報告 2017年06月18日更新

てつがくカフェ第61回「いま、『選ぶこと』の意味を問い直す」レポート


【開催概要】
日時:2017 年 6 月 18 日(土)15:00-17:30
会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
ファシリテーター:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
ファシリテーショングラフィック:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)
(参考:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2017/06/61-1.html


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震災から6年目の春。原発事故による影響で避難を余儀なくされていた一部の町村の避難指示が解除されました。はたして、自主避難を「選ぶこと」は「本人の責任」であると言い切れるのだろうかという問いかけとともに、対話が始まりました。

「選択」には、予測できる「能力」や「判断基準」が必要なのではないか。 「選ぶ」といっても、予め決まった「枠」の中で選択しているのではないか。


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はじめに、個人が「選択」できるための能力(予測できる力や経験に裏打ちされた判断基準)や、はたして私たちは本当に「選択」できているのかなど、選択に纏わる様々な疑問を出すところから考えていきました。そして、ある参加者の「今日は、レストランでスパゲティを『自然』に選びました」という発言を受けて、そもそも「選ぶ」という営みは、どのようなプロセスやタイミングを経て決まるのだろうかという話になりました。はたして、ここでいう「自然」とは、「無意識」のことを指すのでしょうか。それとも「本能」のことを指すのでしょうか。一方、「自然」ではなく「意識」して「選択」する場合、自分の意思でとは言いつつも、選択の範囲が予め決まった「枠」の中で選んでいたり、他者から選択を迫られる形で決める場合もあることを踏まえると、「自由」に選んでいるとは言い難いともいえるのではないでしょうか。さらに、誰しも、この世に産まれることを「選択できなかった」り、嫁ぎ先の風習や文化、家族のために選択せざるを得ない状況がある事実を踏まえると、「選択」とは「個人」に限定された営みではないとも言えそうです。そうなると、「選択」にまとわりつく「責任」とは、はたしてどこの/誰にあるのでしょうか。

考えれば考えるほど、新たな問いが浮かんできます。ただ、ここまでくると、冒頭で掲げた「選ぶこと」と「本人の責任」の関係性が、一筋縄ではいかないことが見えてくるでしょう。震災から6年を経た今、「選ぶこと」の複雑さを噛み締めながら、これからも問い続けていきたいと思います。



報告:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)




*この記事はウェブサイト「考えるテーブル」からの転載です(http://table.smt.jp/?p=13618#report


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