語ったこと・書いたこと 2014年02月06日更新

「微風旋風」連載 2(『河北新報』朝刊文化欄)


哲学の遠隔修行

 わたしは京都で生まれ育ち、京都の大学で学んだ。  幼年時代に過ごしたのは、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺の近く。その裏手には島原という花街と、当時高校野球で全国制覇をしていた平安高校があった。放課後は、西本願寺の前の広い通りで野球をして遊び、龍の姿をしたお寺の手水で埃だらけの頭を洗い、参拝者向けの休憩所で温かいお茶をいただいてから、平安高校の野球部の練習をまぶしい面持ちで見学し、そして島原で駄菓子を買って分け合いながら帰路につく。それが日課だった。  大学に入ってメルロ=ポンティという現象学者の書き物にふれ、いきなりぐいと引き込まれた。その思想の核にあるのは「両義性」や「可逆性」という発想だ。ものごとはつねに相対立する二つの契機のあやうい均衡のなかにあるという考えである。  毎日、夕刻にわたしが目撃していたもの、それの意味がかれの著作を読むなかでくっきり浮き彫りになった。幼いわたしには、あの豪奢なきものに身をくるみ、夜ごとご馳走をいただき、舞う若い芸妓さんがなぜ、近くのお宮で早く故郷に帰れるようにと願をかけているのか不思議だった。なぜ、あの貧相ないでたちの修行僧のことを祖母が「うちらが知らん幸福を知ったはる」と言うのか解せなかった。一つのものを見るとその反対のものが裏側に透けて見える、そういう癖を、こうしてわたしは知らず知らず身につけていったのだった。  だから、議論がくるくる裏返る難解なメルロ=ポンティの書き物も苦痛ではなかった。メルロ=ポンティの思考の癖をみごとに日本語に移した、木田元と滝浦静雄という、ともに仙台で学ばれた先生方による翻訳の文体が、ひどく心地よかった。そして東北大学・現象学トリオのもう一人、新田義弘先生には、その後、論文を書くたびに厚かましくも手紙でご指導をいただくこととなった。  仙台はわたしの哲学修行の原点、現象学のメッカだったのである。そして奇しくも、後年、大阪大学の総長に就任したその日の初仕事は、東北大学創立百周年の記念式典への列席となった。

『河北新報』2014年2月6日朝刊「微風旋風」


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