語ったこと・書いたこと 2015年02月17日更新

「時のおもり」に寄稿しました(『中日新聞』文化欄)


なりふりをかまうということ

「愛はひろくて、ふかくて、むずかしい」 こんな言葉を副題にした砂連尾理(じゃれおおさむ)さんのダンス作品《愛のレッスン》が、昨年全国を巡回し、この一月にその最終公演があった。砂連尾さんは、いうところのコンテンポラリー系で、以前はけっこう激しいダンスをしていた。ここ数年は、「グレイスヴィルまいづる」(京都府)という特別養護老人ホームで、認知症の方とのダンスに集中したあと、若いころ薬害にあって両脚と右手の自由を奪われたひとりの女性との「共演」に取り組んできた。 電動車椅子を巧みに操作する女性と、麻痺した彼女の右手の輪郭をそうっとなぞる砂連尾さん。はじめてのダンスが終わったあと、「五十年ぶりです。わたしの右手がだれかにつながったのは......」と彼女はしずかに語ったという。冒頭に引いたのも、じつはそのひとのつぶやきである。 砂連尾さんは、その人とのダンスに先立って、じぶんも不自由にならないと判らないと、ひとり片足で一時間立ちつづけた。そんな「格好」を何度もくり返した。「格好」といえば「カッコいい」「カッコつけ」「格好がつかない」と言うことが多いが、砂連尾さんのこれもまぎれもない「格好」である。 「共感」は、シンパシーという語もコンパッションという語もそうだが、苦しみをともにすること、おなじ苦しみを味わうことである。けれども、心をそういうふうに他者へと移動させるのはほんとうにむずかしい。ひとの想像力は、そんなに立派なものではないからだ。 ひとの想像力は貧弱なものだから、ひとはおなじ苦しみにあずかろうと体を動員する。大切なひとが試練を受けているときは、離れた場所で冷水を浴びる。だれかの困窮を思って、じぶんも断食に入る。そんな風習がかつてあった。 格好をつけること、つまり外に形をつくることは、内なる心がよりたしかな形をとるための手立てとして大きな意味をもつ。ひとの思いというのはひ弱なもので、つねになりふりをかまっていないとあっさり崩れてしまいもする。 哲学者のウィリアム・ジェイムズがどこかでこんなことを書いていた。気分がいいときは体を屈めて気分が落ち込んでいるときの姿勢をとる、気分が塞いでいるときは逆に楽しいときのように体を大きく開く。他人があなたを見て不愉快にならないためには、体を使ったそういう精神の操作(健康術?)が必要だ、と。 感情を野放図にしないため、である。 共感もまた、そういう自己抑制のなかでこそ生まれるものである。他者に共感できるというのは、「自分のものではないさまざまな感情の物語に『つきあう』ことができる」(山崎正和『社交する人間』)ということだ。みずからに距離をとること、そうして他者の許へと心を移動させること。それにも鍛錬が必要である。それが自然にはなかなかできないから、ひとはなりふりをかまうことを奨めてきたのである。 このところメディアやネットに溢れかえっている、吐き棄てるような、あるいは他者に石を投げつけるような、野放しの言葉の数々にふれて思うことである。

『中日新聞』2015年2月18日掲載


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