コラム 2024年04月22日更新

一本の(  )から考える○○のこと:明らかに崩れ去っていく時間のつながりを結びつけること


鈴木史(すずき・ふみ|映画監督、美術家、文筆家)

 

そう遠くはないところで雷鳴が響いたかと思うと、目の前に林檎の実が音もなくいくつも落ちてきた。少しばかり人工的な横なぐりの雨が降りつける田舎道を、ポタポタと林檎を落としながらトラックが走り去って行ったのだ。その荷台には林檎の実がこれでもかと敷き詰められていて、少年と少女が寝そべっている。どうしたわけか彼らの背後を流れてゆく風景は、ネガとポジが反転したように、木々は白くて、空は黒い。『イワンの少年時代』(Иваново детство)という原題を持つこの映画のなかでも、過酷な戦場にいた少年が眠りに落ちて、ふと見た一瞬の夢なのであろうこのシーンは、今から15年も前に本作(邦題『僕の村は戦場だった』)を初めて見たときにも強く印象に残った。

『僕の村は戦場だった』(1962年)をしばらくぶりに見直した理由は、本作の監督であるアンドレイ・タルコフスキーによる後年の作品『ノスタルジア』(1983年)が今年の初めにリバイバル公開され、しばらく見ていなかった他の作品も見てみたくなったからだ。Bunkamuraの改装工事のため、道玄坂から宮益坂下のすでに閉館した渋谷東映跡地に移転したル・シネマ渋谷宮下の大きなスクリーンで見た『ノスタルジア 4K修復版』は、画面の何もかもが鮮明で、十代の頃にNHK-BSか何かで放送したのを録画して、繰り返し見ていたときのものとは印象がまったく違っていた。ああ、丘陵のあんなに向こうまで霧が立ち込めていたんだ、とか、ゴルチャコフの骨ばった手の甲もエウジェニアのなびくブロンドの巻き毛のようにこんなに豊かな表情があったんだ、とか、そんなことを、須藤健太郎さんによる上映後の講演を聞きながら思い出していた。でも、当時見た時とそう印象が変わらなかったのは、タルコフスキーが故国ソ連を出国し、そして亡命へと至る流れと時を共にして作られた本作に立ち込めている傷ましい空気感だ。

タルコフスキーは、『ノスタルジア』を振り返って、こんな言葉を残している。

ところで、この映画での私の基本的課題とは、世界や自分とのあいだに深い違和を体験している人間、現実と望ましい調和とのあいだの均衡を見出すことができない人間の内的状態、つまり、祖国から離れているということばかりでなく、存在の全一性にたいするグローバルな憂愁によっても引き起こされるノスタルジアを体験している人間の内的状態を伝えることである。(中略)現実、つまり人生の諸条件によってではなく、個人の要求につねにそぐわない生活それ自体との悲劇的な不和の瞬間に、ゴルチャコーフによって知覚されたイタリアは、彼の前にまるで無から出現したような壮麗なる廃墟として広がっていくのである。この全人類的な他所の文明の残滓は、人間の空しさにたいする墓碑銘のようでもあるし、人類が踏み迷った破滅の道のしるしのようでもある。ゴルチャコーフは、自分の精神的危機を体験することも、「彼にとって明らかにくずれさっていく時間のつながりを結びつけること」もできず、死んでいく。(註1)

ここで語られている感覚は、タルコフスキーが亡命を意識するより遥か昔の長編デビュー作である『僕の村は戦場だった』にも、すでに張り詰めているように感じられる。『イワンの少年時代』という原題を持ちながら、その「少年時代」を夢のなかに回想するイワンの身体は未だに少年そのものであり、それゆえに自分が任務を遂行する兵士であることを主張しても、彼の周囲にいる大人たちは、その言葉を信じようとしない。少年でありながら、少年でいることもできず、しかし大人でもない。戦場にいて、この小さな身体もまた、「現実と望ましい調和とのあいだの均衡を見出すことができない人間」であり、「現実、つまり人生の諸条件によってではなく、個人の要求につねにそぐわない生活それ自体との悲劇的な不和」を引き起こしている。だから、祖国を捨てなければならなくなるその遥か以前から、アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキーと名指されたそのひとつの身体は、外界との不和を感じ続けていたのではないだろうかと思えてくる。雨音、遠くで鳴く鳥の声、戸の軋む音、苔の生す白壁に映る水面の反映、揺らぐ蝋燭の炎。そんなものばかりに目を向けていられるのも、この現実を遠目に眺めているからなのではないか。タルコフスキーによると『ノスタルジア』は、「〈弱い〉人間」という主題を持った作品なのだそうだ。そして、意外なことに、その「〈弱い〉人間」は、「大人の情念を持った子供」(註2)なのだと言う。決して、子供の情念を持った大人ではない。まさに、『僕の村は戦場だった』で、少年の身体を持ちながら、一人前の兵士であろうとしたイワンそのものだ。

『ノスタルジア』には、ふたりの男が出てくる。ひとりは演説を打って死ぬ。もうひとりは、水の抜けた温泉の端から端まで、手に持った蝋燭の火を消さずに渡り切ること以外には、ほとんど何も出来ずに死ぬ。彼らはしきりに首を動かしたり、せわしなくタバコを吸ったり、伏目がちにボソボソと意味のあるような無いようなことを呟いている。他の人々、特に女と子供はそのまなざしがじっと固定されていて、絵画のなかの人物のようだ。女、すなわちエウジェニアは物語の途中、決然と彼らのもとを離れ、ローマに旅立つ。しかし、この映画はエウジェニアが彼らの奇行に翻弄され、おそらくは狼狽てもいたであろう時間を知覚することは出来ずに、男たちの混乱した生のみを映し出している。そんな彼らを、問うような、咎めるような目で、子供たちがまなざしている。それは、見知らぬ少女だったり、おそらくは主人公ゴルチャコフの幼少期の姿だったりする。彼ら彼女らの刺すようなそのまなざしをゴルチャコフはいつから失ったのだろう。

はじめに書いた『僕の村は戦場だった』の夢のシーンで、少年は少女に林檎の実を手渡そうとする。少年の手のひらに乗った林檎の実から、カメラがそのまなざしを少女の方に移してゆくと、雨に濡れる彼女の顔は、右から左に流れてゆくメリーゴーラウンドの白馬のように次々と移り変わり、最初の明るい笑顔はやがて失われ、最後には刺すような視線があらわれる。それまで過酷な戦場を生きる少年に寄り添いながら映画を見ていたわたしは、ネガとポジが反転したこの夢に、とてつもなく安心なような、でも少しだけ不安なような、子供の頃に患っていたてんかんの発作が起きる直前によく似た不思議な感覚を感じた。寄り添おうとしていた少年の孤独から、少女の顔にカメラがまなざしを移した瞬間、大人になった自分の相貌に近しいのは彼よりは彼女のほうだろうと思って、次のカットが切り返した少年の表情ではなく、海岸を走り去るトラックの荷台からいっせいに落とされた無数の林檎であることが少しだけ寂しくなる。

 

「大人の情念を持った子供」という言葉に触れて、唐突なようだけど、わたしはセリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』という2021年の映画を思い出していた。老いた女性たちのひとりひとりに「さようなら」と律儀に告げて去ってゆく少女を映してはじまるこの映画を見て、それまで彼女の映画の熱心な観客ではなかったわたしも、シアマが時に「論争的」な作家と見なされることがあることなどは置いておいて、この監督の新作をこれからは必ず見なければならないと思った。主人公のネリーは森で自分に似た少女に出会い、自分に似たその少女が大きな木の枝を運ぶのを手伝ったり、ふたりでひとつのヘッドフォンを譲り合って音楽を聴いたりする。ネリーの母が子供の頃に遊んでいたというこの森にあらわれた少女が誰なのかは、実際に映画を見てほしいのでここに書くことはしないけれど、ネリーが相手の少女を気遣う振る舞い、相手の少女の機嫌を損ねないように慮る態度には、「大人の情念を持った子供」という言葉がふさわしいように思える。ネリーはいつも目の前にいる人がいったい何を考えているのか、どうしたら機嫌を損ねないのか、考えている。

『秘密の森の、その向こう』を見終わったわたしは、いまはもう取り壊されてしまったBunkamuraにあった頃のル・シネマの広いロビーで、掲示されていたポスターを写真に撮り「これ、面白かった」と言って、わたしの故郷である宮城にいる母親にLINEで送った。そして、あとから母に電話で、子供の頃、迷子になった時の不思議な記憶について話した。まだ小学生にもなっていなかったわたしは、家の近くのスーパーマーケットの屋上の駐車場に上がる階段の踊り場で、理由は忘れてしまったけど、駄々をこねて泣いていたのだ。階段の上から、母が怒って、「行っちゃうよ」とか「置いてくよ」とか言っていた。でも、どう思い出しても頭に浮かぶのは、母の視点で階段の上から見下ろした幼いわたしの姿ばかりで、階段の上にいる母の姿ではないのだ。わたし自身が見たはずの光景なのだったら、そんなはずは無いのだけれど......。そう話すと、母も「あ、わたしもそういうの覚えてる」と言って、自分自身の幼少期の記憶を話した。母は幼い頃、仙台の藤崎百貨店で迷子になってしまったのだそうだ。しばらく迷子になっていた彼女をようやく母の母、つまりわたしの祖母が見つけた。母の記憶のなかに残っているその瞬間の情景は、売り場にひとりぼっちで立ってこちらを見つめている自分の姿なのだそうだ。

『ノスタルジア』のなかの子供たちも、小さな身体でわたしたちを見上げていた。

 

『ノスタルジア』でゴルチャコーフは、最後まで消さずに守り通した蝋燭の炎が、風を直に受けないように、石造りの壁がL字に折れてちょうど風避けになる角の部分に蝋を垂らして置いてから、呻き声だけを残して崩れ落ちた。15年ぶりに出会い直す、その揺れる炎を見ていて、冬の夜に新宿を歩いていたとき、ちょうどあの蝋燭のようにL字に折れた壁に身を寄せて風を避けながら、母からのLINEに返事をしていたときがあったなと思い出した。通りすがった三人組くらいの男たちに「お姉さんどうしたの? こんなところに挟まって!」と揶揄(からか)われ、「飲みに行こう」としつこく絡まれてしまったので、繁華街の常ではあるけれど、長くその道端に立ち止まっていることは出来なかった。だから、あまり良い記憶では無いけれど、あの蝋燭の炎が、風を避けて立っている自分に見えたのは、今度が初めてだった。迷子の子供だったわたしや母も、あんなふうに立っていた気がする。

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(註1)アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』(訳:鴻英良/2022年/ちくま学芸文庫)P.329

(註2)前掲書 P.333


『僕の村は戦場だった』(せんだいメディアテーク映像音響ライブラリーほか所蔵)

『ノスタルジア』(若林図書館所蔵)


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