2023
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コラム 2024年06月10日更新
【結婚指輪エッセイ・その3】結婚指輪を外してみたら
長い間、結婚指輪なんて自分とは無縁のものだと思っていた。
僕は、いわゆるトランスジェンダーの当事者だ。生まれたときの性別は女の子だったが、物心ついた頃から、自分の身体の性別や女の子らしいものをあてがわれることがとても嫌だった。「性同一性障害」という診断名ができて性別が変更できるようになったのは僕が大人になってからの話だ。
戸籍上同性の恋人がいた際に、ペアリングは購入したことがある。僕にとってそれは、互いがパートナーだということを実感するためのアイテムでもあったが、それ以上に、デートでカップル感を演出するための、言ってしまえばちょっとミーハーなグッズだったのだ。
もっぱら二人で出かけるときに身につけて、普段の生活では外していた。一応女性として生活していたので、周囲から「彼氏でもできたのか」などと訊かれたら面倒だからだ。
さて、紆余曲折は省略するが、あるとき一緒に暮らしていたパートナーの体調不良をきっかけに法的に結婚することを決意し、タイで性別適合手術を受けた(当時は戸籍の性別変更のために性別適合手術が必須だった)。
性別変更を終えて先方の実家への"ご挨拶"を済ませ、婚姻届だけを先に出したが、お世話になった人たちに報告がしたくて、改めて披露宴のようなパーティーをすることにした。
そのパーティーよりも前に、ドレスや着物での写真撮影をする「前撮り」があった。その前撮りまでに結婚指輪を用意することになり、急ぎお手頃な価格のものをそろえているブランド直営店にパートナーと出かけた。身体のベースが女性だから、男性用のサイズが合わなくて「バレるのでは」と冷や汗をかいたが、特別訊かれたりはせずに女性用のラインナップから作成してもらうことになり、何とか無事に結婚指輪を手に入れることができた。
チャペルでの撮影の際に、結婚指輪を交換して互いの左の薬指にはめた。そのときはちょっと感慨深かったが、撮影もパーティーも終えて日常生活に戻ると、そのうち指輪をしているのが当たり前になり、いつの間にか馴染んでいった。
それ以来、僕はほぼ結婚指輪をつけっぱなしだった。パートナーは仕事柄外していることが多かったが、それは別段気にならなかった。結婚という制度が目には見えなくても確かに効力を持つのと同じように、それはいつも目の前になかったとしても、「約束の象徴」として持ってさえいればいいものだと思っていた。
まぁ僕の方は仕事に差し支えないし、邪魔でもないし、外さなければならない理由はない。何となく、僕は指輪をしたまま毎日の生活を続けていた。
ところが、2023年の秋、転機が訪れる。
結婚して、もうすぐ10年。新型コロナウイルスの流行による自粛生活をきっかけに体重が増え続けていた僕は、ふと左手の薬指に異変を感じた。いや、指輪を外しにくくなってきたなとは思っていたのだが、何もしていないときでも少し痛みを感じることが出てきたのだ。
調べてみると、どうやら指輪がきつくなったせいらしい。そりゃ体重も増えれば指だって太くなるよなと、一念発起してダイエットをすればいいのだが、「たしか一回はお直し無料だったな」と思い出した僕は、自分ではなく指輪のサイズの方を変更することにした。
購入したお店は地元から撤退していたのでメーカーに直接問い合わせすると、お直しの内容を記入して保証書と一緒に送れば修理してくれるという。
痛みを感じるようになったときから既に指輪は外していたが、忙しいからと送るのをずるずると後回しにした結果、修理期間と合わせて5ヶ月くらい結婚指輪をせずに生活することになった。
持ってさえいればいいと思っていた結婚指輪だったが、いざ外して生活してみると、思いがけず落ち着かない場面に遭遇した。
特に、女性と接するときである。
おそらく一般男性に見えるであろう自分は、仕事でも普段の生活でも、接する女性になるべく不安や不快な思いをさせないようにしなければとどこかで思っている。生まれながらの男性ではなくても、相手の女性から見たら「男性」なのだから。
そこで気付いた。僕は、結婚指輪に頼っていたのだと。
例えば居酒屋なんかで女性グループで飲んでいると、隣の席から知らない男性たちが声を掛けてきたり。結婚式の二次会で新郎の友人の独身男性が新婦の友人女性たちのところに来て、自分アピールをし始めたり、次回に繋げようとしたり。パートナーの有無をさりげなくチェックされたり。
それらは、僕が女性として生活していた頃に、身をもって体験したことだ。
声を掛けてくる側にとっては貴重な出会いの場なのだろうが、女性たちの中にはそれを嫌がる人が少なくなかった。もちろん僕も嫌だった。そういう体験があったから、独身の男性が女性と接するときは特に、距離感に気をつけなければならないと感じているのだ。
僕は仕事柄、女性のお客さんと二人きりになることもある。結婚指輪をせずに接客していると、距離の取り方に迷って緊張してしまう自分がいた。僕は知らず知らず結婚指輪に「既婚者ですよ」「パートナーがいますよ」というメッセージを代弁してもらって、多少なりと相手が警戒しなくて済むような雰囲気をつくっていたわけだ。なんて便利なのだろう。
それだけではない。僕は普段自分がトランスジェンダーであることを伏せているが、プライバシーが守られる場では、LGBTQについての研修会などで当事者としてお話しすることがたまにある。その際にも、結婚指輪に頼っている部分があると気付いた。
世の多数派の人たちが利用できる、結婚という制度の枠組みの中に自分も入っていることで、受け入れられやすいように感じているのだ。
多数決を是とする時代に育った僕にとって、多数派であることは、肯定される安心感を伴う。逆に言えば、少数派であるということは、それだけで否定されるという、大きな不安を抱えることにもなる。
結婚指輪は、少数派である僕を部分的に多数派に見せて、安心させてくれるものでもあったのだ。
もはや僕にとって、結婚指輪は単なる「約束の象徴」ではなかった。タンスにしまっておいていいものではなかった。もう手放せない便利アイテムであり、肌身離さず身につけていたいお守りなのである。
こんなに依存性の高いものだとは、チャペルで指輪を交換したあの日には思いもしなかった。
年が明けて、ようやく修理が終わった結婚指輪が返ってきた。磨き直され、一回りサイズアップした指輪。裏側の刻印を見る。間違いなく僕のものだ。
ほっとして、再び左手の薬指にはめる。ああ、これだよこれ。サイズもちょうどいい。やっと落ち着いた。もう相手にどう思われるかいちいち不安に思わなくていい。心が軽くなり、ウキウキすらした。
そして同時に思う。僕のこの感覚は、僕が受けてきた教育や育った環境によって与えられ、無意識に身についてきたものだ。それは本当は、すごく不自由なことなのではないかと。
結婚も、結婚指輪も、愛する人とのあり方は、ひとそれぞれの価値観で選べたらいい。これがないと生きづらいなんて思わなくていいようになるのが、一番の理想なのだ。
僕はそんな風に思う。あなたは、どうだろうか。
【文:創(そう)】40代男性、青森県在住。