コラム 2023年11月24日更新

一本の(  )から考える○○のこと:ほんとうの世界


髙橋梨佳(たかはし・りか|NPO法人エイブル・アート・ジャパン東北事務局スタッフ

 

 

《映画・映像・動画......動くイメージに囲まれた日々に少し立ち止まりながら考える》というこの連載企画の依頼をいただいたとき、ふと思い浮かんだのは「バリアフリー上映」の活動だった。

わたしは就職をきっかけに仙台で生活をはじめた2019年から2022年にかけて、せんだいメディアテーク(以下、メディアテーク)のバリアフリー事業のスタッフとして所属していて、そのときに主に担当していた事業のひとつがバリアフリー上映だった。バリアフリー上映は、だれもが気軽に映画を楽しめるよう、音声解説や日本語字幕、託児サービスのある映画の上映会として定期的に開催され、音声解説と日本語字幕は、メディアテークで活動するボランティアのみなさんが制作していた。

この事業を担当することになって、初めて音声解説(目の見えない人に向けて、登場人物の動きや風景など視覚的な情報を音声で補足するもの)や日本語字幕(耳の聞こえない人に向けて、セリフだけでなく環境音など映像の中のさまざまな音を文字で表示するもの)というものがあることを知り、最初は「障害のある人のために情報をサポートするためのもの」として、手順を覚えたらその通りに作っていく作業のようなものを想像していた。しかし45人のボランティアさんがメディアテークの7階にある「スタジオ」という場所に集まって活動する場に立ち会うようになり、個々の作業はあるけれども、一人ひとりの考えを持ち寄って「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤しながら一つのものを作り上げていく過程に惹かれていった。

たとえば音声解説では画面の奥から手前に人が歩いてくる場面をどのような言葉で伝えるのか、日本語字幕ではある晩に雨がしとしと降る風景をどのような字幕で表示するのか、映像の中で起きていることや聞こえてくる音を言葉にして伝えていく。そこでは、どのような表現で伝えるのが良いのか、一つひとつの言葉について納得のいくまで話し合いがおこなわれる。それはとても繊細に言葉を練っていく作業だった。しかし情報を補足していく中で、「なにをどのように伝えるか」だけではなく、見る人の想像力に任せ、「なにを伝えないか」という視点も大事にしていた。また一本の映画を繰り返し見るうちに、それまでまったく見えていなかった、だれかのささいな行動や風景にふと気づく瞬間がある。いま目の前の画面に映っていることやそこから聞こえてくる音について描写していたはずなのに、「いま、Aさんがとった行動なんだけど、これって、Bさんへの好意的な気持ちの表れなのでは?だとしたら、この行動について伝えるべきではないか」と、そこには映っていないもの、たとえばだれかの心の機微や風景に流れる年月の長さなどが浮き上がってくることがあった。そんなふうに上映会本番まで何度も立ち止まりながら話し合いを積み重ねていく中で、一つひとつの表現に悩みながらも、だれかと見ることで見えてくる、さまざまな気づきを楽しんでいる風景がわたしはとても良いなと思った。

ある日のこと、次のバリアフリー上映会に向けて、目の見えない人に制作途中の音声解説を確認してもらう試写会のため、会場の設営をしていたわたしは、見えない人には映画の音と音声解説が聞こえていれば大丈夫だろうと、見えない人の背面にディスプレイを設置してしまい、ボランティアさんから「一緒に映画を見るのに何やってるの!」と怒られたことがあった。そのときに気づいたのは、この活動は「障害のある人のために情報をサポートする」ことの手前に「一緒に映画を見ること」があり、そのために向かっているということだった。なにかを提供する側と提供される側という一方向ではない関係性について、問い直された出来事だった。

最近は、映画を早送りで見る人もいるというし、わたしも日々たくさんの映像に囲まれて生活する中で、それらをただ消費することに忙しくなっている。そのとき、見えない人や聞こえない人に映画を伝えようとするこの活動は、一本の映画を丁寧に見ること、繰り返し見ることで見えてくること、集まった人たちとあれこれ言葉を交わしながら見ることの豊かさに立ち返らせてくれるものだと思う。

 

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前置きが長くなってしまったけれど、ここからやっと、ある短編作品について書いてみたい。

昨年の夏ごろ、「カザフスタンのアーティストの卒業制作で、自閉症についての短編アニメ。たぶん興味があると思うから送るね」と、友人がYouTubeのリンクを共有してくれて見たのがMetamorphoses(作:Aitolkyn Almenova/2021年/英語字幕・スペイン語字幕)だった。家で映画を見るときは集中力が必要で、長編になると重い腰がなかなか上がらないけれど、短編ならいま見てみようと思い、YouTubeの再生をはじめた。

物語は動物たちが人間のように暮らす世界。公園の片隅で黄色いマントのような服を着たオオカミの子どもが、ひとりで黙々と石を拾っている。集めた石を丹念に手でたしかめる姿が、わたしの姉(彼女もまた自閉症である)と重なった。7歳になった少年は、スプーンを使ってご飯を食べることもままならず、周囲の環境音に敏感で、さまざまな音にあふれた街中を歩くことに耐えられなくなってしまう。母オオカミは、そんな子どもの様子に戸惑い、周囲の冷たい視線や心無い言葉にいつも不安げな表情を浮かべている。ある日、街から飛び出して森に駆け込んだ少年は、見つけた人はあらゆる願いが叶えられるという「穴」の中に迷い込んでしまう。

(ここから先は、作品を見てから読まれることをおすすめします。)

 

動物たちが人間のように暮らす物語の世界に安住していると、ある場面から不思議な感覚に包まれていく。見終わってすぐ、そのことについて友人に感想を伝えた。あのときの不思議な感覚は何なのか、その場面を振り返りながら少し考えてみたい。

オオカミの少年が眠る部屋。少年は、昼間と同じ黄色いマントのような服を頭から被ったままベッドで眠っている。少年の様子をのぞきに来た母親は、彼が眠るベッドに腰かけ、その子の寝顔から床に目を落とす。そのとき、ベッドサイドの棚にはオオカミの顔を象った「仮面」のようなものがおもむろに置かれ、ベッドにはすやすやと眠る人間の男の子の姿があった。これまでオオカミだと思っていた子どもは、オオカミの仮面を被った人間の男の子だったのだ。それまで動物たちが暮らす世界に何の前触れもなく人間の少年が現れたことに驚きながら、わたしは少年を「この世界で特別な存在」として見ていた。その一方で、この作品を共有してくれた友人は「彼にとっては周りの人こそ変わっている」という視点で見たという。そのとき、少年が見ている世界と周りの動物たちが見ている世界が大きくちがうとしても、なにが普通でなにが普通ではないのかを誰も決めることはできないと思った。

この作品を見て感想を伝えてくれた発達障害(註1)のある友人は「わたしも幼いころは自分と周りがちがう世界のように感じていた」「自分の手元に夢中で、周りの声が自分という膜を張った状態で聞こえる感覚だった」という。わたしは、友人が「世界」という言葉でそう話してくれたことが印象に残った。また友人は、少年の「仮面を被る」という行為が普段の「擬態化」に重なったという。「擬態化」は、発達障害のある人のコミュニティやその周辺でよく使われている言葉で、「定型発達の人(発達障害のない人)のまねをすること」を意味するそうだ。友人は「普通に生きていると怒られることが多いので、周りの定型発達でうまくやっている人のまねをして学ぶばかり」という。

その後、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、アスペルガー症候群(註2)の娘、エロディとの12年間を撮影した蕭美玲(シャオ・メイリン)監督のドキュメンタリー映画『平行世界』(2022年)を見る機会に恵まれたとき、ふたたび友人の言葉を思い出していた。上映後の舞台挨拶で、来場者から『平行世界』というタイトルに込めた想いについて聞かれた監督は、「自閉症やアスペルガー症候群の人たちは別の世界に住んでいるといわれる」ことをその一つに挙げていた。わたしはエロディが「メイメイ」と名付けた羊のぬいぐるみをとおして、母親である監督や他者と言葉を交わす場面を思い出しながら、『Metamorphoses』の少年にとってのオオカミの仮面とエロディにとってのメイメイは、別の世界と交信するための装置のようなものかもしれないなと想像した。

ある人の「別の世界」は他のだれかにとっては突拍子もなく、現実離れしているように感じることがあるかもしれない。わたしは姉が突然、「天使の歌が聞こえる」と言って泣き出すとき、姉を心配しつつも、なんだか少し怖いのと大げさだなぁと呆れてもいて、心のどこかでその声の存在を疑っていた。『Metamorphoses』では、周りの人が動物に見えているのはオオカミの少年だけで、「ほんとう」はみんな人間なのかもしれないし、少年が迷い込んだ穴の中でさまざまな姿に変わるのは、オオカミにも人間にもなりきれない彼の心の葛藤を描くための「たとえ話」だと考えることもできるだろう。けれど、少年が見ている世界は、周りの動物たちが見ている世界とこれほどちがうのだということを示すための「つくりもの」ではなくて、ひとつの「ほんとう」の世界なのかもしれないと、わたしは思う。姉にもまた、わたしには見ることができない別の世界がたしかにあるのだ。

 

わたしはいま、主に仙台市を拠点に、障害のある人たちと創作をしたり、からだを動かしたり、知りたいことを学んだり考えたりする場をつくっている。その中で「普通」とちがうとされてきた自分の特性や経験について、だれかに知ってほしい、話してみたいという声を聞くことがある。でも、なにもないところからどのように語ることができるだろうか。

発達障害の当事者で研究者の綾屋紗月さんは、アスペルガー症候群の診断名を得て同じ仲間を見つけたことで「自分の足場ができたと思えた」(註3)一方で、「専門家からも当事者の仲間からも、『やっぱりあなたはアスペだね』という言葉で、自分の特徴が絡みとられていくことに疑問を持ち始めていた」(註4)という。わたしは『Metamorphoses』のような正解も不正解も問われない物語を媒介に、だれかに規定されることなく、それぞれの内側から見た「ほんとう」の世界を、自分の言葉で語ることのできる場所がつくられるのではないかと考えている。

 

 

(註)

 

(註1、2)発達障害者支援法第二条より、発達障害は「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、その他これに類する脳機能障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」と定義されている。https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/main/1376867.htm (20231123日最終アクセス)

(註3)『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』(著:綾屋紗月、熊谷晋一郎/2010年/日本放送出版協会)88p

(註4)3に同じ、93p

 

 

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『Metamorphoses』(作:Aitolkyn Almenova/2021年/YouTubeで公開中)


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