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プロジェクトリスト | 民話 声の図書室

2013年08月23日更新 報告 【レポート】民話ゆうわ座 第一回「かちかちやま」

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■ 日時:2013 年 6 月 22 日(土)13:00−15:30
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 主催:せんだいメディアテーク、みやぎ民話の会「民話 声の図書室」プロジェクトチーム
(参考:https://www.smt.jp/projects/minwa/2013/06/1.html) 



* * *

 

(1)開会にあたって 小田嶋利江

 
民話の深い森に分け入って

遠いむかしの先祖から今ここにいるわたしたちまで、次々と語り継がれてきたたくさんの物語、それらを、わたしたちは「民話」と呼んでいます。そうした民話の世界は、ほんとうに深い森のように見えます。

いろいろな樹・獣・鳥・虫・草・石などが、あらわれたり、かくれたりして、奥深くはかりしれない民話の森。その中のどの話をとりあげても、いままで知らなかった、思いもよらない、いくつもの話の顔に出会うことができます。わたしたちまで語り継いでくれた多くの人々が、さまざまなことを語りこめてきたからなのでしょうね。

ですから今日の集いは、いまここに集まってくださった、みなさんとわたしたちが、そうした民話の深い森に分け入って、ともに歩いてみようとする、そんな試みの場です。

 

語りの場の姿にならって

それを、『民話 ゆうわ座―話に遊び 輪を結び 座に集う―』と名づけました。語り伝えられてきた物語は、そのときどきの人々によって、聞き語り考えられて、伝えられてきました。この場においても、みなさんとわたしたちで、そうした物語を聞き、考え、そして語っていきたいと願っています。あらためて広い視野から眺めるなら、今日の集いは、遠い昔から語り継がれてきた物語の伝承の、その一番端につらなっています。その恵みを受けたればこそ、この集いを開くことができるのですね。

世代を継いで伝えてくれた人々は、どんなときにも、身近な人々との集いの場で、語られる物語に心を寄せて楽しみ、たがいに結び付きを深めてきました。そうした先祖たちの語りの場の姿にならって、「話に遊び、輪を結び、座に集う」という思いをこめて、「民話 ゆうわ座」と名付けました。今日はその第1回です。

 

いまここにも開いている昔話の入口

テーマは「今ここにも開いている昔話の入口―「かちかちやま」のいろいろな顔―」としました。

だれでも一度は耳にしたことがある「かちかちやま」という昔話をとりあげて、いまここにある入口から、森に足を踏み入れてみたいと考えています。だれもが、「これはこういう話だよ」と思っている、とてもよく知られた昔話ですね。でも、たった一つの物語にも、じつはいくつもの顔があり、大きく姿を変えてきた道筋があり、思いもよらない深みがあります。なのに、たった一つの顔しか見えないのなら、とってももったいないことですよね。

今日は、だれもが知っているつもりの「かちかちやま」を手がかりに、まったく知らない、思いもよらない「かちかちやま」のさまざまな顔、姿に出会いたいと願っています。いまここにある入口から足を踏み入れて、民話の深い森のあちこちをみなさんと歩くことができれば、それだけで今日の目的は果たされるのだと、わたしたちは考えています。

 

    

(2)絵本『かちかちやま』(まつたにみよこ・再話 せがわやすお・絵 ポプラ社)を読む

 

 

(3)この話にたいして、どんなイメージをもって、なにを感じていたかを述べ合う

〈感想の内容〉

◆勧善懲悪を意図する話だと思う。

◆おばあさんを殺したタヌキがやっつけられて痛快。

◆ウサギは、悪智恵を働かせて、タヌキを虐めている。

◆タヌキがかわいそうに思う。

 

 

(4)話題提供  宮城県の「かちかちやま」を考える 小野和子

みやぎ民話の会の採訪活動によって、これまでに記録した「かちかちやま」は約40話あります。その話の型は、だいたい4つに区分できます。(資料参照)

4つの型を紹介し、その成り立ちや意味について、話題提供者の考えを述べました。

 

【宮城県で見られる4つの型について(A・B・C・D)】
※詳細は、文末の資料1をご参照ください

A. おじいさんが穀物(主に豆)の種を蒔くところから語りは始まる。そこへムジナ(タヌキ)が来て悪口する。ムジナをつかまえて、ムジナ汁にして食おうとするが、逆にムジナがおばあさんを殺して肉を剥ぎ、ばば汁をつくる。おじいさんは知らずして、それを食い、悲しむ場面で話は終わる。

 

B. 庄屋の屋根替えの手伝いを頼まれたウサギとイノシシの登場で話は始まる。ウサギとイノシシは屋根の材料の茅を採りに山へ行く。ウサギはイノシシの背中に火をつけて火傷させる。ウサギは「蓼畑」に住むウサギとは違う「竹藪」のウサギだといって、笹の葉を噛んで「火傷のくすり」だと偽って塗りつける。それから、イノシシを誘って海へ行き、土の舟に乗せて沈める。

(ここまでが一話の前段。この前段だけで一話が終わる型が見られるが、ここに挙げた例話では、この後に、太郎が登場し、殺したイノシシを肉汁にして食う話に発展する。ウサギの仕業に腹を立てた太郎の親によって、ウサギは尻尾を切られてしまう。いまもウサギには尻尾がないと、その由来を語って終わる。すなわちこの話は、まったく別の二話を前段と後段に配し結合した一話である。)

 

C. Aの話とBの話の前段を組み合わせて一話とする。イノシシのかわりにタヌキ(ムジナ)が据えられ、火、薬、舟によってウサギに苦しめられ、最後に殺される。冒頭で読んだ絵本『かちかちやま』もこのパターンで、一般に「かちかちやま」として知られる話はこの形をとっている。その際、山(火)、里(薬)、海(舟)に至る道筋で、ウサギは住んでいる畑の違いや、持っている手拭いの色の違いなどで、自分の所属の独自性を示す。

 

D. AとBの前段が結合されてCとなり、Cの末尾にBの後半が付け加えられて一話を形成する。

 

【4つの「かちかちやま」の伝承から考えられること】

・Aにおいては、日本民話に典型的な子のない老夫婦が登場し、わずかな種を蒔いて収穫を願うがタヌキ(ムジナ)に邪魔される。一度は、そのタヌキを捕まえるが、逃がしたのみならず、おじいさんはおばあさんの肉まで食わされることになる。

つまり、老夫婦は共存する動物に敗北したことを、語りは淡々と訴える。ここまでが一つの話として語られ、宮城県にもこの形の「かちかちやま」が残っている。

 

・タヌキへの報復は、人間のおじいさんではなく、選ばれた動物のウサギによっておこなわれることになる。そして、Bの動物同士の争いの話が、そっくり使われて、一話全体の意味がウサギの敵討の話に転換されている。もとの話は、ウサギが、身体の大きい相手をやりこめる話であるが、この際、相手の大きな動物は、とくになにも悪いことをしていないのも特徴である。身体は大きくて、動物本來の能力ではウサギに勝るが、ウサギが発揮する知恵によって殺される。

ここで、ウサギが発揮する知恵は、動物のものではなくて、人間だけが獲得しているものであることに着目しておきたい。まず、〈火〉。〈火〉は人間だけに許された象徴的な存在といってよい。それから、〈薬〉の発見も人間が生み出した生きるための大事な手立てである。更に言えば、その薬が〈南蛮味噌〉だったり、〈唐辛子〉だったり、'外国'渡來の気配を匂わせているのも面白い。最後の舟作りに至っては、道具を使って作り上げた、人間だけに出来る生産の手段であり、木という自然の恵みを活用した加工品でもある。ウサギは、人間だけに許された知恵を駆使してタヌキを殺す。

 

・ウサギは、こうしておじいさんに代わって敵を討つが、そのウサギも、人間の手の内にあるのだといわんばかりに、もう一つの話が付加され、その話の中でウサギは尻尾を切られてしまう。今においても,ウサギは短い尻尾に甘んじて、つまり人間の支配下にあることを顕示しているかのようだ。

 

・「かちかちやま」として知られている民話は、時代を経て、いくつかの話がつながって出来ていることが推察できる。それは、その時々の先祖の暮らしと思想を映し出しているのではないかと思う。人間の歴史さえ感じさせる。そのような目で、もう一度見直してみると、配置された小道具一つ一つにも深い意味が潜み、そこに横たわる人間の営みの流れを垣間見ることができて興味深いと思う。

 

 

(5)話題提供者の説明のあと、伝承の語り手が語る映像を見る。また、同じく伝承の語り手の語りを音声で聞く

・永浦誠喜さん(宮城県登米市南方町青島屋敷 明治42年生。平成14年歿)による「かちかちやま」の語りの映像を見る。

・佐藤とよいさん(山形県西置賜郡小国町小玉川 明治35年生。平成9年歿)による「かちかちやま」の語りの音声を聞く。

 

 

(6)絵本をとおして一話の大要を共通理解し、話題提供者の説明を聞き、伝承の語り手が語る映像を見たり、音声を聞いたりした後、「かちかちやま」から感じたことを再び話し合う。

 

(参加者の意見・感想)

*一部、参加者に書いていただいたアンケートの感想も織り込んでいます。

◆民話はさりげなく語られているが、実は深い本質が含まれていることがわかった。

◆知っていたつもりの「かちかちやま」が、こんなにも深い話だったとは...古い原型の話を始めて知った。

◆「かちかちやま」という一つの話を、タヌキ、爺婆、ウサギ、それぞれの目線から聞くという企画だが、話によって、ウサギが良いウサギになったり、詐欺師のようなウサギになったりするところが、ほんとうに興味深く、おもしろく、考えるところがいっぱいあった。

◆このように昔話をいろいろな角度から見ることが今までなかったので、おもしろかった。若い人の意見もおもしろかった。

◆話を外から見るだけでなく、ただ漫然と聞くのではなく、話に出てくる登場者の気持ち、思いをよく考えて聞くこと、そうした民話の聞き方が勉強になった。楽しかった。

◆とくに永浦誠喜さん、佐藤とよいさんの伝承の語りには、さりげない表現の中に、ムジナと爺婆との食うか食われるかの必死な顔が垣間見えた。これも「かちかちやま」の一つの顔なのだと思う。

◆この話は、つくり話ではなくて、事実から生まれた世界であって、むかしは知恵を持ったウサギやタヌキが居たのではないかと思う。ウサギもタヌキも爺婆も、それぞれに言い分があって、善悪や正しさは個人個人が自由に感じることだ。ウサギの世界では、知恵で悪いタヌキを退治した先祖のウサギの話が語り伝えられているかもしれない。タヌキの世界には、人間に喰われるところを人間を殺して生きのびた先祖のタヌキを語り伝える話があるかもしれない。人間の世界だけではなく、タヌキやウサギの世界にも、語り伝えられる話はあるのじゃないか。

◆話型Bの話を、以前伝承の語りで始めて聞いた時、「かちかちやま」のそれまでのイメージがひっくりかえった。「かちかちやま」のまったく別の顔に、生の語りを通して出会ったことがとても印象深かった。

◆太宰治は『お伽草紙』で、昔話の登場者それぞれの心理の動きを、それぞれの立場に立って表現している。「かちかちやま」ではウサギとタヌキのそれぞれの立場で書いている。最後にタヌキは「お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」という絶唱で終わっている。まさにどちらも一生懸命生きている。お伽話というのは、単なる話として外部から見るのではなく、その中に入って、その動物に仮託して自分の心理を映してみると、タヌキにはタヌキの言い分がある。そんなことを思いながらみなさんの話を聞いた。

◆弱い人間の必死に生きているくらしを踏みにじるタヌキの言葉や行為。それへの腹立ち、悔しさがおさまらず、話の型を少しずつ変えてきた。この話について、これまでとは異なる立場から聞いたり、話したりする中で、現代の人間社会での腹立ち、悔しさを思った。

◆子どものときタヌキを退治するのはなぜウサギなのだろうと不思議に思っていた。今日の話を聞いて、「因幡の白兎」に出てくるように神聖な動物と考えられていたウサギに、人間は知恵を付託してタヌキを退治させたことがわかった。また、江戸時代17世紀後半の赤本では、Aの話が「むぢなの敵討ち」という題で書かれたという話であった。調べてみると、Bのウサギのタヌキ退治の話が入った「兎の大手柄」という話を、19世紀に滝沢馬琴が書いている。江戸時代の庶民の間でもそういう話が読まれたということは、権力を脅かす者には報復するという精神が、江戸幕府によって政策として普及されていたのかもしれない。とくに五大お伽話と呼ばれるものは、そのように政治的に利用されることがあったのではないかと思う。

◆忘れていた記憶がよみがえり、楽しかった。

◆やはり民話は方言が魅力的だ。わたしは栗原出身なので、となりの登米市南方の永浦さんの語りにとても懐かしさを感じた。

◆「かちかちやま」を語っている佐藤とよいさんのテープと永浦さんのビデオを視聴することができて、これらの記録を後世に残すことの意義は大きいと感じた。佐々木健さんと佐久間クラ子さんの「かちかちやま」を直に聞くことができたのも良かった。

 

 

(7)会場に集まった参加者の中から、「かちかちやま」の伝承の語りを聞かせていただく

 

左:佐々木健さん(昭和12年生 宮城県宮城郡利府町)

右:佐久間クラ子さん(昭和7年生 宮城県仙台市)

 

ともに、ムジナと老夫婦のみが登場する古い形の「かちかちやま」であった。佐々木健さんは岩手県遠野市宮守出身で、実家の祖母から伝承されており、佐久間クラ子さんの話は、福島の語り手遠藤登志子さんから親しく聞き覚えた伝承である。お二人とも、典型的なかちかちやまの話と比べて、後半のウサギの敵討ちがないことに、釈然としないものを感じておられたという。

健さんは、「おばあさんから聞いた話だが、おばあさんが後の話を忘れてしまったんだと思っていた。今日話を聞いて、おばあさんの話もそれで正しかったんだと分かって良かった」と言われた。クラ子さんも「登志子さんは、『ウサギの出てくる「かちかちやま」の話は教科書で覚えた話で、ばあさまに聞いた話はこれで終わりだ』と言っていたのが、どうにも残念だったが、今日の話で納得した」と話された。

※詳細は文末の資料2をご参照ください

 

 

(8)閉会にあたって 小野和子

 

《一粒の豆》をめぐる二つの話

さきほど、話題提供でお話しいたしましたように、じいさまとばあさまがいて、ムジナに殺されてしまうという話が、「かちかちやま」のもともとの話なんですね。じつは、すごく大切なのが、ここで

「一粒蒔いたら千になれ。二粒蒔いたら二千になれ」

って言いながら豆を蒔く。大抵豆なんですね、麦だったりすることもありますけれども。

私は、この唱え言を聞きますと、もう一つの豆の話を思い出すのね。これは、よく知ってらっしゃると思うんだけど、「豆粉(まめご)話」と呼ばれる話です。一粒の豆を拾ったじいさまとばあさまが、よろこんで豆の半分を来年の種豆にして、もう半分は豆粉に挽いて、ネコやネズミに食われないように、二人で抱いて寝るんですね。半粒の豆粉をね。そうすると、夜中におじんつぁんが、大きな屁をたってしまった、ぶうっーっと。そしたら、大事な豆粉が、おばんつぁんの大事な所にくっついたもんだから、「おじんつぁんは、『ああ、いだましい、いだましい』って、きれいに舐めたんだとしゃ」と、こんなふうに終わります。(『宮城県の民話』から例話紹介)

これはね、よく話をお聞きする時に、「あの、豆粉を屁で飛ばした話ありませんでしたか」っていうと、「ああ、ああいう話か」って、話を思い出していただくときの縁(よすが)になる話なんですよね。そして、ちょっと艶話みたいになって、終わりの方ね。で、よくこの話は覚えておられるんです。

ところがあるとき、その話を聞いた帰り道、ふっと思ったんですよ。一粒の豆をネズミ穴に落としてしまったじいさま、ばあさまがいましたでしょう。「待て待て、待て待て」って一粒の豆を追って、ネズミ穴に入っていく。ちょきちょき、ちょきちょきって木割りで穴ほりながら。すると、そこにネズミの世界があって、そして餅搗いてたり、あるいはお地蔵さまが見えて、「お前の豆食ってしまったから、お礼にお前にいい物やるから」って言ったりして。おじいさんとおばあさんは、そこで、宝物をもらったりして帰ってくるんですよ。これを、人々は「浄土話」って呼んでいることに気付いて、はっとしました。絵本なんかにも「ネズミ浄土」とか「地蔵浄土」とかいう題で、この話はよく出てきますね。「浄土の話」ですから、「あの世へいった話」ってことですね。(『宮城県の民話』から例話紹介)

つまり、一粒の豆を握った老夫婦は、半分は種豆にしようって、来年も生きるぞって。後の半分は、老夫婦の夜の営みを暗示するようなバイタリティをもって語られている。それから、ネズミ穴に落としてしまったじいさまとばあさまは、ネズミ穴を辿っていって、宝物を貰うんですけれども、人々はそれを浄土話―「じょどばなし」と呼ぶ。あの世での幸せをつかんだ話とでも言ったらいいのでしょうか。

よく似た話なのに、ネズミ穴を境にして、豆を落としてしまったじいさまとばあさま、拾ったじいさまとばあさま、話はこういうふうに違ってきます。先の豆ご話は、絵本にも何にもならないし、みんなにもあまり好かれないし、子どもに語ったりもしない話ですが、じつは、ネズミ穴をさかえにしで一粒の豆をそこへ落としてしまう、一方、一粒の豆を拾ってそれを握る―この両者の違いはどういうことなのか。それを考えてまいりますと、いろんなことが思われるんですね。

《一粒の豆》に託された祈り

子を持たないまま年を老いていった人たちの運命は、かつての社会では、どんなふうであったかということが、よく言われます。松谷みよ子さんも書いておられますが、昔は村落共同体ですから、屋根葺きでも田植えでもなんでも共同でやりましたね。そのときに、年老いた老夫婦は労力がなくて共同作業に出られない、そして子どもがないので、かわりに出てくれる跡継ぎもいない。そのような年寄り夫婦をどうしたかっていうと、「次第に、村の共同体に交ぜなくなる」といいます。

この言葉を、私も聞いたことがあります。ですから、手に負えなくなった田畑を他人に渡して、跡継ぎを持たない老夫婦は山の際へ移っていった。つまり、死に近づいていったということだと思うんですね。ですから、「一粒の豆」に象徴されるものは、最後の食べ物を手にした老夫婦と、それをネズミ穴に落としてしまった老夫婦との違いを象徴しているのではないでしょうか。生と死に分けられた世界を暗示しているような気がするんです。

じいさまが山の畑へ行って、「一粒蒔いたらは千になれ」と祈りを込めて蒔くということの意味の深さを思います。それを「一粒蒔いても腐っされろ」とか「一粒は一粒のまんま」とかいわれることの本当に切ないほどの理不尽、それにたいする人としての怒りがあるのではないでしょうか。

そうすると、一番初めの原型になる話は、子のない老夫婦が置かれていた現実を語る話ということができると思います。そして、その老夫婦が明日の生命を託すようにして「一粒蒔いたら千になれ」というこの掛け声の重要さ、それをあざ笑ったタヌキ、そしてあざ笑っただけでなく、ばあさまを殺して、じいさまに食わせてしまう。このことへの人々の底知れない怒りがあったんじゃないでしょうか。

それが前半の話をなしていて、そして、そのタヌキを懲らしめる役割としてウサギが登場します。

さっき話されたように、ウサギは大国主(おおくにぬしの)命(みこと)に命を助けられたその昔から、人間に恩を感じて生きている小さな精霊のような動物だったかもしれません。そのウサギを連れてきて、人間だけに許された火、薬、そして道具っていうようなもので、その一粒をあざ笑ったタヌキへの報復にしたというところにも、人々の心の深い思いが潜んでいるような気がします。

そう思ってこの話を見直すと、またひと色違ってくるように思うんです。

閉めの言葉になったかどうかはわからないんですけれども、これで終わらせていただきます。

 

 

(9)次回に向けて

 

「民話 ゆうわ座」の第一回は、参加者とともに「かちかちやま」という一つの昔話を聞き、考え、語り合うことで、いままで知らなかった話のいろいろな姿、移り変わり、語りこめられた先祖の思いなどに出会える場となった。なお準備にあたっては、メディアテーク担当者のこまやかなご協力をいただいた。

次回に向けての課題として、話をめぐる本質的な問題をさらに深める対話にするため、適切な進行、問いかけのあり方を鍛えていく必要があるように思う。今回一番最初に、「『かちかちやま』は勧善懲悪の話だと思う」と意見発表された青年の問題提起を、終わりの意見交換において、深めて展開させられないままであった。また、機材の面では、映像の音声が聞きにくいとの声が寄せられており、この点の改善にも努めたい。

次回も、参加者のみなさんと民話の深い森に分け入って、ともに歩いていけるようなそんな企画を準備したいと考えている。

 

 

報告:小田嶋利江(民話 声の図書室プロジェクト)

 

参考資料1(PDFファイル1.3MB)

参考資料2(PDFファイル6.8MB)