台市出身。2000年よりドキュメンタリー映画の製作・監督を続けている。主な作品に『流 ながれ』(文部科学大臣賞)『東京干潟』(新藤兼人賞金賞)『蟹の惑星』(文化庁優秀映画)『たまねこ、たまびと』(2023キネマ旬報文化映画ベストテン第3位)など。新作『あなたのおみとり』を2024年劇場公開予定。


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