民話ゆうわ座 2020年04月27日更新

【レポート】民話 ゆうわ座 第七回「民話のなかの子どもたち 〜その『誕生』をめぐって〜」



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■ 日時:2019年12月21日(土)13:00−16:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 1f オープンスクエア
■ 主催:せんだいメディアテーク、みやぎ民話の会「民話 声の図書室」プロジェクトチーム
(参考https://www.smt.jp/projects/minwa/2019/10/post-11.html
 

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1.「民話 ゆうわ座」について 進行 小田嶋 利江


 「民話 ゆうわ座」は、みやぎ民話の会有志による「民話 声の図書室」プロジェクトチームとせんだいメディアテークの協働事業であり、「ゆうわ座」参加者が自由に感想意見を交換することによって支えられてきた。
 みやぎ民話の会は、先祖によって口から耳へと語り伝えられてきた民の話〈民話〉を、海や山の語り手を訪ねて四十年以上記録してきた。その語り手を訪ねる採訪の中で、聞き手は語り手からさまざまな気づきをもらう。「民話 ゆうわ座」では、みやぎ民話の会がこれまで記録してきた民話の語りを聞き、語りの映像を観ることを入口として、採訪において聞き手が感じたこと、考えたこと、疑問に思ったことを披露し、それを手がかりにして、参加者とともに民話をめぐるさまざまなことを、自由に考え語り合う集いである。
 前回は「民話のなかのじじとばば」というテーマで、なぜ日本の民話はおじいさんとおばあさん二人だけのくらしから、多くの物語を始めるのかを考えた。今回はそのつながりとして、そうした爺と婆にこどもが授けられる民話をとりあげる。そうした話において、子どもたちが、どんな形で、どんな風に、この世界に現れてくるのか、つまり「民話のなかのこどもたちの誕生」についてみなさんと考え、語り合いたい。
 まず、子どもが授かる日本の民話を参加者に挙げてもらうと、『桃太郎』『瓜こ姫』『一寸法師』『力太郎』『田螺息子』『蛇息子』『蛙息子』などの話が数えられた。これらの話のうち、爺婆が神などに子を願って授けられる『一寸法師』などの話を最初に考えたい。願わないが川上からふいに子を授けられる『桃太郎』『瓜こ姫』の話は、そのあと後半で別に考えることとする。

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2.「子どもの誕生」の民話の語りを聞く 語り手紹介 小野 和子


爺婆が神に願って子を授かる話として、みやぎ民話の会の民話記録の中から、『田螺の息子』と『一寸坊主』二話を、みやぎ民話の会会員の語りで聞く。それぞれの語り手、片倉瞬さんと木村一郎さんについては、小野和子から語り手の紹介があった。

・『田螺の息子』[片倉舜さん(東松島市矢本 大正十三年生)] 語り 長須賀 直子・島津 信子
・『一寸坊主』[木村一郎さん(登米市米山町 明治四十二年生)] 語り 寺嶋 大輔

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3.採訪者がとらえた民話のなかの「こどもの誕生」 その一 話題提供 小野 和子


 願って子を授けられる話二話『田螺の息子』『嘘吹き太郎』について、共通する話の筋立てを確認した。
 まず、(1)爺と婆は神に子を願って授けられる。そして、(2)その子たちは水辺の動物だったり、とても小さな人間だったり、普通の子ではない異形の姿をしている。(3)爺婆は授かった子を愛情豊かに育てるが、やがて子は家を出る。(4)家を出た子は力を表し事を成して妻を得る。
 一方で、そうした筋立てにあてはまらない子の話も存在する。『ヘビの四蔵』では、爺婆が授かったヘビの子を村人の迷惑を理由に山に捨て、最後は殺して殿さまから褒美をもらう。『嘘吹き太郎』では、嘘ばかりつく太郎を父は海に流そうとして、逆に自分が海に投げられて死に、太郎は流された鬼ヶ島から鬼の宝を盗んで帰り、母と二人で幸せになる。『手斧息子』では、両手が手斧の形で生まれた息子が人を傷つけるので、親は子を船に乗せて海に流す。
 ここで、親と子の関わり方はさまざまだが、授けられた子はいずれも、不思議な形、異形の姿をしているのはなぜだろうか。その問いを考えるにあたり、宮城の稀有な語り手であった永浦誠喜翁(登米市南方町 明治四十二年生)の『鬼打ち木のいわれ』という話と、翁の言葉が提示される。
 『鬼打ち木のいわれ』では、鬼の母と人の父の間に生まれた鬼と人と半々の「片子」が、鬼の世界にも人の世界にも居場所がなく、正月の門松に立てかけたクヌギの木に頭を打ちつけて死ぬ。それが門松に立てかけたクヌギの木を「鬼打ち木」と呼ぶいわれだという。翁はその話の後に、「なにか足りなかったり、なにか余分だったりするのが、人というものではないか」と語ったという。
 小野はこの翁の言葉を受け止めて、人はすべてなにか足りないもの、半端なもの、異形な姿のもの、つまり障害を持った存在としてこの世に生まれる。そして親は、その異形な子とどのように向き合うかがつねに問われ、試されている。民話のなかのこどもたちの姿は、そうした問いかけを今の私たちにもさしだしているのではないかと提示した。
 最後に、松谷みよ子『おんぶおばけ』(童心社 1992)を読む。

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4.みなさんと感想や意見の交換 その一


 参加者から、それぞれの実感にもとづく、洞察にとんださまざまな意見が交換された。

◉『田螺息子』で異形の姿のまま幸福にならなかったことが残念に感じた。
◉かつて多くの乳幼児が亡くなり、次三男は家を出なければならない社会の厳しさのなかでの願いがこもっているのではないか。
◉すべての話で子は男であり女が一人もいないのはなぜか。
◉爺婆の生活の厳しさ、子育ての大変さ、ムラ共同体のしがらみ、いろいろなことを映しているのではないか。
◉親殺し子殺しの話には、「世間さま」という言葉が出てくる。
◉現代の価値観で一方的に民話を改変することがある。
◉民話にこめた先祖の思いを探り考えることで受け継いでいきたい。
◉「子の誕生」は親にとっては「子育て」の問題であり、『おんぶおばけ』の「おんぶしてぇ」という声は、いくら愛しても足りなくて「愛して」と繰り返すこどもの声かも。

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《 休憩 》

5.「こどもの誕生」の民話の映像を観る 語り手紹介 山田 裕子


 つぎに、川上から流れてきた不思議な桃や瓜から爺婆が子どもを授かる話を考える。まず、山田が語り手としての佐々木健さんを紹介し、健さんの『瓜こ姫こ』の語りの映像を視聴した。

・『瓜こ姫こ』 語り 佐々木 健[岩手県遠野市宮守町 昭和十二年生]

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6.採訪者がとらえた民話のなかの「こどもの誕生」 その二 話題提供 山田 裕子


 山田は『瓜こ姫こ』の話が、先に考えた二話『田螺の息子』『一寸坊主』と異なり、ことさら子を願っていない爺婆に、川上という異界からもたらされた古い聖なる果実である瓜から子が授けられる話ではないかと言う。こうした瓜の在り方は、石巻市大瓜の話『ツバクラにもらった種』にも見ることができる。
そして、ほぼすべての「子どもの誕生」の話においては、子は男であるのに対して、この『瓜こ姫』の話は、ただ一つ子が女である。そしてこの話の印象的な場面として、戸をはさんだ家の内と外で、山母と瓜こ姫こが、戸を開けるか否かをかけたやりとりをする場面を挙げ、瓜こ姫この隠された下界への好奇心を指摘した。

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7.みなさんと感想や意見の交換 その二


 以上の語りの映像と山田の話題提供を受けて、民話における「こどもの誕生」をめぐって、参加者の間でさまざまな意見・考察が交わされた。いくつかのゆるやかなまとまりごとに以下に紹介する。なお、一つの意見が複数のテーマに重複している場合がある。

【川上からもたらされるこども】
◉川上から流れてきた桃・瓜にこどもがひそんでいる話は神話に近い。
◉川上から流れてきた子とは、異界あるいは神の世界からもたらされた子ではないか。
◉よく子どもに「お前は橋の下で拾った」「川から流れてきた」と言うのは、こどもが異界からもたらされたと考えていたからでは。
◉こどもをあやす「おんこう」は「御子」であり、神から授かった子という意味だと、佐々木健さんは言っていた。
◉川上からこどもを授かる話は神話に近く、神に望んで異形の子を授かる話は後代の家制度を映しているか。

【桃太郎と瓜子姫】
◉桃太郎はなんの葛藤・迷いもなく外の世界に乗り出していくのに、瓜こ姫は家に閉じ込められて外の世界に出るか否かに葛藤・迷いがある。
◉外の世界に出ることにより桃太郎は事を成し、瓜こ姫は破滅する。
◉娘が家にこもって機を織るという姿が、高貴なものを感じさせ、七夕伝説や鶴女房につうじる。
◉祖母から聞いていた『瓜こ姫』は間抜けなアマノジャクがユーモラスな話だった。
◉存在感の薄い瓜こ姫が、山母と戸をはさんで交渉する中で、初めて外の世界への好奇心・欲望を見せる。この欲望の芽生え・人間として欲すること、これも一つの人間としての「誕生」ではないか。
◉『瓜こ姫』がただ一つの「女の子の誕生」の話で、外に出ることもなく殺される、そして「男の子の誕生」に満ちた民話の語り手は女が多い。こうした女とは「何者なのか」。
◉ただ一つ伝えられている「女の子の誕生」の話が、その子が外の世界に向かった時に破滅する、それはどうしてなのか。

【赤子と異形の子】
◉川上から子どもを授かる話は神話に近く、神に望んで異形の子を授かる話は後代の家制度を映しているか。
◉子殺し親殺しの話には、時代の変化の中で『世間さまの迷惑』とのせめぎあいが映されているか。
◉子育てをしている親は、日々子に大きな望み・期待と、取り返しのつかない後悔を抱く。でもこれらの話によって『異形でも半端でもそうしたものなんだ』と自分たちを眺められる。
◉神のような申し分ない子の姿も、欠けた状態の人間らしい異形の姿も、どちらも人に在って、否定も肯定もされず提示されている。それぞれ自分の道を歩いていく自由が肯定されている。

【神話と現実 想像力と願い】
◉飢饉の地である東北の歴史のなかで、こどもが生まれて生き抜くことはとても厳しい。だからこそ川上の異界という物語の源からいのちが下界にもたらされたとき、子どもは異形の姿をとらざるをえないのではないか。
◉同質化をせまられる共同体のなかの親にとって、神の世界から来た異形の子どもはむしろ願いではないか。
◉瓜こ姫が家の外に出て破滅するのは、神などいない現実を提示しているのではないか。
◉神のような申し分ない子の姿も、欠けた状態の人間らしい異形の姿も、どちらも人に在って否定も肯定もされず提示されている。それぞれ自分の道を歩いていく自由が肯定されている。
◉子をもたらす川上の異界は創造力の源で物語が生まれる。それが生きがたい現実の歴史のなかで、人々の欲望・想像を物語として語ることは祈り・願いとなる。物語は人々がその欲望と関わりつづけるための鏡のようなもの。
◉一つの話のなかに、物語の源としての神話の世界から、神などいないと思える生きがたい現実までを含んでいる。われわれは想像力を飛ばす物語の世界も、どうにもならない現実も、どちらも切実に求めているし、どちらも話のなかに残したいし語り継ぎたいのではないか。

【物語を語り継ぐということ】
◉民話という物語は現実の暗闇から生まれた灯りのようなもので、つねに「お前ならどう生きるのか」という先祖からの問いかけであり、それをもとにそれぞれが育て花咲かせていく種のようなものではないか。
◉話のなかの田螺や蛇や蛙は、いまを生きるわたしたち自身の姿として、わたしたちに問いかけ続けている。
◉子育てをしている親は、日々子に大きな望み・期待と、取り返しのつかない後悔を抱く。でもこれらの話によって「異形でも半端でもそうしたものなんだ」と自分たちを眺められる。自分は体験できなかった、こうした物語のなかで人が育つ場が欲しいと思う。それには私たちがこれから物語のなかでこうしたことを語っていくこと。
◉伝えられてきた物語を声に出して繰り返し語ることで不思議に安心する、それは聞いているこどものためというより自分のため。
◉これらの話は、『ここに存在しているおまえは何者なのか』『かつて生まれてこどもであったおまえは何者なのか』を問うているのではないか。
◉子をもたらす川上の異界は創造力の源で物語が生まれる。それが生きがたい現実の歴史のなかで、人々の欲望・想像を物語として語ることは祈り・願いとなる。物語は人々がその欲望と関わりつづけるための鏡のようなもの。
◉幼いころから聞いて育った話、あるいはとても好きな話が、その人にとっての「ほんとうの話」だが、おなじ『桃太郎』でもさまざまな話があり、語り手や地域によって多種多様で、それぞれがそれぞれの人にとっての「ほんとうの話」なのだ。
◉一つの話のなかに、物語の源としての神話の世界から、神などいないと思える生きがたい現実までを含んでいる。われわれは想像力を飛ばす物語の世界も、どうにもならない現実も、どちらも切実に求めているし、どちらも話のなかに残したいし語り継ぎたいのではないか。
◉「おまえは何者か」「おまえは鬼か人か」という問いかけには、鬼でも人でもない、そして鬼でも人でもある、「わたしは片子だ」と答えたいと思った。

【子を授かること 子を育てること】
◉望まないで授かった子でも、『望まれない子』ではないのではないか。
◉鬼であれ蛇であれ、親が子としてそのものを迎えたとき、それは子となる。
◉子育てをしている親は、日々子に大きな望み・期待と、取り返しのつかない後悔を抱く、でもこれらの話は「異形でも半端でもそうしたものなんだ」と自分たちを眺められる、そうした物語のなかで人が育つことが欲しい、そのためにはこれから私たちが物語のなかでそうしたことを語っていくこと。

【質問】
◉(問)石巻市大瓜の『ツバクラにもらった種』の話は、石巻市蛇田の『蛇田の地名のいわれ』とは別の話か。―(答)別の話。出典は『宮城県の民話』(日本児童文学者協会編 偕成社 1982)。

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 最後に語り手佐々木健さんの「とんびとんび」の歌を参加者全員で唱和して「第七回民話ゆうわ座」は終了した。

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下の黒板の写真をクリックすると、当日の板書を大きなサイズでご覧いただくことができます。(板書:瀬尾夏美)

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 会場では、みやぎ民話の会の小野和子が、これまでの民話の採訪を振り返った著書「あいたくて、聞きたくて、旅に出る」を全国に先駆けて販売を行った。書籍はその後、全国各地で販売を展開している。

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また、耳の不自由な方などにも楽しんでいただけるよう、手話と要約筆記を実施した。

要約筆記とは、話されている内容(音声)を、その場で要点をまとめ、文字にして伝える通訳。パソコンのキーボードで入力した文字をスクリーンに投影した。)

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報告:小田嶋利江(みやぎ民話の会「民話 声の図書室」プロジェクトチーム)
 
ロングレポートはこちら↓
第七回民話ゆうわ座ロングレポート.pdf(PDFファイル/1MB)


第七回ゆうわ座_当日配布資料.pdf(PDFファイル/600KB)
第七回民話ゆうわ座チラシ.pdf(PDFファイル/4.1MB)

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※「5.「こどもの誕生」の民話の映像を観る」で上映した佐々木健さんの「瓜こ姫こ」の映像はDVD化しておりませんが、佐々木健さんが別の機会に語った「瓜こ姫こ」はDVD「遠野市宮守町の佐々木 健の語り[2]」で視聴できます。

以下のリンクからDVD内容をご確認いただけます。

DVDは、せんだいメディアテーク2階「映像音響ライブラリー/視聴覚教材ライブラリー」にて、貸出・視聴いただけます。
  

 


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