語ったこと・書いたこと 2014年04月03日更新

「微風旋風」連載 4(『河北新報』朝刊文化欄)


いのちの世話

 出産、調理、排泄物処理、子育て、教育、看護、介護、看取り、葬儀、もめごと解決、防犯・防災など、生き延びるために一日たりとも欠かせない「いのちの世話」は、かつては地域社会でみなが共同して担ってきた。その知恵と技を世代から世代へとしっかり伝えてきた。  しかし、明治期以来の社会の「近代化」のなかで、わたしたちはそれぞれを、官庁や自治体や企業によるケア・サービスにそっくり委託するようになった。医療サービス、教育サービス、流通サービス、司法サービス、行政サービスなどに、である。わたしたちの義務はかわりにそれらに税金やサービス料を支払うことになった。そのことで都市生活のクオリティーは大いに上がった。  けれどもその代償として、わたしたちは自分たちの手でそれを担う能力をひどく損なってしまった。災害のときでも、たとえば雨や湧き水を飲料水に変えることすらできず、ペットボトルの到着を待つことしかできなくなった。「いのちの世話」についてのそんな無能力が、被災時にあらわになる。気づかぬうちに、わたしたち市民は、行政や企業から提供される手厚いサービスの消費者、つまりは顧客になり下がってしまっていた。  想像したくないが、福島での原発事故がもし別の地域でも断続的に起これば、わたしたちは難民としてこの国を去らざるをえないということもありうる。そのときはもちろんわたしたちが頼っているサービスシステムはもはや機能しない。それでも生き延びるためにどうしても必要なのは、人びとの「互助」のしくみであろう。いざとなればたがいの「いのちの世話」をみずから担いうるような力量の回復であろう。  はじめに挙げたような「いのちの世話」の互助能力をふたたびみずからの手に回復するというのは、並大抵のことではない。それをかつて担った高齢の人たちの話をよく聴き、問題がどこにあるか意見を交わしながらみなでこの事業に取り組む、その手法を開発すること。コミュニケーションと表現のわざを育む公共施設としてのせんだいメディアテークには、震災後、このようなミッションも加わった。

『河北新報』2014年4月3日朝刊「微風旋風」


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