報告 2021年03月07日更新

【レポート】第75回てつがくカフェ


【開催概要】

第75回 てつがくカフェ
日時:2020年2月28日(日)13:30−16:00
会場:Zoomを使用したオンラインでの開催
ファシリテーター:辻明典(てつがくカフェ@せんだい)
ファシリテーショングラフィック:三神真澄(てつがくカフェ@せんだい)
※今回はオンラインでの開催だったため、黒板の代わりにWordを使用しました。

(告知ページ:https://www.smt.jp/projects/cafephilo/2021/02/22873-1.html




今回のてつがくカフェでは、はじめ、コロナ禍について考えていることや気になっていることを挙げてもらいました。

まず、コロナ禍が日常に浸透しているという話が出されました。たとえばコロナ禍ではマスクをするのが<普通>になっています。逆にコロナ禍が終わったら前の生活に戻れるか不安だといいます。また、オンラインでの対話が日常的になり、対話の場面や機会が増えたものの、対面の頃と比べてしっかりと考えることが少なくなり受け身のように感じているという声もありました。

続いて、コロナに感染したことを「迷惑をかけたから謝りなさい」と会社に言われたエピソードが紹介されました。コロナに感染してしまうことで、過去の人間関係や行動があらわになり評価されてしまう。そこには「原因を追求しなければ」「誰かのせいにしたい」という背景があるようです。

また、通常では謝ることに対して「おたがいさま」という応答がありましたが、コロナ禍ではなかなかそうはいかないといいます。「おたがいさま」には相手との信頼関係や対等な関係性が必要です。しかしコロナ禍における「謝る」の宛先は目の前の人ではなく社会になっているという意見が出されました。

ここから、コロナ禍における社会と私についての話題へと移りました。

まず、ソーシャルディスタンスについてです。「社会を可能にするために距離を取れ」ということが「あなたも社会の一員である」と複雑に絡み合っているという指摘がありました。個でいることが自らの選択でなく社会からの要請であり、個になりきれないといいます。それは非社会性が許されにくい社会、あるいは社会要請に従っていない人を非難することで(自分は)社会に入れるという構造に繋がっているという意見が出されました。また、新しい生活様式はどこか国家総動員法を思わせるという声もありました。

さらにコロナ感染については自分自身が100%かかっていないとは言い切れないことから、「私」がいること自体が脅威かもしれないという意見がありました。それと同様に、批判や非難をしていないつもりでも、誰かを傷つけているかも知れないという声もありました。

ここからキーワード出しの時間となりました。ここまでの対話で気になったキーワードを出してもらいました。出されたキーワードは

・境界線

・窮屈感

・おたがいさま

でした。

「境界線」については、人と人のほかに、社会的な境界線を感じるという声がありました。

「窮屈感」については、根拠がわからないまま社会要請に従っている感じ、自分が判断できないことに流されている感じなどが例としてあがりました。

「おたがいさま」に関しては、人の命がかかっていることから、社会を気にかけることが正当化されるようになり、違いを許せなくなっているという声がありました。

また、人災は怒りの矛先を探し人を責める形になるという指摘も出されました。

最後に、ここまでの対話をさらに深く考えるために、問いをつくる作業を行いました。今回は「おたがいさま」というキーワードから問いをつくりました。(→は問いに対して出された意見です)

・「おたがいさま」は免責か攻撃か

→言葉のあやの場合も。

・「おたがいさま」と声をかけにくいのはなぜか

→加害被害の対立構造。同じ経験が可能という余裕がない。

→おたがいさまは運命共同体のニュアンスがある。

→迷惑をかけることに対する過剰な感覚。攻撃。

→会社を休むよりも出てくる方が問題だから。

・「おたがいさま」の言葉の受け止め方がなぜ異なるのか

→緊張感を解いてくれる←→新しい生活様式を守れという強いメッセージの違い

コロナ禍から「おたがいさま」というキーワードを引き出し、そこから社会と個の関わり方を見直した2時間半となりました。


(下の画像はクリックで拡大します)

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