コラム 2023年12月15日更新

一本の(  )から考える○○のこと:メディアの〈怪異〉/〈怪異〉のメディア、あるいは映画『リング』の子どもたち


茂木謙之介(表象文化論、日本近代文化史/東北大学大学院文学研究科准教授)

 

 

1998年に公開された映画『リング』(監督:中田秀夫監督/脚本:高橋洋)は、公開から四半世紀を閲(けみ)した現在においても所謂(いわゆる)「Jホラー」の記念碑的作品として度々参照される映画である。例えばごく最近でも、雑誌『BRUTUS』(991号/202391日)の特集「めくるたびに怖くなるホラーガイド444」で同作は、5段階評価のうち堂々の最高評価「5.0怖」を獲得するなど、その評価は今なお高く、2019年には『ニューズウィーク日本版』の「世界が尊敬する日本人100」に大坂なおみやイチロー、草間彌生などと肩を並べて『リング』シリーズのヒロイン怨霊・貞子がランクインし、また2022年にはシリーズ第9作目となる『貞子DX』(監督:木村ひさし)が公開されているなど、リングワールドはいまだに拡大を続けている。

 

さて、第1作目の映画『リング』の構造はシンプル極まりない。「見てしまった場合1週間後に見た当人が死ぬ呪いのビデオテープ」があり、それは当該ビデオをダビングし、他の人に見せない限り免れ得ず、そうしなかった場合はブラウン管テレビから山村貞子が登場して対象を呪殺する、ただそれだけである。物語には適宜その呪いの構造を絶えず確認し、解き明かそうとあがく人間と、それを振り切って易々と人を死に至らしめる強力な怨霊とがいるだけといってもいい。

単純極まりなく見える同映画だが、一方で巧妙な仕掛けが随所に見られ、視聴したものに何かを語りたくなる欲望を惹起する映画でもあり、特に感染系のホラーの知名度を上げた映画としてみたとき、パンデミックを経験中の我々にとってさらに様々な論点が浮上し得ると考えられる。本稿では、この映画について「メディア」を起点にして、原作と海外展開したバージョンを適宜参照しつつ読解を試みてみたい。

 

映画『リング』の原作は周知のごとく鈴木光司による小説『リング』(1991年/角川書店/以下「小説『リング』」)である。当初そこまで認知されていなかったものの、1994年の角川ホラー文庫のレーベル第1期に所収後徐々に話題を呼び、映画化を迎えることとなった。また、ゴア・ヴァービンスキー監督作品の『ザ・リング』(原題:The Ring2002年/以下「ハリウッド版」)は、興行収入1億3000万ドル近いヒットを記録し、「和製ホラーと米国映画の出会いの好例を示した作品」と評価され、「和製ホラーの海外進出の先駆け」と位置付けられている(註1)。

これらの3つの『リング』においては、それぞれに差異があるが、映画『リング』において「貞子の怨念そのもの」と位置付けられた「呪いのビデオ」を媒介として呪いが拡散し、人びとを死に追いやっているという共通点を持つ。2023年の現在においてVHSのテープはほとんどデッドメディアになっているといっていいかもしれないが(註2)、少なくとも公開された20世紀末の日本社会の人びとにとってはVHSが最も身近な映像メディアの一つであった。ここで映画『リング』を論じるに際して「メディア」を考えることの意味が朧(おぼろ)げに見えてくる。そもそもこの呪いはメディアなくして始まらなかったし、メディア的であるということがこの呪いの一つの見逃しがたい特性でもあるのだ。

映画『リング』には、様々なレベルのメディアが内在しているが、手始めに検討しておきたいのは物語内容に中心的に関わる、様々なホラーメディアの表象(註3)である。

まず、物語の核となる「呪いのビデオ」については、いうまでもなく「不幸の手紙」というホラーメディアにその範をとっている。所謂「チェーンレター」が日本に輸入されたのは1922年と言われ、当初は「幸運の為に」という手紙を受け取った者が同様の手紙を他の誰かに送れば幸運が、送らなければ悪運がやってくるとされるものであった(註4)。それが誰かに送らなければ不幸が降りかかるという「不幸の手紙」として大流行を見たのは1970年代であったとされている。コピーを作成して不幸が増殖していくという様式は、まさに「呪いのビデオ」と同じものである。

映画『リング』は、この「呪いのビデオ」について女子高校生が噂するところにはじまり、終わりもまた「呪いのビデオ」の性質についての噂話の引用でしめくくられている。テレビ局の記者として登場し、「呪いのビデオ」を見てしまう浅川玲子もはじめはこの噂話の取材から一連の出来事に踏み込んでいくことになる。呪いの主体である貞子がVHSを媒介として広がっていくメディア的な存在であるように、その呪いを受ける玲子もまたメディア関係者という相同性を有している。両者の相同性についての検討は後に譲るとして、ここではこの「不幸の手紙」に似た「呪いのビデオ」について""というメディアが介在しており、いみじくも同時代にはそれに全くふさわしいことばが与えられていたことに注目したい。そう、「都市伝説」である。

「都市伝説」という語は1988年に日本語訳されたJ.H. ブルンヴァンの『消えるヒッチハイカー--都市の想像力のアメリカ』(大月隆寛ほか訳/新宿書房/1988年/1997年に新装版)によって広く知られることとなった。同時代の、しかも身近なところに展開した出来事について語られるうわさ話である都市伝説は、口裂け女や人面犬といった著名な〈怪異〉についての語りに枠組みを与え、時にマスメディアにも取り上げられつつ巷間(こうかん)に流布していた。物語を枠づける要素の同時代性をこのホラーメディア表象からも取り出せるのである。

さらに、物語の中に引用される「心霊写真」も見逃しがたい。映画冒頭の犠牲者となる若年の男女4人のグループも、「呪いのビデオ」を見た後の玲子も、ともに顔が歪められるかたちで写真に収められ、それが貞子に呪われたことを証するものとなっている。1980年代の後半には所謂「心霊写真」ブームが生起し、各種の雑誌には心霊写真の投稿が相次ぎ、それらについて霊能力者が本物か否かを判定するという一種のメディアイベントが盛り上がりを呈し、人びとの興味を集めていた。現実を映すという建前のものに不可視の霊が映りこむという点において霊の"実在"のリアリティを向上させたホラーメディアの代表選手と言っていいだろう。

他にも明治期のオカルトに関わるスキャンダルとして名高い「千里眼事件」も物語の構造に浸潤しているが、これについては既に様々に触れられているため割愛し、日本近代文学研究者の一柳廣孝が科学とメディアが交差する事件であったと指摘していたことのみに言及しておきたい(註5)。

以上のように、様々なホラーメディアについての表象がこの映画には織り込まれているのだが、重要なのは、これらのホラーメディアは、当時において既に使い古されたものであり、むしろ陳腐でさえあった、ということである。前述のように、「不幸の手紙」は70年代の、「都市伝説」「心霊写真」は80年代のそれぞれ流行であり、原作小説の段階でピークを越え、映画の時点では既にトレンドを過ぎて10年を経ようとしていた状況だったのだ。

だがしかし、それらのホラーメディア表象が実際に出来(しゅったい)するとなると話は変わってくる。少なくとも物語内においてそれらの怪奇現象は実際に起きていることであり、それゆえ怖い。日本近代文学研究者の吉田司雄("吉"は正しくは"土"のしたに"口")「小中千昭や高橋洋は「心霊写真」ブームが通り過ぎたあとだからこそ、豊富に残った心霊実話や心霊写真の分析をし、人間ならざる者の怪異を映像化するためのマテリアルな工夫を積み重ねていった」と指摘しているが(註6)、まさにこれらのホラーメディアは陳腐化した表象ながら、それを敢えて運用することによって恐怖を生み出しているのである。すると、今度はそれらの表象が観客にとってリアルに感じられる映像の仕掛けが問題となってくるが、そこにもまたメディアが関わることとなる。

映画の冒頭、暗い海面にタイトルが表示された後、画面は徐々に歪んでブラウン管テレビのノイズへとシフトし、第一の犠牲者たちの語らう部屋のテレビ画面へと移り変わっていく。さらに第一の犠牲者が出た直後の場面では、テレビ番組の集録シーンに切り替わるが、そこでは「呪いのビデオ」についての都市伝説を語っている女子学生がうっかりカメラレンズを見てしまったことをカメラクルーにたしなめられるシークエンスが映し出される。

これらの仕掛けは極めて巧妙である。画面の乱れや「カメラ見ないで」というクルーのツッコミは、観客に「いま観ているのは映像にすぎないのだ」と思わせるに十分だろう。いわば観客が一方的に安全圏から映像を消費することを促す構成が積極的に採用されているのである。

しかし、既に我々は知っているように、映画『リング』における貞子の恐ろしさは二次元の映像から三次元の世界へとその境界をやすやすと侵犯し、人を死に追いやってしまうことに他ならない。実体を以て迫る怨霊の様相はその後の「Jホラー」にも踏襲されるものとなったが(註7)、少なくとも映画の世界内における最後の犠牲者・高山竜司が、ブラウン管テレビの画面から出てきた貞子と目と目を見合わせて狂死したときの恐怖は、そのまま安全圏から消費していたはずの観客のものでもあった。画面を見せられていたが故に獲得していた安心感など仮初のものでしかなかったことに気づかされるのである。

しかも、観客はその時点で、既に「呪いのビデオ」を「観てしまって」いる。伊豆のコテージで玲子が「呪いのビデオ」を確かめようとしたとき、ビデオが始まるまではビデオデッキを弄(いじ)る玲子の姿とテレビとを俯瞰的に映す画角であったのに、ビデオが始まるや否や玲子と視線を共有しているかのように画面の正面で「呪いのビデオ」を観る構図になる。ビデオ終了後にまた俯瞰に戻って呪われた後の玲子の姿とともに、背後にしれっと登場する貞子の姿を玲子とともに幻視し、大音響でかかってくる貞子からの電話を耳元で聞くかのようなボリュームで聴くという映像経験をしている。つまり観客は、期せずして「呪いのビデオ」を玲子と同時に鑑賞し、貞子の呪いをかけられていたのである。

通常の映画であれば、映画のなかでそういうワンシーンの映像を見た、ということだけで終わるはずなのだが、前述のように「映像を観ていただけ」という安全圏からのメディア消費と思われた経験は貞子によって易々と侵犯されてしまう。三次元という安全圏はおろか自らの親密圏に侵食してくる可能性を示唆された結果、映画を観てから1週間のあいだ、心のどこかに不安を抱えていた観客は少なくないのではないか。このようなメディアの特性を生かした仕掛けが、二次元から三次元を侵食する貞子の恐怖を最大化する装置となっているのである。

この二次元が三次元を侵犯する様相についてはハリウッド版に共有されている。監督のヴァービンスキーは、インタビューにおいて「テープの中の世界をテープの外の世界に持ち込みたかった」と述べ(註8)、その姿勢については映画『リング』の脚本を担当した高橋洋も「映画でしか描けぬものを彼ら作り手たちが志向し続けた」「オリジナル版に携わった私たちの志が届いた」として絶賛している(註9)。

以上のように、ホラーメディアの表象・メディア的な呪い・メディア関係者としての玲子・テレビ画面を観ているかのような感覚とそれを突き破る貞子という、様々なレベルでメディア性を駆使する映画として『リング』はある。その上で重要なのはそもそもメディアとは「媒体」である、ということである。媒体としてそれが一体何を媒介しているのか、ということに思考をめぐらせねばなるまい。

 

小説『リング』と映画『リング』の決定的な違いの一つとして、怨霊・貞子の生物的な性差がある。小説において貞子は「男性仮性半陰陽」とされ、両性具有で女性の身体ながら男性の性染色体をもち、子どもを産むことが叶わない存在として形象されている。それに対して映画では基本的に女性として描かれ、例えばアメリカ文学者で映画研究者の西山智則は、男性中心の社会で「沈黙を強いられてきた女」の代表として「女たちを蹂躙してきた男たちを震えあがらせ」たとし、その原型として近世女性幽霊の「お岩さん」を挙げている(註10)。京極夏彦も貞子のデザインを「大変秀逸」とし、その理由を「話が通じないという優れた原作の怖さを、伝統的な幽霊コードの系譜をきちんと踏襲して表現している」からと位置付けている(註11)。さらにハリウッド版について、近現代文学研究者の久米依子は、日本版の貞子に該当する怨霊・サマラが少女の姿となったことに注目して以下のように論じる。

 

新たな脚色によって、超能力者であるがゆえに平穏な家庭や両親の愛に恵まれず、悪霊化してしまったかわいそうな少女の遺恨が観客に容易に理解されることになった。その意味では、近代的子ども観や、家族の神話パラダイムをうまく作動させた映画だったといえるだろう。(中略)こうして『リング』は〈産めない女性の悲劇〉から〈愛されない子どもの悲劇〉へと転じ、世界中に受け入れられて「増殖」することになった。(註12

 

簡単に整理するならば、映画『リング』においては抑圧された女性たちの恨みを体現し、男性社会への異議申し立てをする女性幽霊の批評性が論じられ、ハリウッド版については愛されない子どもの悲劇という評価がなされてきたといえる。ともに非常に興味深い指摘だが、ハリウッド版を通して考えたとき、そもそもその元となった映画『リング』においても「子ども」という存在が徹底してクローズアップされていたことには注目すべきだろう。以下、「他者としての子ども」の恐怖、という観点を導入してメディアに運ばれる〈怪異〉の内実について考えてみよう。

さて、映画『リング』に登場する子どもたちは非常に不気味な様相を有している。玲子と竜司の息子にして、期せずして「呪いのビデオ」を観てしまう浅川陽一は、物語に登場する時点からして十分に不気味な存在である。「呪いのビデオ」によって死んだ従姉妹の大石智子について「若くても死ぬの?」と玲子に問いかけるほか、「智ちゃん呪いのビデオ見たんだよ」と誠に正鵠を射た発言を展開し、玲子を動揺させる。また、物語冒頭に貞子の呪いで死ぬ智子は、死後陽一に「呪いのビデオ」を見せさせるよう仕向けていたとされ、これまた子どもによる恐怖の一端を確認できる。

思えば怨霊・貞子もそもそもは人の子どもであった。霊能力者の母・山村静子と、研究者の伊熊平八郎の間に生まれた彼女は、母親にその力を恐れられ、同じく彼女の力に恐れをなした父親に殺され、井戸に放り込まれることになる。いわば親にとっての恐るべき子どもとして貞子はいるのだ。

物語の終盤、井戸の中で貞子を探し、呼び求め、水底から貞子に腕を掴まれてもなお恐れることなく遺体を抱き締める玲子の表情に恐怖はない。また、引き上げられた貞子の頭蓋骨も涙をたたえるかのように眼窩から液体を滴らせ、両者の親密な接触はあたかも聖母子像を思い起こさせるかのようなビジュアルを呈する。まさに親によって殺害された子どもとしての貞子を、母親としての玲子が承認し、愛護するかのような、疑似の親子関係がここに成立しているといってもいいだろう。思えば、山村静子―伊熊平八郎―山村貞子という親子関係と、浅川玲子―高山竜司―浅川陽一という親子関係は、「恐怖の子ども」がいるという様相と共に夫婦間の婚姻関係の不在(乃至[ないし]変更)という点において実際パラレルなものだった。つまり、そもそも玲子は貞子の母親に擬せられ得るような存在でもあったのだ。そしてその瞬間において「呪いのビデオ」鑑賞から1週間が過ぎたことが宣せられたとき、問題解決がなされたかのような安堵に観客は陥ることとなる。

しかし、貞子の呪いは彼女の非業の死を遂げた遺体が発見され、悼まれる、というだけでは止まりはしない。呪いの解除はダビングして他の誰かに見せるというメディア的〈怪異〉ならではの仕組みでしか対処できないのだ。フランスの哲学者J.デリダが提起する「喪の不可能性」をなぞるかのように、他者としての怨霊は喪の完成を認めはしない(註13)。その事に気づいた玲子は、驚愕するのも束の間、急ぎ陽一にビデオをダビングさせ、自らの父親に見せることを決意することになる。

この時、玲子はこの映画で唯一「自分の意思を以て人を死に至らしめる決意する人間」になっていることに気づかされる。決意の瞬間の極めて強い意思を秘めたまなざしは、観る者に対して貞子とは異質な恐怖を惹起せしめる。ここで父殺しを決意する玲子は、殺される父親にとってみれば不気味な他者性を湛えた子どもに他ならない。いわば被害者であり、貞子の義理の母親だった玲子はこの瞬間に加害者かつ「恐怖の子ども」として貞子の現身(うつしみ)となるのだ。

そもそも「呪いのビデオ」を観た他の者たちと違い、玲子は折につけてビデオ内に出てくる布をかぶった不可解な男性や井戸をのぞき込む伊熊博士の顔を幻視するなど、貞子と視覚を共有することもある存在でもあった。玲子の殺意をもったまなざしは、それこそ貞子の人を死に追いやるまなざしと共通するものであり、それは両者が共に「恐怖の子ども」としてのあり様を遺憾なく共有していることことの証左なのである。

このことは親子関係が一見緊密につながり合っているようでありながら、決してそれが何かを保証するものではないということをも明かしている。浅川玲子が「呪いのビデオ」を観る直前、コテージで以前の宿泊客が残したノートを広げ、そこに描かれていたイラストを眺めつつ書き込まれたコメントを読み上げる。曰く「おとうさんはでぶです。おかあさんもでぶです。だからぼくもでぶです」。家族の一体性がイメージされる微笑ましいワンシーンにも思えるが、直後に展開するのはそのような緊密な関係性の決定的な破綻なのである。たとえ血縁関係があっても、すべての子どもは親とは別個の存在であって、その他者性は厳然としており、それは時に破滅的に機能してしまうのである。

子どもの他者性に起因する恐怖は、ハリウッド版の貞子ことサマラが映画の最後にほほえみと共に述べた一言「止められないの」において見事に集約されている。愛されなかった子どもが「関心を惹きたかった」のだ、とレイチェルが端的にまとめたがった大人の欲望を、広義の子どもたちは易々と突き放し、軽やかに世界に呪いを充満させていくのである。

多メディア化が進展し続ける世界の中で、大人たちの論理とは違う規範で動く他者としての恐怖の子どもたちは決して止まることを知らないのだ。

 

 

(註)

 

(註1)山下慧「『リング」』ワールドを徹底検証」(『キネマ旬報』1431号/20056月下旬)

(註2)事実『貞子VS伽椰子』(監督・脚本:白石晃士/2016年)においては、そのデッドメディア性が物語展開上の一つの装置にもなっている

(註3)「表象」とは何かを「表し」「象る」行為、あるいはその結果「表し」「象られたもの」のことである。本稿では「現実に特定の社会的現実として存在している事柄ではなく、想像されたものや象徴的なものを虚構のイメージによって表現すること」という、若桑みどり『イメージの歴史』(放送大学教育振興会/2000年/2012年にちくま学芸文庫)の定義を援用する。

(註4)丸山泰明「『不幸の手紙』は忘れた頃にやってくる --100年史の研究に向けて」『非文字資料研究センター News Letter』(48号/20229月)

(註5)一柳廣孝「千里眼は科学の分析対象たり得るか心理学の境界線をめぐる闘争」 金森修編『明治・大正期の科学思想史』(勁草書房/2017年)

(註6)吉田司雄「回帰する恐怖」 一柳廣孝編著『心霊写真は語る』(青弓社/2004年)

(註7)中野泰「『女優霊』論あるいは、映画の自己言及作用に潜む「魔」について」 一柳廣孝・吉田司雄編著『ナイトメア叢書[1]ホラージャパネスクの現在』(青弓社/2005年)

(註8)「インタビュー ゴア・ヴァービンスキー監督」 『キネマ旬報』(1368号/200211月下旬)

(註9)高橋洋『映画の魔』(青土社/2004年)

(註10)西山智則『恐怖の表象』(彩流社/2016年)

(註11)「対談 京極夏彦 幽霊小説と日本『怪異」文化を語る」 東雅夫編『ホラー・ジャパネスクを語る』(双葉社/2003年)

(註12)久米依子「オンナ幽霊のいないジャパニーズ・ホラーなんて」 一柳廣孝・吉田司雄編著『ナイトメア叢書[1]ホラージャパネスクの現在』(青弓社/2005年)

(註13J.デリダ著/P.パットン・T.スミス編/谷徹・亀井大輔訳『デリダ、脱構築を語る シドニーセミナーの記録』(岩波書店/2005年)

 

 

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『ザ・リング』(監督:ゴア・ヴァービンスキー/2003年)

(せんだいメディアテーク映像音響ライブラリー所蔵)

 


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