語ったこと・書いたこと 2014年05月29日更新

「微風旋風」連載 6(『河北新報』朝刊文化欄)


はなしの作法

 おなじ関西といっても、京都と大阪では、人のあいだのバリアーというものに大きな差がある。京都では、他人の中にまで踏み込まない。というか、わたしなどはいまの場所に40年以上住んでいるのに、隣の家には玄関口までしか入ったことがない。一方、若いころ大阪ではじめて喫茶店に入って、いきなり、注文を訊くのではなく「あんた、その眼鏡どこで買うたん?」と訊かれ、「えらいとこ来たなあ」とため息をついたことがある。  それぞれ歴史の事情がある。まちの支配者がいつも外部からやってきて、しのぎを削ってきた京都では、表面的にはだれとも等距離でつきあうのが安全だったこと。一方、長らく徳川幕府の「天領」であり「天下の台所」でもあった大坂では、行政の実際を担うのは町人であって、まちのことは町人の談合で決めたし、さらには外から派遣された役人や中之島の蔵屋敷を司る藩士たちと日々、丁々発止のやりとりをする必要があった。  京都の人は「すましている」「お高くとまっている」と大阪人は言い、大阪の人は「えげつない」「わきまえがない」と京都人は言う。おたがい相手の弱いところを熟知しているので、京都人と大阪人が会話するとふだんの倍のスピードでけなしあう。それをそばで聞いた他所の人は、表情をこわばらせる。  けれども、けなしあっているのではなく、けなしあいを楽しんでいるのである。イントネーションの微妙な違いをまるで合唱のように楽しんでいるのである。いずれも斉唱というのが大嫌いなのだ。  じつはそういう会話には、おなじ関西人としての作法というものがある。たえず茶々を入れて会話に弾みをつけること。そして何でも言い切らないで、話が次に続くような終わり方をすること。これが、関西人が子どものときからしつけられてきたコミュニケーションの作法なのである。  仙台ではどうなのか。仙台に通うようになって1年になるが、まだそのところが掴みきれていない。いったん呑み込む、というところにその術の一端が出ているのかな、と探りを入れはじめている。つい気が急く関西人の、見習うべきこととして。

『河北新報』2014年5月29日朝刊「微風旋風」


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