語ったこと・書いたこと 2014年03月06日更新

「微風旋風」連載 3(『河北新報』朝刊文化欄)


臨床哲学

 大阪大学には、全国の哲学科でただ一つ、「臨床哲学」という講座がある。1998年に、それまでの「倫理学講座」の看板を付け替えた。その準備は、阪神・淡路大震災の半年後に開始したから、震災をきっかけに生まれた講座だと言えなくもない。  哲学を、孤独な思考としてではなく人びとの対話として実行すること。哲学の作業をなにかある理論の発明(あるいは解釈)としてではなく、さまざまな現場の人たちの智慧やふるまいから学びとる、そう、人びとのなかに「哲学」を発見する、そんなプロジェクトとしてやりなおすこと。  哲学はこの国では「研究」としてばかり取り組まれてきた。けれども哲学は、人びとの暮らしや社会の運営をしっかり支えるもの、支えてきたものであるはずだ。  ひとはどのような経験をしてきたかで、同じものを見ていても見え方はそれぞれに違う。一人一人がその経験を、不安定なまま、不確定なまま、そっとみなの前に差し出し、みなでいっしょに考える。「なるほど、そんなふうに思うんだ」「こういう考え方もできないかな」とあれこれ揉む。不安定なまま、不確定なまま問題を差し出すのだから、どんなふうに受けとめられるか不安になる。けれどもみなに揉まれて、あるいは自分とは異なる他人のまなざしに促されて、それぞれにこれまでよりももっと見晴らしのよい場所に出ることができるようになる。  そのためには、ここでは何を言ってもきちんと受けとめてもらえるという安心感がまずは必要だ。そのためにわたしたちは、椅子の配置やたがいの呼称に工夫を重ねた。見知らぬ参加者にも「どこの所属?」などとは訊かない。  その大学院で学んだ学生が、仙台市内の大学に就職した。そして震災後、せんだいメディアテークで継続して「てつがくカフェ」を開いてきた。どのような被災を経験したかで、そしていま復興のどんな途上にあるかで、それぞれの思いも視点も大きく異なる。その人たちがそれでもこの場に集まり、このたびの震災をどう受けとめるか、ずっと掘り下げてきている。勇気ある行為だとおもう。

『河北新報』2014年3月6日朝刊「微風旋風」


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