民話ゆうわ座 2022年04月30日更新

【レポート】民話 ゆうわ座 第八回「あの日から10年が経って ~ 災害について考える ~」


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■日時 2022116日(日)13:00-16:00

■会場 せんだいメディアテーク1f オープンスクエア

■主催 せんだいメディアテーク、みやぎ民話の会「民話 声の図書室」プロジェクトチーム

 (参考 https://www.smt.jp/projects/minwa/2021/12/10-1.html )

1.『民話ゆうわ座』について                  司会進行 小田嶋利江

【みやぎ民話の会と〈民話ゆうわ座〉】

 「民話 ゆうわ座」は、みやぎ民話の会有志による「民話 声の図書室」プロジェクトチームとせんだいメディアテークの協働事業であり、「ゆうわ座」参加者が自由に感想意見を交換する場を開こうとしてきた。

 みやぎ民話の会は、先祖によって口から耳へと語り伝えられてきた民の話〈民話〉を、海や山の語り手を訪ねて40年以上記録してきた。その語り手を訪ねる採訪の中で、聞き手は語り手からさまざまな気づきをもらう。「民話 ゆうわ座」では、みやぎ民話の会がこれまで記録してきた民話の語りを聞き、語りの映像を観ることを入口として、採訪において聞き手が感じたこと、考えたこと、疑問に思ったことを披露し、それを手がかりにして、参加者とともに民話をめぐるさまざまなことを、自由に考え語り合う集いである。

【〈第8回民話ゆうわ座〉のテーマと構成】

今回は「あの日から10年が経って~災害について考える~」というテーマで、二部構成とする。第一部は「わたしたちが記録してきたこと」として、2011311日の大地震大津波以降、その災害に関わりつらなる人々の体験や記憶を記録してきたみやぎ民話の会の活動のありかたを、それにたずさわった方に語っていただく。

それに対して第二部は、長い歴史の中で先祖たちが語り伝えてきた災害の民話を、みやぎ民話の会が記録してきた話のなかから選んで、プロジェクトメンバーの語りによって紹介し、先人たちが災害に向き合ってきた体験や記録を踏まえながら、災害の民話がどのように語り伝えられてきたかを、参加者とともに考えたい。

2.第一部 私たちが記録してきたこと                 進行 小野和子

【みやぎ民話の会の震災の記録】

 この10年間、みやぎ民話の会の有志が、2011311日の震災に関わる記録を試み、三種の記録集を作成した。

・『双葉町を襲った放射能からのがれて わたしたちの証言集』双萩会 2016

・『「閖上」津波で消えた町のむかしの暮らし』みやぎ民話の会 2014

・やまもと民話の会『小さな町を呑み込んだ巨大津波』小学館 2013

それぞれの編纂の中心となったのが、みやぎ民話の会会員であった目黒とみ子さん、早坂泰子さん、庄司アイさんであった。今回、その三方に語っていただきたかったが、庄司さんは昨年10月に亡くなられ、早坂さんは体調をくずされて入院された。そこで庄司さんに代わり小野和子がその仕事を紹介し、早坂さんの書かれた文章を倉林惠子が朗読する。そして目黒さん本人により震災後の記録の営みが語られる。

【震災の年の〈みやぎ民話の学校〉】

 震災のあった2011年の8月、みやぎ民話の会は、被災地の真ん中である南三陸町のホテルで、〈みやぎ民話の学校〉を開いた。本来〈みやぎ民話の学校〉は、民話の語り手を招いて直接民話の語りを聞く催しであったが、このときは被災した沿岸部の語り手から、あの日の体験を聞く民話の学校とした。

男性2名、女性4名からなる6名の語り手は、身内を失い家屋敷や田畑を流されたそれぞれのあの日を、じつに淡々と、ときに聞き手の笑いを誘いながら、まるで民話を語るように語った。それは、民話を語るという営みが、自らの悲しみを濾過させ昇華させて聞き手に差し出すことであることを、語り手自らが体現していた。

【残された宿題】

 この民話の学校の開校のことばとして、今回の学校で触れられなかった福島の原発事故をどのように語り継ぐのかを、これからの大きな課題として胸におき、福島のことを語りますと約束した。

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(1).「双葉町を襲った放射能からのがれて」            語り  目黒とみ子

【目黒とみ子さんと原発事故避難の記録集】

 はじめに小野さんによる目黒とみ子さんの紹介があった。

震災から2年後、双葉町出身で原発事故のため8回もの転居を経て宮城県に避難された目黒さんが、みやぎ民話の会に入会された。宮城県に避難された双葉町の人々は「双萩会(そうしゅうかい)」という会を作り、月一度集まって懇談していた。目黒さんは小野さんから示唆を受け、双萩会の44名の一人一人から原発事故と避難の体験について聞き書きをし、小野さんらの助力を得て記録集『双葉町を襲った放射能からのがれて わたしたちの証言集』(双萩会 2016)にまとめあげた。

目黒さんにあの日からいままでの体験と、記録集作成の経緯を語ってもらった。

44名の体験記録と聞けなかった最後の一人】

 双萩会の参加者に協力を乞い、一人一人さまざまな原発事故避難の体験を語っていただいた。全員で45名いる参加者のうち、45番目の方は一番最後と決めていたが、最後になったときに、身内を津波で亡くし、家屋敷田畑を津波で流されたその方に聞くことができなかった。記録集に取り組んでいるとき、「人生は、 どんな道に出会おうと、歩きつづけていくうちに、光に満たされるのではないかと思います。暗ければ暗いほど光が見えるのかもしれません」という小野さんの言葉に励まされた。

【あの日の不思議な雲と避難者差別と子どもたち】

2011年311日午後246分に震災が起こる。その3時間前に小さな雲が縦横長方形に並んだ不思議な雲を見た。地震の前兆といわれる高積雲だという。写真に撮らなかったことを後悔したが、絵に描いたのでみなさんに見ていただきたい(スクリーンに映写)。

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原発事故の避難により転校した子どもに対して、周囲の子どもたちが「危険だ」と騒ぎだし、その子は登校拒否になった。その後、その子に会って笑顔を目にし、心からよかったと思った。一方、証言集を読んだ東京の中学2年生は、「今、福島出身だからと差別したり、いじめたりする心ない人間の言動こそ人災だと思う」と感想に綴ってくれた。また、いわき市の小学校で体験を語ったとき、5年生の女の子は涙ながらに感想を語ってくれた。

【人災としての放射能災害を記録する】

人災としての原発事故のもとでの住民一人一人の気持ちは記録されねばならない。証言集からいくつか読みあげる。

◇ 《寒さに震えながらゴロ寝する》

◇ 《まどか保育園の一番長いあの日から...》

◇ チャールズ・カストさん(米国・原子力規制委員会)の提言

【あの日からの避難の旅】 

震災から10年が過ぎたが、いま双葉町には住民は住んでいない。かつて住んでいた土地には雑草が生い茂り、イノシシが増え、家々は取り壊されている。かつて町に掲げられていた〈原子力明るい未来のエネルギー〉の標語は、いまは撤去されてない。

 震災の翌日、平成23312日に全町で川俣小学校へ避難、同日午後336分。1号機水素爆発。続いて3号機、2号機、4号機爆発。

 319日、双葉町は役場機能も含めてバス401,200人で埼玉県スーパーアリーナへ移転、その後埼玉県加須市旧騎西高校へ。各教室に分散して生活が始まった。44日平成の天皇皇后の慰問を受ける。

 平成25613日、双葉町の役場機能を福島県いわき市に移転。

 双葉町は、震災の年の422日午前零時に封鎖となり、いま双葉町と周辺には、除染土を詰めた黒い袋が積み上げられている。

【海外にどのように伝えられたか】

 ◇ミュージシャンの内田ボブさんは、原発への関心からウラン産出国のオーストラリアを旅行中に震災を知った。日本のことを語り、アボリジニから福島へのメッセージを託された。

福島の人は、今回の爆発事故で大変な思いをしていると思います。原発で燃やされているウランは、私たちの大地から採られたものです。不幸の責任を感じています。遺憾に思っています。核の脅威から解放されるまで、私たちは、闘い続けることを誓います。

この声明は福島県双葉町の震災伝承館で保管されている。

 ◇立命館大学の村本邦子さんは、震災後10年間、学生とともに青森・岩手・宮城・福島の被災地を訪ね、話を聞き、その話を記録し、それを『周辺からの記憶―三・一一の証人となった十年』(国書刊行会2021)にまとめた。村本さんは20199月、ウクライナに行き、チェルノブイリミュージアムを見学する。展示室に入ると、まず福島第一原発事故についての展示だった。

10年が経って】

 故郷のさまざまなことは懐かしくもあるが、戻れないことをしっかりと考え、それぞれの土地で頑張るしかない。そして、いじめられる子どもの代弁をしなければならないと思っている。

 家を出るとき、23日で戻れると思ったので何も持たなかった。でも、その道は、二度と戻ることのできない道だった。たった一つだけ持ち出したのは、双葉町に伝わっていた昔話「小太郎ぎつね」だ。避難中お世話になったお礼に「小太郎ぎつね」を語り、「東北の民話を生で聞いたのは初めてです」「よかったです」「感動しました」と喜ばれたし、これが縁でみやぎ民話の会に入会した。語りが、いまの支えになっていると思う。

(2).「閖上 津波に消えた町のむかしの暮らし」      文 早坂泰子  朗読 倉林惠子

【早坂泰子さんと閖上の記録集】

はじめに小野さんにより、早坂さんの紹介があった。

早坂さんがみやぎ民話の会に入会されたとき、すでに50歳を過ぎておられた。息子さんを山の遭難で亡くされて、『遠野物語』を愛読し、民話を愛した息子さんを思い、「民話を知りたい」と入会されたという。

早坂さんは、入会後民話の採訪に歩くなかで、かつて登山者として飯豊山登山で世話になった登山宿のおばあちゃんを思い起こした。それが山形県小国町長者原の佐藤とよいさんで、予感にたがわずすぐれた語り手であり、早坂さんは小野さんとともにとよいさんのもとに通い、『長者原老媼(ちょうじゃはらのばばさの)夜話(むかし)』(佐藤とよい語り・小野和子編 評論社 1992)という民話集に二人でまとめられた。

早坂さんは名取市閖上出身で、今度の震災で故郷の町があとかたなく消えたようになったことに非常に心を痛め続け、自分の感性をはぐくんだ閖上のかつてのくらしの記録を残すため、みやぎ民話の会の小野さんと河井さんとともに、住民からの聞き書きを集めて記録集を作った。

【ふるさとの町 閖上】

2011年3月の大地震大津波は、多くの犠牲を出し、町や村を消し去り、人々に傷を残した。その流された町の一つ「閖上」が、わたしのふるさとである。

閖上の町があとかたもなく消えてから、むしろ心の中のふるさと「閖上」は、くっきりと姿を現した。この町は私自身の感性を育て、いろんな意味で今の私に影響を与えているのだとしみじみ思う。

【丘区と町区】

閖上は農村地帯の丘区と、漁師町の町区に分かれ、丘区では米野菜が作られ、町区では肴が獲れ、商店や医院銀行がそろい、町の人口の8割が集まっていた。ほとんどの人が漁と関わっており、あたりの集落の生活圏が閖上とつながっていて、人の出入りが多く、活気にあふれた町だった。

【外洋に開いた小さな港町】

閖上港は整備された港ではなく、土砂のたまった名取川河口にあり、水深も浅く、入港時の遭難もあったが、近海の新鮮な魚が揚がり、仙台などの近郊の生活を潤した。

【漁師町のくらし】

寄港した漁師たちは、市場に出せない魚を「おまかない」といい、家に持ち帰ったそれを奥さんたちはさまざまに加工し、早朝に仙台まで歩いて売りに行った。仙台の人は「閖上のいさば」として知られていた。

 忘れられないのは、武蔵(むさし)さんという船頭さんで、珍しい魚を持ってきてくれ、さばいてくれたが、わたしはそれが珍しく、武蔵さんの後について歩いて見ていたものだった。武蔵さんは今回の震災で自動車ごと津波にさらわれて奥さんと一緒に亡くなられた。

【閖上の風景】

閖上の町をとりまく景色は、どこを向いても水ばかり。広々としてどこまでも続く砂浜、静かな入江の広 浦、貞山掘と名取川、町の裏手に広がる田んぼ、そして遠くに蔵王連峰につづく山々。まさに、海あり、川あり、田圃(たんぼ)あり、山ありと、田舎としてのすべてのものがそろっているところ。文字や写真では表せない肌(はだ)感覚(かんかく)があり、匂い、風、空気など説明しきれないものがあった。

【復興した町の姿】

震災後10年が経ち、コンクリートの立派な道路、マンション、学校が建ち、古い町名は消え、小さな商店は姿を消し、大型のスーパーやコンビニができ、都会化した町は便利で暮らしやすくなるだろう。復興とはこういうことなのだろう。どこの町も個性がない同じような町になっていくのだなぁとしみじみと思う。これからは、昔の閖上を知る人は誰もいない、私だけのふる里になった。私はこの後も私だけのふる里を心の中に大切に持ち続けたいと思う。

(3)「小さな町を呑み込んだ巨大津波」 文 庄司アイ  紹介・朗読 小野和子

【庄司アイさんと津波体験の記録集】

はじめに小野さんより、庄司アイさんの紹介があった。

庄司さんは、津波で家屋敷田畑を流され、娘夫婦のもとに身を寄せられたが、すぐにやまもと民話の会の仲間たちと、鉛筆と紙だけを手にして避難所を訪ね、顔見知りの人々一人一人から、あの日の体験を聞き書きし、それを積み重ねて証言集『小さな町を呑みこんだ巨大津波』3冊を刊行された。

【庄司アイさんの津波体験 〈民話は残った〉】

2011年311日地震がおこったとき、アイさん夫妻は自宅におられ、友達の家に遊びに行っていた孫のかな恵さんを待っていた。かな恵さんが送られて帰り、玄関で迎えていたとき、かな恵さんが「ばあちゃん、津波―、早く2階へ」と叫びながら駆け込んできた。アイさんと夫はかな恵さんにせかされて階段を上った。一番後ろにいた夫が「2階まで水」と叫び、一番先に駆け上がったかな恵さんは、西南隣りの横山家の人々が車で避難するところを目にして「もう横山さんちだめだー」と悲嘆し、アイさんは家全体が流され始めたのを感じて「家が動いてる、動いてる」と声に出した。2階の床にも水が上がったので、3人は床より高いベランダに出た。

3人と1匹で漂流】

 そのまま、3人とかな恵さんが抱いた犬1匹とで家ごと津波に流されて漂流した。アイさんの心はなんの曇りもなく、「おしまいのときだ。わたしの人生悔いはない。晩年は民話などをやっていていい人生だった」と静かに思った、すると、いままで何気なく聞いていた津波の民話「お諏訪さまの大杉」「舟越地蔵」「小鯨」を、「民話の一つ一つには金伽がある」という先人の言葉とともに思い出した。

 家は戸花山に沿って北に流れ、戸花を過ぎて西に数軒の家が見えた。その奥に息子たちの勤める宮城病院があり、「息子たちは大丈夫だ」と思った時、「これは、ノアの方舟?」という考えがふっと浮かんだ。先祖兄弟友人など、たくさんの存在が自分について守ってくれているのを感じた。

【夜を過ごす】

 家は東に流され、清掃センターと100メートルの煙突が見えるところで止まった。水かさが増していき、かな恵さんが屋根に上ろうと手をかけた時、夫が「3人束になって」といさめた。アイさんは、水面を流れてきた材木や竿を、なにかに役立つと考えて引き寄せていた。

 水がひいてきたので、夫は奥の部屋に寝る場所を作った。中に入ろうというときに、かな恵さんが「ガス臭い」と叫ぶ。アイさんは廊下に倒れている大型のガスボンベを見つけ、全開の栓を閉めた。その晩は3人で家の中で夜を過ごした。

【救助】

 翌朝、物干し竿の先にバスタオルやシャツを結びつけ、旗にして窓から振り続けた。やがて、息子と娘の夫などが、家と旗を見つけ、瓦礫を越えて救出にやってきた。がれきにはしごをかけ、長靴を順番に借りてがれきを下りた。わたしたちはこうして助かった。

 再起への力は民話からもらった。

< 休 憩 >

3.第二部 祖先はどのように災害を語ってきたか           進行 小田嶋利江

【語り伝えられた災害の話】

 第一部は、あの日の災害を記録する営みを語っていただいた。第二部はもう少し時間も空間も広げて、民話を手がかりに、先祖が災害の体験や記憶を踏まえながら、どんなお話や物語を語り継いできたのかということを、いくつか紹介していきたい。

民話を拾ううえでのテーマは、地震、津波、飢饉、疫病、水害、干魃(かんばつ)で、ふたつずつ関連する内容になっている。地震があれば津波が襲う、飢饉のときには疫病が流行る、ふたつずつ組みになって、我々が苦難を受けてきた災害である。そして水害、干魃、これは人が生きていくうえでどうしても必要な水が、多すぎたり少なすぎたりすることによって、もたらされるわれわれの苦難についてのお話である。

これらのテーマについて、わたしたちがおもに宮城県内で聞いてきた話、あるいは紹介された話のなかから選び、我々の仲間が語ってみたい。

*話の内容は、当日配布の資料集を参照。

《地震》

(1) 井戸に落ちた地震 語り 島津信子

語り:楳原村男さん(大正8年生)栗原市栗駒

出典:『みやぎ民話の会叢書 第十一集 栗駒町猿飛来の伝承 楳原村男翁の唄と語り』(2005年発行

(2) 福島のマンゼロク 語り 倉林惠子

記録:庄司アイ

出典:やまもと民話の会編著『改訂増補 民話』(2020年発行)

《津波》

(3) 白大丸・黒大丸 語り 倉林惠子

語り:畠山平作さん(明治三36年生)気仙沼市階上/村田喜膳さん(明治38年生)気仙沼市本吉町

出典:児童文学者協会編著『県別ふるさとの民話40 宮城県の民話』(偕成社 1982年発行)

(4) 末の松山 波越さじとは 語り 山田裕子

語り:関山ちよさん(大正6年生)多賀城市八幡

記録:小野和子 

*この話は、2020年にせんだいメデイアテークで行われた展示「2011・3・11 大津波に襲われた沿岸集落で、かつて聞いた《いいつたえ、むかしばなし、はなし》その8「多賀城市周辺の浜の民話」十話のうちの一話です。

(5) 三陸の大津波 語り 山田裕子

語り:岩崎としゑさん(明治40年生)牡鹿郡女川町

出典:松谷みよ子編『民話の手帖別冊 宮城県女川・雄勝の民話岩崎としゑの語りー』

(日本民話の会 1928年発行)

《飢饉》

(6) おはつとわらし 語り 加藤惠子

語り:山内郁さん(昭和4年生)本吉郡南三陸町

出典:『みやぎ民話の会叢書第十二集 南三陸町入谷の伝承 山内郁翁のむかしかたり』(2009年発行)

(7) 膳の湯 語り 寺嶋大輔

語り:山内泰助さん(明治43年生)本吉郡歌津町

出典:『宮城県文化財調査報告書第130集 宮城県の民話民話伝承調査報告書

(宮城県教育委員会 1988年発行)

(8) 騒がしいしし頭(かっしゃ) 語り 加藤恵子

語り:山内郁さん(昭和4年生)本吉郡南三陸町

出典:『みやぎ民話の会叢書第十二集 南三陸町入谷の伝承 山内郁翁のむかしかたり』(2009年発行)

《疫病》

(9) どす(・・)になった娘と猫 語り 寺嶋大輔

語り:佐々木健さん(昭和12年生)宮城郡利府町

出典:『佐々木健の語りによる 遠野郷宮守村の昔ばなし』(世界民話博実行委員会1992年発行)

《水害》

(10) 川面(かわづら)土手の人柱 語り 小田嶋利江

語り:山内郁さん(昭和4年生)本吉郡南三陸町

出典:『みやぎ民話の会叢書第十二集 南三陸町入谷の伝承 山内郁翁のむかしかたり』(2009年発行)

(11) 橋かけ鬼六(おにろく) 語り 島津信子

語り:佐藤玲子さん(昭和6年生)栗原市一迫

出典:『みやぎ民話の会叢書第六集 栗駒山南山麓の昔語り むがす むがす ずうっとむがす』 

1998年発行)

干魃(かんばつ)

(12)天から落ちた雷小僧 語り 小田嶋利江

語り:高橋市雄さん(明治42年生)角田市小山

採訪日:19851020

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4.みなさんと感想と意見の交換                   進行 小田嶋利江

 以上の民話語りを受けて、会場からさまざまな意見・考察が交わされた。以下、いくつか紹介する。

【体験・記憶と話・物語】 

◆ 近年災害が頻発する。あの震災をはじめとして、こうした災害を人々はどのように語り継いでいくのだろうと思う。それが、「むかしむかしあるところに」という昔話のような物語の形になるのは、語り継ぐ長い時間が必要なのかもしれない。

◆ 丸森町の「地獄めぐり」という民話は、山伏と歯医者と軽業師の3人が一緒に死ぬところから始まる。少し不思議な組み合わせに思えるが、飢饉で村じゅうの大半が死に絶えたときのことだという。民話のなかのこうした一見不思議な要素には、切実な現実の反映があるのかもしれない。

◆ 第二部の話はとても多様で、昔話のような架空の物語となった話もあれば、一方で個人の災害体験の記憶そのものの話もある。それらの対照的なあり方は、しかしくっきり分かれているのではなく、さまざまなあり方が地続きのようにして重なりあっていることが、話のなかから垣間見れたのではないか。

◆ 原発災害から避難する体験の語りに次いで、過去の飢饉の飢餓の話が語られることには重い意味があると思う。『おはつとわらし』のなかで、「はらが減ってわけ分からなくなる」、飢餓への恐怖の先にわけが分からなくなって人が消える。そうした「食べれなくなる」恐怖の先に、原発という魔法のような「明るいエネルギー」にわけ分からなくすがってしまう、どちらも地続きに飢えることへの恐怖、飢えないことへの思い、その葛藤があるのかと思った。

◆ 『白大丸 黒大丸』は、40年以上前に気仙沼市階上の岩井崎で、明治生まれの平作さんという語り手から聞いた。平作さんはこの話を父親から聞いたというが、父はつねにこの伝説を、自分の津波の体験、沖に出ているうちに津波にあい浜に残した妻子すべてを流されたという体験談とともに語っていたという。だからこそどちらの話も心に残って記憶されたのだと思う。

◆ 昔話や伝説の物語とともに、それにつながる語り手の体験や記憶の話が語られ、そうしたものが全部重なりあって伝承の現場では語り継がれている。

◆ 民話の語りをしているが、昔話だけでなく、震災のこと原発のことを、「これはむかしでなく、いまの話」として語りたい、そのためにもっと勉強したいなと思った。

【人が自然とむきあう その恵みと災い】

◆ 福島県南相馬市小高区の出身で、震災は仙台市内で体験した。震災後すぐは、地震に対して恐怖の感情があり過敏になっていて、人より先に地鳴りに気づいたりした。震災後10年が経ってインターネットの普及で情報があふれる一方、むしろ自然にとって人間にとって何が一番大切なのか分からないことが増えたように感じる。だからなのか、最近地震が起きると、怖いと同時に安心する。これは太古からの地球の言葉であり、地球が生きている鼓動なんだと思えるようになった。自分と地球が向き合っているこれ以上のリアルは無いようにも感じる。第二部の地震が人の形をしていて、それがちょっと間の抜けた可愛らしい親父だって話は、地震に対する近しい感情と対応していて、腑に落ちてうれしかった。

◆ 自然の中の水が、人にとっての災難であるとともに恵みでもあるように、すべての災害をもたらす自然は、人の歴史の中での苦難であるとともに恵みでもあり、それを離れては人は生きていけない。だとすれば、人は自然にどう向き合って、そんなふうに関わっていくのかが、そのどちらの面も見ながら問われることになる。そこで「地球の鼓動を感じる、よろこぶ」という感覚は、自然と向きあうときの鍵になるのではないか。ただ原発事故の問題は、自然の災害と恵みという視点ではとらえられず、別の姿を現すのではないか。

◆ 自然そのものはなにも語ってくれない。今日民話を聞いて、人間は民話のなかで自然との対話をしているのではないかと強く感じた。

【戻れないふるさとをどう生きるか】

◆ 目黒さんの「放射能からのがれて」町まるごとの避難の旅は、「戻れないふるさとをかかえてどう生きるのか」という、現代日本に生きる私たちが思いもしなかった「難民」というあり方を目の前につきつけている。それは、世界に生きるさまざまな人々の苦難に目を開くきっかけでもあると思う。

【感性をはぐくんだ土地という手ざわり】

◆ 早坂さんが、自分の感性をはぐくんだ土地の話を語る言葉には、手ざわり肌ざわりがあり、そこから風景とか質感とか匂いとかが、浮かび上がり、ともなってくる。第二部の民話の語りの言葉にも同じ手ざわりがある。それは、土地の風景を含めたさまざまな歴史・環境から生み出されてできあがった言葉なのだろう。一方で、復興された町の風景は手ざわりなく均質化し、復興を語る言葉を肌触りを持った言葉として語ることは、とてもとても難しいと感じた。過去から受け取った言葉をたずさえて、物語としてではなく、目の前の現実にどう接続していくのかが、私たちに問われているのだと思う。

【聞き語る場のここちよさと希望】

◆ 過去の民話を語るとき、物語を物語としてではなく、聞き手自身の体験や記憶や、手許のことがらまで、同じ地平でつなげて感じてもらえると、語り手としてありがたいと感じる。

◆ 民話の語りを聞くのは初めてだが、生の土地の言葉、方言を耳で聞くのは、とても気持ちがいいと感じた。最初はテキストを見ながら聞いていたが、だんだん耳だけで聞くようになって、なんとなく分かるし、少しわからなくても分からない気持ちよさがある。身内の年寄りに触れるような親近感、安心感とともに、しっかりとした歴史の事実が通っている。これは語りの大きな価値だと思う。一方で、いまの私たちの言葉や語りは、百年後の人たちに、気持ちよく伝わるのだろうか、どうしたらそう伝えることができるのかと考えた。

◆ 東京在住なので、震災は当事者ではない。だから聞くことしかできない。聞き続けることが一番大事なのかなと思う。

◆ 震災を海外で知り、なぜかそれ以前に山で亡くなった父親を思った。それが震災の記憶だった。その場に居なかった自分がどうやって震災後の日本に帰ったらいいのか戸惑ったが、体験を語る人々の存在を知り、そのことがわたしの救いになった。自分の中にある体験や記憶が語れなくとも、それを言葉にしている方がおられるというだけで、自分の体験ではなくともその語りを聞くことで自分の人生と結びつけて救われたり、自分の語りを始めるものがいることを知ってもらえたらうれしい。

◆ なぜ人は語るのか考えていた。失ったものがあるから語るということもあるかと思う。失ったところから見出す、過去の人、過去の時間、過去の町の姿を、いまこれからの人と共有したいと願うとき、語りは生まれると思う。だから語ることは生きていくことではないかと感じた。

◆ 第一部の語りも、たしかに民話を語るように語られていた。第二部では、ぞっとするような話もあったが、語り口はむかし祖母などが「こんなこともあったよねぇ」と子どもに語っていたような口調で、かつて子どものころ実家の農家で聞いていた口調を思い出し、とても似てると感じた。

【できごとを感性でうけとめることの難しさ】

◆ 第二部の民話語りの災害と、第一部の現代の災害の体験と、その距離の大きさがどうしていいかわからない。民話語りのように、現実の出来事を感性を持って理解するような、現代はそれができる世界ではもうないのではないか。原発の話も、復興の話も、10年間いろいろ言葉が尽くされたけど、感性を持って理解することが、とてもむずかしいと感じた。

◆ [感性を持って理解し言葉にすることはとても難しいということは]よくわかるのだが、なんとかその感受性なり、想像力なりを、いまの私たちに取り戻したいと思う。どうしたらよいかは、まったくわからないのだが...

◆ 「聞き語る」ことが、これからを生きるための希望だとすれば、無機的で均質な現代世界の中で、どのようにして言葉に感性の肌ざわりをとりもどすのか、ないものを獲得するのか、「聞き語る」ことがその問いに答える手がかりにならないか、種にならないかという希望を持っていたいと思う。

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報告:小田嶋利江(みやぎ民話の会「民話 声の図書室」プロジェクトチーム)

ロングレポートはこちら↓

第8回民話ゆうわ座ロングレポート(文字起こし)(PDFファイル/123KB)

第8回民話ゆうわ座_当日配布資料(PDFファイル/4.5MB)

第8回民話ゆうわ座チラシ(PDFファイル/3.4MB)

―――――――

せんだいメディアテーク2階「映像音響ライブラリー」にて、民話のDVDを貸出・視聴いただけます。

第二部でご紹介した民話「どすになった娘とネコ」の映像は、「伊藤正子・佐々木健の語り[2]」で視聴できます。

https://www.smt.jp/projects/minwa/2019/07/-dvd6.html


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