語ったこと・書いたこと 2013年12月31日更新

森永邦彦×鷲田清一「からだ×ふく×せくしゅありてぃ」


レポート:鷲田清一 2013年11月17日、特別展《対話の可能性》のイベントの一つとして、気鋭のファッションブランドANREALAGE(アンリアレイジ)を率いるデザイナーの森永邦彦さんと公開対談をさせていただきました。場所は館内の「考えるテーブル」です。 そのときの様子を新聞に書きましたので、ここに再録させていただきます。

道路の風情、とりわけケヤキの並木が美しい仙台の市中に、戦後、再開発されずに残ったノスタルジックな町筋があります。壱弐参(いろは)横町と文化横町という二筋です。かつて場末の呑み屋さんが軒を並べていたようなその狭い筋には、雑貨屋、古本屋、喫茶店などの、まるで昭和三十年代に戻ったような、セピア色の空気が漂っています。 その筋から数歩横に入ったところに、「アンリアレイジ」という小さなお店があります。いまにも電気が切れそうなネオンサインが点る昔の美容室の外観そのままに、内装はお金もかけずに手作りでこつこつ直した、質素なショップです。若い世代なら知る人ぞ知るファッション・ブランドで、東京以外では二番目の地方拠点なのだそうです。

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そのデザイナー、森永邦彦さんと「せんだいメディアテーク」を会場に、おしゃべりする機会を得ました。森永さんはいくつかの服を持ち込んで、どんな工夫をしているかを説明してくれました。光が当たるといろいろに色を変える服、球体や立方体の服(空気を抜けばそのしぼんだ分が複雑なドレープとなります)、着ているうちに袖やスカートが上がり下りしたりする服、ビデオのぼかしのような低解像度の色柄の服(モデルのつけるマスクもぼかしがかかったようで、素顔が見えません)というふうに、服でいろんな実験をしてきました。 ファッションといえば、「時代の空気」なるものをイメージとして弄ぶような印象がこれまでありましたが、森永さんは愚直なまでに服という装置の構造、とくにその可能性にこだわってきました。服についての常識を壊すような服づくりです。 けれども、じっさいに手にとり袖を通してみると、声高でないと言ったらいいのでしょうか、あるいは手ざわり感があると言ったらいいのでしょうか、じつに肌にやさしいのです。余分な装飾はいっさいなく、かえって地味に見えるくらいです。ご本人の語り口もまた控えめというかとても穏やかです。

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構造は実験的なのに、肌ざわりはとても繊細、色柄は地味。そしてそんな服を東北の街のエアポケットのような一角に置く。販売員の人と客がそれらの服についてゆったりとおしゃべりする......。そんなショップの展開に、わたしはふとダウンサイジングという言葉を思い浮かべました。 ファッションといえば、高度化した消費社会のシンボルのような存在ですが、そんな記号の消費みたいなものには反応せずに、もっと手ざわり感のあるところで服をつくる。そこには、過剰な消費から引き揚げる、具体的にいえば、お昼ごはんを家で食べられるくらいに職住を近づける、住環境をじぶんの手で整える、友だち関係を小さくても濃やかなものにする、言ってみれば無理のない生活をする......といった空気が漂っています。 「あなたがよく知っているあの人は、あの人のうちのちょっとだけかもしれない」。これは桜の開花にひっかけて森永さんが語っている言葉ですが、わざとすべてを低解像度にした服を見ていて、なるほどと深く納得しました。最近、そんな服づくりをしている人たちが、三十代に何人か出てきています。ファッションがそのように静かに深化している様子、いいなと思います。

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「ああ、服が静かにぼくらに近づいてきたな」とつぶやきながら、メディアテークの仲間とともに、東京の仕事場に戻る森永さんを見送ったのでした。 (共同通信2013年12月配信記事)


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