コラム 2023年10月31日更新

一本の(  )から考える○○のこと:一本の映画から考える二本の映画のあいだのこと


堀口徹(ほりぐち・とおる|建築映画探偵、建築批評家、近畿大学建築学部)

 

 

建築映画探偵は、シーンの背景に映る風景や場所、その撮りかたに全神経を?注ぎながら映画を見ている。そして多くの場合、そのシーンが撮影されたロケ地を探し出したくなる欲望に駆られる。現地調査をすることもあるが、Googleマップやストリートビューなどを使いながらオンラインで探すことが多い。そして単にロケ地を特定するにとどまらず、ひとつの映画を入り口にして、他の映画とのあいだ、さらにはロケ地にまつわる現実世界の出来事や失われた場所の記憶とのあいだを行き来しながら、その探索の過程自体をひとつの物語として紡ぎ出そうとしているようにも思う。また、建築映画探偵と言いながら、建築物だけに着目するのではない。有名建築が出てくることに一喜一憂したりすることもない。むしろ匿名的で無名な風景や場所、建物やその断片、残骸などなど、映画監督たちによるそれらの選び方や撮り方に興味を持っている。ひとつの映画やシーンをきっかけに、映画の物語世界に映り込んでしまった場所に秘められた物語空間を想像のなかで訪ね歩く旅人と言う方が合っているかも知れない。

だから、この文章をきっかけにして、取り上げた映画を見て、あるいは見直して、さらにはロケ地に出かけたりしながら、映画から始まる想像力の旅に出かけてもらえたら嬉しい限りである。その手始めに、『接吻』(監督:万田邦敏/2008年)から、ある別の映画への旅に出かけてみたい。

 

事件現場となった住宅

『接吻』のオープニングは、山の斜面を雛壇造成した新興住宅地の一角にありそうな、長く続くコンクリートの階段を、首を垂れたまま気怠そうに上る男の後ろ姿を捉えたショットから始まる。低い位置から見上げたキャメラが切り取るフレームの大部分を階段が占めている。蹴上の垂直面ばかりが見えており、踏面の水平面は見えない。男のジーンズのお尻ポケットからは木の柄が飛び出している。金槌が忍ばせてあるのだ。階段の中央に据えられた鉄製の手摺りはそれなりに年数が経っているのか、錆びついて青い塗料がところどころ剥がれ落ちている。階段を上り切った天辺で、切妻屋根の住宅がさらに奥へと続く道を示唆するように斜に構えたファサードを見せている。整然と区画された宅地に、同じような年代に建てられた同じような住宅が並ぶ風景が広がっている。男はそのなかのひとつの住宅を無作為に選んで侵入し、一家惨殺という凄惨な事件を起こす。その男、(豊川悦司演じる)坂口秋生は一家を惨殺する住宅に侵入する直前に別な住宅への侵入を試みているが、玄関が施錠されていたために断念している。この二つの住宅は同じ道路に面して建っているかのように撮影・編集されているが、実際にはまったく離れた別のロケ地で撮影されている。とあるインタビューで、監督である万田邦敏は、冒頭の階段について「最初の場面を撮影する家の辺りでたまたま見つけた」と語っているが(註1)、ここで語られている「最初の場面」は殺人事件の現場となった住宅ではなく、その前に坂口が侵入しようとして未遂に終わったほうの住宅である。坂口が気怠く上っていた階段。(どこにでもありそうなこの階段のロケ地を探し出すのもなかなか苦労したが...)それは横浜市青葉区の旧大山街道から長谷第二公園脇に向かって上がっていく階段である。住宅地のシーン(の一部)はこの階段を上り切った先に広がる横浜市青葉区あざみ野で撮影されている。坂口が道端ですれ違った中年女性に唐突に挨拶をするカット、それに続く、空を背景に屋根並みと電信柱と電線だけが映るカットまでがこの住宅地で撮影されている。空き地の遠景に送電鉄塔が見えるカット、殺人事件の現場となった住宅は、シーンとしては連続しているが、まったく離れた別な場所にロケ地を移して撮影されている。殺人事件の現場となった住宅のロケ地を探し出すのが、どうやら今回、建築映画探偵に与えられた「依頼」のようである。ある映画のロケ地を探し出し、分析せよという「依頼」は、外部からもたらされることもあるが、映画を見ている最中に内部から芽生えることもある。

 

容疑者が住んでいた木賃アパート

殺人事件の現場となった住宅を探す前に、容疑者である坂口秋生が暮らしていた住宅(のロケ地)を探してみたい。警察が坂口の部屋に踏み込むシーンがある。「危険物取扱」と掲示された、どことなく不穏な気配を漂わせる建物の陰、敷地奥の古びた二階建て木賃アパートが坂口の棲家である。ルーフに「蒲14」と印刷された品川ナンバーの警察車両数台が慌ただしく乗り入れるアパート前の地面は舗装されていない。いわゆる道路ではないのかもしれない。二階建てアパートは、一、二階ともに同じ間取りと思われる住戸が五つずつ並ぶ形式。警察車両が乗り付けた方に玄関はなく、一階は居間に面したアルミサッシ、二階はさらにベランダが端から端まで連続して取り付けられている。各住戸への玄関は敷地のさらに奥の裏側にあり、二階の住戸に行くための共用外階段がアパートの左右両端に付いている。一見なんの変哲もない古びた木賃アパートだが、ここまで潔く左右対称でシンプルな形式も意外に珍しい。玄関が並ぶアパート裏側のさらに奥の隣地は一段低くなった鉄道線路用地である。線路の向こう側に据えられたキャメラが、眼下を走り抜ける電車を捉えながらティルトアップし、左右の外階段から共用外廊下に上がり、両側から坂口の部屋に近づく警察官たちの動きを捉えるショット。アパートの裏側全景を真正面から捉えたこのショットがとにかく秀逸である。警察官たちが勢いよく踏み込んだ坂口の部屋に坂口の姿はなく、代わりに、もぬけの殻となった室内に点けっぱなしで放置されたテレビ画面に坂口の姿が映し出されている。河川敷の低平地にある公園の遊具にいた坂口を報道メディアの記者たちとカメラマンたちが取り囲んでいる。その河川敷のショットの背景の堤防の上にそびえるように大規模なマンションが映り込んでいる。多摩川沿いに建つ南六郷二丁目団地である。坂口の身柄が確保されたのは六郷土手河川敷公園ということになる。

話しが逸れたが、坂口のアパートのロケ地を探すための手がかりとなる要素を改めて整理してみたい。前面道路から見ると、アパートは手前の建物の陰の奥まった土地に建っている。手前の建物は倉庫か工場と思われるが、敷地内に道路がないことから、アパートはそれらと一団の敷地に建っていた可能性がある。間口が広く奥行のある、それなりに大きな敷地だろうか。アパートの左右の隣地には小規模なマンションらしき建物の外階段が映り込んでおり、アパートの背後には白いタワー状の物体が薄ら見えている。アパートの裏手の隣地は線路用地である。アパートと線路のあいだに道路はなく崖地になっており、線路はアパートよりも低い地盤を走っている。一瞬、映り込む電車はシルバーの車体にえんじ色(赤色?)のラインが入っている。首都圏の鉄道路線でえんじ色の線の入った車体は東武東上線か東武池上線だろうか。シルバーの車体に赤い線だとすると東急電鉄(東横線、田園都市線、多摩線、目黒線)だろうか。

映画の中で坂口の居住地は「川崎市川崎区中沢」とテレビ報道される。しかし、これは実在しない住所である。また、坂口により惨殺された家族は「大田区宮本に住む一家」と報道される。これもやはり実在しない住所である。ともに実在しない住所が提示されながらも、川崎区と大田区が多摩川を挟んで隣接しており、坂口の身柄が確保される多摩川河川敷が二つの区のあいだにあるといったように、二つの架空の地名は現実世界における地理的な位置関係を部分的に反映している。はたして坂口のアパートと坂口により惨殺される一家の住宅は川崎区と大田区にまたがる地域で撮影されたのだろうか。それとも川崎区でも大田区でもないのか。横浜フィルムコミッションがエンドロールにクレジットされていることも一瞬、頭をよぎる...

ひとまず、アパートの裏手を走る鉄道を東武線と仮定してみる。線路が周辺の地盤面より低い位置を走る区間、つまり高架区間でなく、踏切もない区間を探す。撮影に使われたアパートが残っていれば、Googleマップでそれらしい建物を線路脇に見つけることも不可能ではないだろう。しかし坂口のアパートが撮影当時すでにかなり老朽化していたことを思うと、すでに取り壊されて現存していない可能性も十分に考えられる。Googleマップで東武線沿いをしらみつぶしに辿ってみたが、それらしい敷地は見当たらなかった。さすがにお手上げだろうか...。街の構造において比較的変化しにくい道路や鉄道といった交通インフラと敷地との関係を念頭に、さらには木賃アパートに比べて耐用年数が長い、両隣に映り込んだ鉄筋コンクリート造マンション風の建物のファサードや避難階段も目に焼きつけて、今度は東急電鉄の各路線をGoogleマップでしらみつぶしに辿ってみた。時折りストリートビューで地上にダイブしながら線路が両側の地盤面より低い区間を注意深く辿っていると、東急田園都市線の宮崎台駅から宮前平駅のあいだにそれらしい敷地があるではないか!しかし肝心のアパートがない。アパートがあったかも知れない場所にはマンションが建っている。そのマンションと前面道路の間には民家があり、敷地は旗竿地になっているようにも見える。個人情報に関わってくるので具体的な場所についての言及は控えるが、前面道路と敷地の関係、敷地と裏手を走る線路の高低差、線路の反対側にあるマンションの白い塔屋、両隣のマンションの非常階段と開口部の構成。アパートがすでに解体されてマンションに建替えられてしまったと仮定すれば、それ以外の条件は合致している。坂口秋生が住んでいたアパートは、すでに取り壊されて現存しないが、確かにこの敷地に建っていたに違いない。

 

ひとつの住宅/ふたつの事件

坂口が住んでいたアパートが特定できたところで、いよいよ坂口秋生が一家を惨殺した事件現場となった住宅の調査に向かおう。坂口はこの住宅の玄関に向かって右手方向から近づいてくる。シャッターが開け放たれたガレージにはBMWが停まっている。ガレージのシャッターが開放されたままであることを考えると、おそらく住人の誰かが在宅しているのかも知れない。「井上」と書かれた表札の脇の門扉をあけた坂口は玄関の前で一瞬立ち止まり、玄関脇にある子供用の自転車に目を向ける。住人の誰かが車で帰宅したばかりなのか、鍵を持たない子どもの帰宅を待っているのか、運悪く、玄関は施錠されていない。玄関から土足で上がり込んだ坂口を帰宅した娘と勘違いして呼びかける母親らしき女性の声が奥から聞こえる。坂口はその声の方に不気味なほどゆっくりと足を進める...。しばらくして、ランドセルを背負った小学生の娘が、坂口がやってきたのと同じ方向から走って帰ってくる。玄関から家に入った娘は、家の中の異変か不審者に気づいたのか、慌てて玄関から屋外に逃げ出そうとするが、坂口により家の中に引っ張り込まれてしまう。わたしたちの目は、門扉の外にいるキャメラが映す閉じていく玄関と開きっぱなしの門扉を見つめることしかできない。さらに時間が経過した夕暮れに、今度は一家の主人である父親が、坂口が来たのとは反対の方向から歩いて帰宅し、郵便受けに挿さったままの新聞をとり、呼び鈴を鳴らす。開きっぱなしの門扉を過ぎて玄関前に立った父親はドアノブに手をかける。誰も呼び鈴に応じないことや、施錠されていない玄関に不信感を抱きつつ、父親は家族に声をかけながら玄関に入る。先ほどと同様に、門扉の外側にいるキャメラは、閉じていく玄関扉を映しながら、少しズームアウトして、門扉と表札とその奥にある、二度と住人によって開かれることのない玄関扉を私たちの目に晒し続ける。

『接吻』では家族三人が同時刻に同じ場所に居るシーンは描かれない。平日の昼間から夜にかけての出来事だったこともあろうが、母親はおそらく外出先から帰宅したばかり、娘は小学校から帰宅したばかり、そして父親は夜に会社から帰宅したばかり、といったように三人がそれぞれバラバラの外出先から、バラバラの時間に帰宅する。そんな家族のありかたが、家の内部と外部の移動の結節点である玄関において時間差で描かれている。リビングダイニングなど、いわゆる家族団欒の空間も風景も描かれることはない。

 

もうひとつの事件現場

この住宅が、実はもうひとつの凄惨な殺人事件の現場であったということをご存知だろうか。『接吻』の撮影から遡ること年ほど前、奇遇にも夫婦と一人娘というまったく同じ家族構成の一家があるひとりの男により襲われたのだ。

有田守(浅野忠信)と仁村雄二(オダギリジョー)は、職場であるおしぼり工場の社長・藤原(笹野高史)のマイホームでの食事会に招待された。藤原が妻と一人娘と三人で暮らしていたその住宅が、坂口が事件を起こした住宅とまったく同じ建物なのである。食事会の数日後、有田はこの住宅に侵入し、娘を除く社長夫婦を撲殺する。そう、黒沢清監督の『アカルイミライ』(2003年)に登場するあの住宅である。

『アカルイミライ』に、この住宅は二度登場する。一度目は、有田と仁村が藤原社長のマイホームで食事会をするシーン。二人は庭に面したリビングダイニングで藤原夫妻と彼らの一人娘と食卓を囲む。食事会がお開きになると、有田と仁村は正面玄関から表通りにでてくる。木下千花が指摘するように(註2)、玄関が抑圧される傾向にある黒沢映画にしては珍しく玄関が撮影されているわけだが、有田と仁村は表通りを右方向に少し歩いたところで振り返り、庭に面したリビングダイニングのコーナーウィンドウの向こうにいる藤原たち一家の様子を見つめる。

万田は、家族が同時刻に集うリビングダイニングを撮影せず、それぞれに行動する家族が時間差で通過する玄関部分のみを撮影した。一方、黒沢は、家族団欒の象徴ともいえるリビングダイニングを撮影している。しかし、のちに『トウキョウソナタ』でも描かれるように、黒沢的家族は同じ場所、時刻に居合わせるにもかかわらず、離れ離れでバラバラな印象を醸し出している。それはさておき、庭に面したコーナーウィンドウ、その向こうに見えるリビングダイニング、その奥の開かれたままの扉とその向こうにある階段(を上る娘の後ろ姿)のすべてが見通せる軸線を伸ばした先が表道路が交わる一点にキャメラを据えて撮られたこの住宅のショットにはまったく隙がない。このショットは正面玄関とは違う角度からこの住宅を見ているわけだが、敷地の南東角にある庭の裏木戸にも「藤原」と書かれた表札があるため、住宅のオリエンテーションが若干混乱しやすくなっている。住宅の内部を窺い知れない玄関にこだわった万田に対して、黒沢はコーナーウィンドウから住宅内部の奥までを見通せる視線の抜けにこだわったという対比も興味深い。ちなみに『接吻』では坂口が犯行後に閉めたのか、コーナーウィンドウのカーテンは完全に閉め切られたままである。

この住宅が『アカルイミライ』に二度目に登場するのは、仁村が藤原に対する殺意とともに鉄パイプを持って戻ってくるときである。仁村は寝静まった住宅に玄関から侵入する。『接吻』の坂口のときと同じように、あろうことか門扉は開いたままで、玄関も施錠されていない。果たしてこの住宅の玄関は鍵が壊れているのだろうか?いやいや、犯人が殺人のあとに施錠せず、門扉も閉めずに現場を後にしただけと考える方が自然か。『接吻』において坂口が通りから住宅の敷地に入ろうとする直前、キャメラが少しティルトアップする。そのとき、「フランク・ロイド・ライトが初期にシカゴのオークパーク周辺で多く作った一連の住宅のファサードを表面的にコピーして大手の住宅メーカーが販売したに違いない」(註3)と建築家・鈴木了二が言うところの特徴的なコーナーウィンドウと二階部分の軒天まで到達した縦長窓が並ぶ外観が映り込むが、キャメラが仰角になっているため、住宅のファサードの両端が上方に向かって窄まった三点透視のような見えかたをする。一方、『アカルイミライ』で有田と仁村が表通りから住宅を振り返るショットでは、十分な引きがとられた場所から、地面に対して水平に固定されたキャメラが捉える住宅が鈴木了二が指摘するように建築写真的な構図を獲得し得ている。これらのショットもある意味で二人の監督の違いを浮き彫りにするが、ふたつの事件現場が同じ建物であることを保証してくれる貴重なショットであると言えるだろう。

 

ふたつの映画のあいだのもの

坂口が一家を惨殺した住宅と有田が社長夫婦を撲殺した住宅。このロケ地はいずれの映画のエンドロールにおいても明示されない。しかし、それは『アカルイミライ』を建築映画探偵として調査していたときに発見された。東京の都心に近く、それなりの規模の庭付き一戸建てが建つような品格の住宅地。それでいながら車がギリギリすれ違えるかどうかの狭い幅員の道路がT字路に交わる角地に建っていることくらいしか手がかりはなかった。住宅に侵入した仁村が、二階の寝室で自分が到着する前に行われた惨劇の生々しさを目撃したシーンの直後に、ひとり生き延びた娘(有田が逃がした?)がパジャマ姿のまま震えながら歩くトンネルのシーンがある。そのロケ地が文京区大塚の切支丹坂の下にあるアンダーパスであることは比較的すぐに特定できるたが、少女が歩ける距離を忠実に反映しているのではないかという予想に反して、この住宅のロケ地は文京区ではなかった。『アカルイミライ』のメイキング映像『曖昧な未来』も取り寄せて見てみたが、この住宅のロケ地が直接わかる手がかりは得られなかった。しかし、道路に立って振り返り、藤原たちがいるリビングダイニングを見つめる有田と仁村の背後に映り込んだ緑色の背の高いフェンスが学校施設のものらしいことはわかり、のちにロケ地を特定する決め手になった。先にも引用した建築家・鈴木了二と黒沢清の対談(註4)のなかでは、この住宅のロケ地がかつて戸建て住宅として建てられたものがその後売却されて撮影用に貸し出されるハウススタジオであることについては語られているが、具体的なロケ地については触れられていない。そこで東京都内のハウススタジオを片っ端からインターネットで検索し、住宅地にあること、T字路に面した角地にあること、隣地に学校施設があること、といった立地条件を満たす物件を絞り込み、Googleマップとストリートビューによる「現地調査」を行い、周辺環境と照らし合わせる作業をしたところ、条件に合致するハウススタジオが杉並区永福町に見つかった。ハウススタジオとして貸し出されるものであるため、内観・外観写真、間取りなどが掲載されたウェブページも発見できたため、確信が得られたとともに、ふたつの映画における俳優たちの動線や視線の違いなども精度高く分析することが可能となった。

『接吻』も『アカルイミライ』もともに東京を舞台にした映画で、違う時期に撮影されている。よく撮影に使われる物件であれば、異なる複数の映画のロケ地になることもあり得ない話ではないだろう。しかしそれが万田邦敏監督と黒沢清監督の映画となると単なる偶然として見過ごす訳にはいかない。万田邦敏監督が黒沢清監督の立教大学の後輩で、黒沢監督の長編デビュー作品『神田川淫乱戦争』で助監督を務めたことは日本のインディーズ映画界では知られた事実(註5)である。そう考えると黒沢監督が一家惨殺の事件現場のロケ地とした住宅を、万田監督は意図的に自分の映画における一家惨殺の事件現場として設定したと考えても良さそうだ。しかし、二人がその事実について公の場で語り合ったことはあるのだろうか。その意図はいつか直接、万田監督に聞いてみたいところだが、結果的に、二人の映画監督の家族の描きかた、住宅の撮影の仕方の違いの一端が対比的に浮かび上がったことは興味深い。

ちなみに『接吻』において、事件現場の住宅の隣の空き地の遠景に送電鉄塔が見える。その足元には神田川が流れている。それをずっと下流にいくと旧淀橋変電所跡地がある。そう、『神田川淫乱戦争』(監督:黒沢清/1983年)のロケ地である。

 

 

(註)

 

(註1)シネリフレ『接吻』万田邦敏監督インタビュー。http://cineref.com/2006-2011/kaiken/manda.html (2023年10月23日アクセス)

(註2)木下千花「占有者たちの空間」(『ユリイカ 特集=黒沢清』20037月号に収録) 木下千花は、黒沢清の映画において「玄関という内部と外部との緩衝地帯が演出の上で強調されることは皆無といってよい」という興味深い指摘をしている。その上で『アカルイミライ』は「玄関の抑圧という内的規範を踏まえたうえでそれを覆した作品」であると述べている。

(註3、4)『建築映画/マテリアル・サスペンス』(鈴木了二/2013年/LIXIL出版)に収録された黒沢清監督と建築家鈴木了二氏の対談において、『アカルイミライ』の事件現場となった住宅のロケ地について元々は住宅だったものが転売されて撮影用貸しスタジオになったものであるということが語られている。具体的なロケーションについては触れられていないが、その住宅が撮影用貸しスタジオだったということも、この住宅のロケ地を特定するヒントになった。

(註5)黒沢清監督と万田邦敏監督の対談「私は絶対に成熟しない」(『ユリイカ 特集=黒沢清』20037月号に収録)

 

 

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『接吻』(監督:万田邦敏/2008年)

(せんだいメディアテーク映像音響ライブラリー所蔵)

 


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