報告 2020年05月09日更新

【記録④ 人】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-


こちらの記事は【記録③ 村】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-の続きです。

「人」全景写真

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支えあうしくみ

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 契約講の寄り合い。会場となる家を「宿(やど)」といい、毎年順に交代して受け持つ。

〈記録者の言葉〉

 山にかこわれ雪にかこわれて生きていくために、人々は欠かせない労働・儀礼・行事・娯楽などにおいて、共同し、互いに助け合った。
 そうした支えあいのしくみを「契約講」といい、年に二回定例の寄り合いを開き、葬式の役割や、カヤを刈る共同山の分配、屋根替えの時の役割など、村としての協同行為の決まり事と役割分担を話し合った。
 契約講には、各家の当主が参加したが、かつては羽織袴で席順も決められた、とても厳格な会合であったという。ケイヤクの言葉は古く、現代的な契約の語からはとらえきれない。かつてケイヤクでの決め事はお上の法に背いてでも守らねばならなかったという。

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寄り合い語り合い

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男たちのお茶っこ飲み。お茶っこ飲みは女たちだけのものではない。男たちのお茶っこでも山盛りの漬物と山菜の皿が並ぶ。

〈記録者の言葉〉


 升沢では、信仰と娯楽をかねた寄り合いとして、男女それぞれの山の神講が年二回行われていた。
 男の山の神講の場合、当日会場当番にあたる家「宿(やど)」に、参加者が米五合持参で集まり、全員が風呂に入ったのち、持参した米で餅を搗く。その後「山の神」の掛け軸を拝み、酒食の宴会となる。
 そうした決まった席にかぎらず、人々は日常的に気がねなく訪ねあい、漬物や山菜茸の大皿を前に、「お茶っこ飲み」を楽しんだ。冬のウサギヤマ(集団のウサギ狩り)の後は、男たちの鉄砲撃ち談義でにぎやかな「酒っこ飲み」となった。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「寄り合い語り合い」.pdf

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生き死にの形

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集落移転前に墓のシンを抜く。屋敷神のごく小さな祠でも、お移しするときには、神主をたのんでシンを抜いてもらう。祖先から家の神々まで、こぞってお移りねがうのである。

〈記録者の言葉〉


 升沢には、産婆や助産婦がおらず、妊婦に陣痛がきてから麓の吉田まで迎えに行っても間に合わなかった。出産にあたって妊婦を介助したのは、出産経験豊かな地域の女たちだった。彼女たちは「へその緒継ぎ」と呼ばれ、出産させ、産声を上げさせ、へその緒を継ぎ、胞衣を始末し、産後の母子を見守った。人が生まれるとき、欠かせない人々であった。升沢で病院での出産がふつうになるのは、昭和四十年代になってからという。
 仙台藩のころ、升沢には宗源院という寺院があった。しかし明治になって廃寺となり、死者があったとき吉岡から僧侶が山道を駆けつけるのは難しく、通夜も葬儀も埋葬も、升沢の人々だけで行った。それらをとどこおりなくとり行うしくみが、代々つづく「契約講」のしきたりだった。僧侶の読経にかわるものとしては、講の人々がみなで唱える「歌念仏」が伝えられていた。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「生き死にの形」.pdf

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子どもたち

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 升沢に遊びに来て雪の上で遊ぶ孫たち。升沢分校は、昭和四十年代半ばから児童数が減り、平成五年に閉校となった。ふだんは離れてくらす孫たちも、正月や夏休みは升沢の祖父母のもとに遊びにやってくる。

〈記録者の言葉〉

 吉田小学校升沢分校の前身は、大正期に早坂国男家の屋敷内の堂舎を借り入れた升沢分教場に始まる。「じいちゃん先生」が炉端に座り、まわりを囲む子どもたちに、炉の灰に火箸で字を書いて教えた。住み込みの先生のため、子どもたちは食器を洗い、米を研いで世話をしたという。
 荒川の丸木橋を渡って通わねばならない下原の子どもたちは、川の増水で橋が流されたり、冬場に雪が深くなると通えなくなった。また家の炭焼きの手伝いで休むこともあり、山や川で遊びほうけてさぼることもあった。学校に行かずに山川で過ごすことを、「山学校」「川学校」と呼んだ。
 升沢の子どもたちが、小学校高等科や中学校に通うためには、山をおりて吉田など麓の農家に寄宿しなければならなかった。親元を離れ、登下校のあいまに農家の手伝いをしながらの学生生活を送った。
 

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「子どもたち」.pdf

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展覧会の記録は下記のとおり、6つの記事に分割して掲載しております。ぜひ、ご覧ください。(本記事は④となります)

【記録① 全景〜水切落】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録② 山】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録③ 村】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録④ 人】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録⑤ なりわい】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として

【記録⑥ 手代木さんのこと 〜 感想】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として- 


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